正しさという欲
昨夜はnoteを通じて素敵な方達と
会う事かできました。
夏の思い出です。
良かったなぁ…
勇気を出して会いに行ってみて。
その事が、まだフレッシュな感覚のうちに
書いておきたいし
先週、うちの生徒さんたちと
演奏したイベントについても…
書きたい。書いておきたい。
ああ…
あれこれ書きたいことが溜まっているのですが
昨日書きかけていた記事を
ひとまず投稿したいと思います。
あれこれ自分の感じたことを
書き連ねていたら
8000文字近い長さになってしまって
読んでくださる方には
大変な長さになってしまいました。
やー、伝えたいことというよりも
自己満足の脳内整理のようなものですが
もしよかったらご一緒ください…!
正しさという欲が
破壊するものについて、です。
◆
近所のスーパーへお買い物。
カートを転がしながらアレコレ
買い物カゴに入れて…
「あ!あれも買うんだった」
と思い出して、ふと立ち止まった。
その瞬間、後ろからドォーン!!
結構な勢いでぶつかられて
衝撃と痛みに驚いて、すぐに
「ごめんなさい…!」と振り返ると
非常に機嫌のよろしくない
還暦周辺の男性が
なんだてめぇ、このやろうバリの覇気を
巻き散らかされており
わたしのことなどお構いなしに
肩を怒らせてドスンドスンと
無言で通り過ぎて行きました。
あぁー…
わたしが、いきなり止まってしまって
悪かったんだな…
周囲を良く見て歩いていなかったから
いけなかったんだなぁ…
んーーーー……………
いや、、、、、
んーーーーー…………
なんだろうこのモヤモヤ感。
なんなんだろう。
ていうか
お前が悪いっていう感じを出されたけど
スーパーで歩いていて
急に止まることっていけないのかな。
え、悪いことじゃなくないか。
いや…
あの男性が前方不注意だっただけじゃないか
どうしてわたしが悪いみたいな
ことになってるんだ…?
と
ゴチャゴチャ頭の中で考えていて
ぶつかった直後に
「わたしが悪かったんだ…」という
自分を責める気持ちから一転…
「いや!悪いのはあの男性だ!」
と、ジャッジの矛先が相手に向かい出し…
んーーーーー………
すんごい違和感。
これ、なんだ?
わたしの中で当たり前にやってる
ジャッジ…。
なんだこれ。
気がついて止めようとしない限り
止めどなく暴れて、ものすごいうるさいぞ…と。
違和感が、気持ち悪い。
いや、誰が悪いかとか
それ突き止めてどうしたいの?と
冷静になってきて
もし、この激突事件が
わたしにとって感謝できるような
気づきをもたらすとしたら
どんな理由なんだろう…と
考え始めてみました。
そして、
「いや、わたしはどうしたかったの?」
「どうなっていたら、この不満を抱かなかった?」
と、ツッコミを入れていきながら
この一連の流れを振り返ってみた。
わたしは男性に激突された瞬間
男性へ失礼がなかったかを一番に気にして
ごめんなさい、と伝えたけれど
そんなものお構いなしに
男性は、不快な思いを
そのままこちらに向けてきたことによって
わたしはイラッとした。
ここで、あの男性から
「いえいえ、こちらこそごめんなさい」
なんて言ってもらえたのなら
わたしは気持ちを荒立てずにいられたのだろう。
だけど、起きたことはそうではなかった。
わたしは自分よりも相手を気にかけた。
相手はわたしに気をかけてくれなかった。
わたしが相手にしたように
相手にもわたしを気にかけてもらいたかった…
きっと、こういうことなんだ!
恥ずかしいぞー!これは!
わざわざ言葉にすると
甘ちゃん丸出しじゃないか!ひぃー!
