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タイトルなし

ひさびさのnoteです。

やっと体調不良に加えて
抜歯して頭痛が続いていたのが止んだ。

いやー…
頭痛持ちの方って本当に大変なんだなと
思わされました。

大変なことです。


この猛暑やら、気圧変動やらに加えて
自分自身のバイオリズムのゆらぎがあり、
あらゆる不調和を起こしていたんです。

そこに少し元気が出てくると
不満が出てきて、
その不満が自分自身に向き、
やがて自分の周囲にも向く。
そんな自分に自己嫌悪、という。

そんな流れを経て
今朝はいろいろのゴチャゴチャから
解き放たれた感がありました。

やっぱり、単純ですが
不調な時には少しでも時間が出来たら
寝る、休むって
大切だなぁと思いました。


やらなきゃいけないことが
溜まりに溜まっていたから

動かなきゃ動かなきゃと
急き立てられていたけれど
勇気を持って休むことって本当に大切ですね。

そして、たったひとつのことだけに集中して
やり遂げるということも本当に大切。


それって自分の希望を
叶えてあげることを丁寧にやることでもあるし。

自分を満たしていなければ
外側との調和が取れないんですよね。

そもそも体調不良って
自分に無理をさせているからこそ
起きてくることなんだから
とにかく休む、とか

何を無理しているのかを明らかにして
ひとつひとつを丁寧にすることって
やっぱり大切なんだなぁって思いました。



大切、大切、って
さっきから使っているこの言葉。

辞書に乗っているような
本来の言葉の意味ではなくて
言葉の雰囲気からふと感じたのですが

切に思う、って
いろいろなことから
たった一つだけを切り離して
ひとつの対象のみを強く想うことなのだとすると

それは執着にも似ているけれど、
そのたったひとつを想い、感じ、やり切る

ということの先に
やっと全体性を取れるという
プロセスにもなるのかもしれない。


切に想う、っていうのは
身を切る程の想いというものが
本来の意味かもしれないけれど

全体からひとつのことを切り離すというのは
何であれ、痛みが生じることなんだよね。

その痛みというものは
生きているから感じるものであり
スパイス的な役割のようなもので
決して悪いことではなくて。

逆説的に言えば
たくさんの痛みを感じるということは
全体から切り離して物事を見ていることの
現れだったりもして。

いろいろと散漫していた想い
というものに対しては

ひとつの全体性を逸して
たったひとつのことを
やり切った、という納得感によって
次が開けていく、といった感じがしています。

つまり、全体性を取り戻すということ。
調和に戻っていくということ。



不満を抱いている時は
あくまで自分の内側にしか答えはなくて。

でも、その答えを求めるよりも
ただ自分を満たしていくと
答えがフワリとやってくる。
時にはガツン、と。

答えを求めている時は
物事への善悪に囚われてしまいがちだけど

囚われているときには
自分が自分を不自由にさせていることに
気づけていないのだから

まず、何に不自由を感じているのかを
気づいていくことで
解き放たれていくことばかりだと思う。


自分の中にある澱みが浮上してきたら
それを取り除こうとすることもいいけれど、

その行為そのものが空回りになって
さらに疲弊するという悪循環に陥るのは
よくあることだから

邪魔なものを取り除こうとするというよりも
自分が求めていたものをハッキリと
させてあげたい。





好き勝手、自由に書いて
誰かの益にならないようなことでも

こうして自己表現のひとつとしての
文章を書くことも

自分にとっては
とても意味深いものなのだと感じています。

格好良くないし
自分の理想ではないことでも
自分がやりたいと思ったことをやる。

周りを見渡せば
格好良くて理想的な人がたくさんいる。

そんな周囲と自分とを比較して
自分の望みを引っ込める、


引っ込めてしまっていたんですよ
ここ最近………!!


