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何かをモノにするまで

リズム感を取ることが不得手な方は
リズムを捉えられていないから
リズムが遅れると思ってきたけれど

リズムを感じてから
ポン、と出すまでの
タイムラグは
運動能力的なものだったり

思考で「確信を得た」と
納得してから動くという
動きのクセだったり…

たとえば卓球のラリーを
テレビ中継等で見ていて

ポン、ポン、ポンと
タイミングよく返せそうな気になって
見ている、いち視聴者である自分。

では、実際にラケットを握り
卓球台の前に立ち
相手選手から繰り出される
球に対して反応できるだろうか。

空振り、空振り、空振りーーー

そのようになってしまうのは
当然なのかもしれない。

テレビで見ていたときには
できそうな気がしたのに。

だから、自分の成したいと思っていること
それをモノにするまでは
「できている人ならこうやってやる」を
やり続けることが
可能性を育てるコツ。

できたか、できていないかの
結果の評価は後回し。

物事をありのままに

人それぞれに
当たり前だと思っている感覚は違う。

だから「リズムを感じてください」と
伝えたとしても
あまりにも大義的過ぎて
真意が伝わっちゃあいないということ。

しかも、もうリズムを感じているのだと
自認している方に対して
「リズムを感じてください」って
伝え続けるのって
一休さんのトンチ状態。

気をつけていても
つい、これをやってしまう。

自分が納得できる言葉で伝えて
自分と同じように
相手にも納得してほしい、って。

やっぱり情熱のままに伝えていくと
共感したい、してほしいが
つい先走ってしまうから
フッとクールダウンも必要で。

あるあるネタで渡す

わたしが、相手に対して
リズムを感じてほしいと
伝える時には

「自分がリズムを感じているときは
どのように感じているのか
何を感じているのか」

それを内観して
細分化して言葉にして
伝えようとしてみて
伝わっていくものも
あると信じています。

それは思考を酷使するから
脳への負荷がものすごくて時にしんどい。

感覚の領域と思考って真逆だから。

入口はPOPでオープンに

誰もが共感できそうな
あるあるネタで伝える
前提を設定したら

どういう話の道筋にしようか
しっかり定まっていなくても
かならず伝えたいことを
伝えられると信じています。

意思決定は自分だけど
あとは神頼み状態。

話の入り口は
親しみやすく誰でも
入れるフリーな入口の城だけど
出口を目指さなければ迷宮入り状態

みたいな。

聞き手も話し手も。


意識とは
「意識する」ということを
「意識した瞬間」から深部にまで
走っていく。

むしろ、意識とは
すでに宿っているものだから

意識に「気づき続けていること」

それがシャーペンで
「トン」と打った一点に集中する意識
ミクロなフォーカスであったり

目に見えてんだか見えてないんだか
微細な微細なミストになり
溶けこんでいく感覚
マクロなフォーカスだったり。

ビューポイント
常に観自在、な。

意識も自由に。
俯瞰と、無我夢中と
全集中と、全あきらめと

パラレルにそれらが
同時に起こり続けている
観賞者であり、当事者であり。

言葉という檻

言葉にならないことを言葉にする
その昔、まだ言葉がなかった頃
「うーー、あーー」なんて
やっていたと想像する。

原始人の方々は
母音を使って想いを
発していたんじゃないだろうかと。
そのくらい感覚的な物に
振り切っていた「発声」というものに

「思考」の産物ゆえの
分離が功を奏して
「細分化」「固定化」である
「言葉」が生まれた。

聖書を開くと一番最初に
目にする創世紀のはじめの文章

「はじめに言葉があった」

これは

はじめに意識があった

このほうが本当にしっくりくる。

つまりは
神の言葉=意識。

その言葉を受け取れるのか、自分は。
受け取りたい。

受け取りたい、と祈り願い続ける。
それが「歌」なのだと思います。

何かをモノにするには

感覚を捉えてから 
身体で現すまでのタイムラグ

感覚を捉えたら反射的に
使えるようになるまでは
繰り返しの練習が必要。

繰り返しの練習っていうのも
努力根性忍耐を駆使して
行うタイプと

ただただ楽しくて、やりたくなって
何度もやるから
結果的に上達していた、というタイプ

極論に振り切ると、
この2種類。

前者のような訓練が好きならば
好きなだけやってほしい!

でも、そうでないならば
是非後者を選び続けていてほしい。

そして、歌うことを掴みたい
ギターを挫折したけどまた楽しみたい

そんな人に
ただただ楽しくやりたくなるコツを
お伝えしたいと願っています。

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