そんなもんなんだな、まだまだ。わたしは。
認めよう。受け入れよう。
恥じて嫌いたくなる自分を
そのまま受け入れてみたい。
さて
この、相手次第によって
自分の気持ちに雲泥の差が生まれることに対して
「そういうことか!」と気づきがあった。
この( ゚д゚)ハッ!と気づいた瞬間
おっさn,いや、あの男性に
やっぱり感謝の思いすら湧いてきた。
◆
わたしは、まず
痛みや不快、怖いという気持ちが生まれていた。
あの男性と衝突した瞬間に。
それだというのに、
その気持ちを置きざりにして
相手を慮ることが正しさなのだとして
何の迷いもなく咄嗟に言動が相手に向かった。
これだ。
これだ、この自分の思いというものを
蔑ろにしておきながら相手を慮ることを
自動的にやってしまった。自分自身で。
相手が自分を蔑ろにした、
という気がしていたけれど…
そもそも、自分がやはり
自分を大切にできていないだけだったんだ…。
いやー、これは
前々から気をつけていたことなんです。
こんな話があってね
自分が生きていくのに困らない、
安心できるだけの田んぼを所有して
確保できていないのに
周りに田んぼを分けてあげてしまう様を
「たわけ」というらしいんですが…
このたわけ者が!ってやつですね。
わたし、正にたわけを
やってしまっていました…。
アクシデントがあったときに
自分の痛みに寄り添うだとか、労るとか、
自分に優しさを一切向けることもせずに
犯人探しをして、断罪せよ!と思考が暴れる。
その矛先は相手だったり、自分だったり
誰かしらを責めるということに
エネルギーを向けてしまうという、長年の思考グセ。
お会計を済ませて
商品をエコバッグに詰めて
歩き出した瞬間に気がついた。
あの男性が悪い、いや、わたしが悪い、と
正義を振りかざしている自分に。
◆
もちろん、ちょっとぶつかったくらいだとか
何の痛みも恐怖も湧かないような場合であれば
自分のことはさておき、相手を慮るということを
自然とやっていることに
何にも違和感は生まれないのだけれど。
自分が、不快感と痛みによる
違和感が強い状態であるのだというのに
その自分を無視して、当たり前のように
自分の正しさを表現してしまった。
勝手に身体が動いてしまった。
こういうことを一日の中で
自分でも気づかないうちに
当たり前のようにやっているんだろうな。
自分が正しいと思いながら
怒りを感じている時のパワフルさ…
この感覚って本当に危ない。
何の疑いもせずにエゴが大暴走できる
絶好の機会。
そして、そんな時って
どこか気分の良さすらもあったりして。
だって、自分の感覚に疑いがなく
信じ切っているんだから。
こんな時に自信というものを使いだしちゃってさ。
◆
ただただ、自分で自分の事を
理解して受容していないからこそ
周囲が自分を理解して受容してくれることを
求めたり、期待したり、
どうして相手は与えてくれないのかと憎んだり。
自分を蔑ろにした相手を嫌いだす。
こういうことを
やってしまうんですよね…。
いやいやいや
自分の事を蔑ろにするような
扱いをするような人を
自分の領域に足を踏み入れることを
許可した自分がいるのに。
その自分が悪い、とかそういう話ではなくて
「玄関完全に開け放して出掛けておいて、誰かが入って荒らしていった」と
憤慨しているような滑稽っぷりだという話で。
自分が自分を大切にできていたら
自分を粗末に扱いそうな
相手の醸し出す違和感って絶対にわかる。
臭う。察知できるはず。
きっと近づくことすらもしないと思う。
そんなことを許さないと思う。
自分を大切に扱っていたら
無駄に傷ついたり痛みを感じることを選ばない。
自分で自分を守ることが出来ているなら
安心安全、リラックスができているはず。
だって、人は常に
安心安全、リラックスを求めているんだから。
それが、自分の内側にあるのだという
平穏さは何にも代え難いはず。
◆
んー…
自分で自分を守るということを
「悪」だとか「無様」だとか
「悪趣味」だなんて思っている自分がいるんですよね…。
なんなんだこれは…
きっと、自分の事を守っているなぁと
軽蔑した大人に対して
自分は絶対にああはならないぞと
反面教師にした幼少期の思い込みがある。
自分を守ることは悪いことではないけれど
「自分を守る」ということの内訳に
人を傷つけても
自分さえ良ければいい、とか
利己的で無様な生き様、といった
謎に雑多なカテゴライズがされてしまっていて
「自分を守るということは忌むべきものだ」
と、思い込んでいる自分がいる。
それと同時に
自分を蔑ろにして、相手を優先することや
自分の意見を我慢することこそが
自分なりの愛情だとか
取り違えているところがあるようです。
なんと複雑に絡み合った思い込みの数々…。
◆
自分を満たしている、自分で自分の思いを
理解して、受容して、安心している上で
相手にして差し上げる行為は
自己犠牲ではないと思う。
自己犠牲を美徳としていると
絶対に幸せになれない。
これこそは、絶対と言って良いと思う。
自分が満たされているという
実感があるうちはいい。
でも、満たされていないのに
義務的に行う自己犠牲は