頭痛いしスマホで文字入力が
上手く行かないし
頭の中ゴチャゴチャだし

文章がスルスル出てこない。
つっかかる。気に入らない。
出したくない。

書いては消し書いては消し、
結局出さない。

やるかやらないかで
やらないほうが失敗しなくて済むという選択。

その思いが自分を不自由にしていく。

自分を引っ込めてしまうことが
得策になっていく。

その、やりたかったことが
どんなに小さな事だとしても

そうやって引っ込めた自分を
蔑ろにした思いの積み重ねが
自分自身との信頼感や安心感を損ねていく。

自分が自分であるということへの
安心感から離れていく。

その安心感の無い状態で
日々を過ごしていくと
自分に無理をさせてしまうことになる。

そんな日々だったように思います。 
ここ最近。



安心感を取り戻して
調和の中に戻されていくと
不満はもう影を潜めているんですよね。

何が不満だったんだっけ、って。

というか、その不満を野放しにする
心持ちではなくなっているし
不満を解消したいという方向性ではなくて

いてもたってもいられない
自分を突き動かすものに
身を任せているという状態になっている。

そして、その上で
外側での他者との交わりというものは

自分の可能性や望みを広く持つことへの
助けとなってくれる、
とてもとても有り難いものでしかなくなってきます。



こうやってブログを書いていたら
「やばい!ゴミ出ししてなかった!」と
焦ってパジャマのまま駆け出して
ゴミを持って外へ出たら

ゴミ回収のお兄さんとバッチリ
出くわした状態になり

ゴミを手で受け取って微笑みかけてもらい
髪の毛ボッサボサで
猫の毛まみれでどうしようもない
自分のパジャマ姿で恥ずかしかったけれど

そんなことよりも
その微笑みに心底感動してしまったんです。

もう、自分の恥ずかしさは
そこにはなかった。

お兄さん、ハチマキみたいなの
頭に巻いて汗だくで
一生懸命に仕事をしていて
わたしに微笑みかけてくれた。


自分のどうしようもなさに
目がいっている時って
こういう微笑みにも気付けなかったんだろうな。

以前、瞑想に集中ができなくて
苦しい思いをしたときに
「あぁ、集中できなくて苦しいんだな…」

という自分に対して
フワリと俯瞰して微笑みかけられた瞬間から
瞑想に集中ができるようになったことがあって。

自分が自分に微笑みかけるような
気持ちのなさ、余裕のなさっていうのは
本当に自分を苦しめているなぁ、と
気づかせてもらえました。



その余裕って、自分でしか
作ることはできないんだよね。

キリキリとした心持ちでいると
見えなくなっていることだらけ。

その見えなくなったものだらけの世界で
不満や不安にまみれて
もがいて足掻いて空回りして。

何かに感謝できている心の領域には
不満や不安は同居することができない。

そして、たったひとつの微笑みには
人の心に投げかけるもの、
波及していく力がある。

人との交わりって互いに
すごく影響を及ぼし合っていますよね。



でも、何に影響を及ぼされたいのかを
明確にしていないと
ただただ人に振り回されてしまうのだから

自分の生きたい人生、体験したいことを
明らかにして常に生きたい。

大海の中を、どこに進むのかもわからず
ただ溺れないように抗っているだけで
人生があっという間に終わってしまうのでは
勿体なさすぎる。

どこに進みたいのかが明らかであれば
波に自分を預けることもできるし
その波が助けてくれることだってある。

というか、自分自身が
その海そのものであるとすら信じたら
「ただ生きる」ということが、
やっとできるようになる。

ただ、生きるということ
それだけでどんなに素晴らしいことなのか。

そんな簡単なことが
いろんなことに目を回していると
見えなくなってくる。

きっと、五年後に振り返った時に
あんなことどうでも良かったのになぁと
思うことに気を取られている。

そんなのは嫌だ、って心底思えたらそれは
心が動き出している。


その心の動きを止めようとしているものに、
つぶさに気が付けたら
もう、心は自由さを取り戻して動き始めている。

自分の現在位置と
目的地をハッキリとさせることで
あとは流れのままに任せるような
余裕が出てくるものなのだと思います。

それは人生計画のような
大きなテーマでも良いし
ただ、食事をとる時のこと心構えでも
仕事をするときでも何でも、

自分は今どういう状態で
何を欲しているのだろう
そしてそれは本当に欲しいものなのか。
自分が在りたい自分の状態なのか。

そうやって、すべてのことに
気づきを入れていく

毎日毎日がそのレッスン。
あらゆる設定のもと
その設定を確認したり変更しながら
有り難い場に生きていんだなと思います。

何ひとつ無駄がなくて
捨てるところがない、糧になってくれる。

しかし、レッスンでありながら
常に本番ということも事実。

さぁ、今日はどんな一日を生きたいのか。 

そんな、一日の貴重な時間を
ここに訪ねてくれて
この文章を読んでくださって有り難いです。
ありがとう。

…なんて、クサイし重たいんですけどね
わたしっていちいち。

でもそんな自分でいたいんです。

自由に自由に、すべての人が
生きていけますように。








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