必ず不満が怒りとなり、怒りが恨みに変わる。
こわ。
自己犠牲なのか、行動の動機である思いに
見分けが付きにくいときには
自分が何によって動かされたかを調べたい。
「愛」か「恐れ」か、だ。
わたしが咄嗟に男性に謝ったのは…
きっと、恐れに駆られて出た行動に違いない。
ぶつかった衝撃で、考える暇もなく
咄嗟にごめんなさい!と言ったけれど
本当に心から男性に
愛を持ってごめんなさいと伝えて
様子を伺ったのではないんじゃないかな…。
ぶつかった直後の男性の放つ
不快感によって、わたしは
イラついていたからだ。
まず、男性が激突してきた後に
「相手に謝らないといけない」
「謝らないときっと事態は悪化する」
「この後、面倒なことにならないようにせねば」
といった恐怖に駆られて
自動的に動いてしまった自分がいた。
うん。きっとそうだ。
もしも、可愛らしい3歳児が同じように
激突してきて
わたしがごめんなさいと伝えても
不機嫌さを撒き散らしたのだとしても
わたしはイラついたり
誰が悪い、彼が悪いと、思考を
忙しくさせないだろう。
耐え難いような恐怖は感じられないだろうし、
自分にとって拒絶したいような
不快感を与えてきたりはしないだろうと
肌で感じるだろうから。
まぁ、親は何してるんだ!とか
思うかもしれないけれどね。
話を戻すと…
もしも、激突されたあとに
恐怖によってハッキングされた思考ではなく
本当の自分の求めていること気づけていたら。
そして、その自分が求めていることを、
まず自分で満たせていたら。
男性が自分に対してどのように扱うかという
言動によって、
自分がネガティブな思いに
右往左往するだなんてことはなかったと思う。
きっと。
やはり、相手は鏡であり
相手がどんなに不快な言動を
与えてきたとしても
自分が自分に対してどのように
扱っているのかがそのまま現されてしまう。
絶対的な法則として
自分はどのように扱われたいのか
まず、自分が自分に対してどのように
扱っているのか
その反映が起こるのが
人と人とのコミュニケーションなんだと思う。
相手には何の問題もない。
すべては自分の内側で起こっていること。
それを写してくれているのが
コミュニケーションの相手。
つまり、わたしは
自分で自分を蔑ろにしていた。
自分を大切にしてあげられていなかった。
おっさn、いや
あの男性には何の問題もなかった。
ん、いや、
あの男性が、わたしに起きている
問題を見せてくれた、といったところか。
これだ。しっくりきた。
◆
話は少し変わって…
きょう、たまたまTwitterで見かけた
「フレッド博士」という方。
今秋、来日されるのだそうで
その拡散としての記事を目にして、
大変興味深くて色々調べてしまいました。
この方は
狼、イルカ、ライオンといった野生動物や、
ストリートチルドレン、
ギャング、精神疾患を持つ方達といった
自分に攻撃をしてくる人と、
身体の言語を通して「愛、平和、調和」の中に
本気で遊ぶ、ということを追求し、
実践してこられたのだそうで…
そして、口から話す言葉は使用せずに
身体言語によって本気で遊ぶ、とのこと。
博士は、すべての生き物に共通する
ただ一つの言語がある、と。
それは、身体による言語で
「平和」であると説いたのだそうです。
その状態であると、本気で遊べるのだそうで。
逆に言えば、その状態でなければ
野生動物やなんかからは、ガブリと
噛まれてしまうこともあるそうです。
噛まれてしまった時、博士は冷静に
「気持ちと身体が一致していなかったから、ライオンは安全でないと察知して、噛みついたのだろう」
といったことを、話したのだそうです。
自分のすべてが一致していなければ、
身体表現は不自然になる。
その不自然さは、身体言語として伝わってしまう。
そういった実体験から
編み出されていったプログラム。
そのプログラムを体験できる
ワークショップなどをされていて
会場に集まる参加者は、涙、涙なのだそうです。
そうですよね、きっと
自閉症のお子さんがいる親御さんとか
如何にして、我が子に愛を伝える
コミュニケーションを取ったら良いか
五里霧中のようにして
苦しんでおられるような方には
博士の深い愛情と在り方が
深く心を揺さぶるのだと思います。
テクニックではなく、在り方を
伝える博士から発する、深い深い愛。
◆
そんな博士が大切にされていることで
素晴らしいと思ったのが
安全の作り方について。
それは自分を知ることなのだそう。
自分が何を感じているのかを
知る事なのだそうです。
それってつまり
常に気づき続けているという状態だと思うんです。
内観しつつ、瞑想状態。動的瞑想。
ここまで読んでいただいて
もう、お気づきかと思います。
自分に攻撃をしてくる相手に
愛を伝える身体言語を用いる…
それはつまり合気道と同じだなぁと。
実際、博士は日本の合気道にも
親しんでおられたそうです。
そして、この本気で遊ぶこと、
これを「オリジナルプレイ」という
プログラムにまとめている。
オリジナルプレイ。野生の遊び。
この、オリジナルプレイをするときには
博士はプレイヤーマットを敷くのだそうで。
そのマットを敷いたところに
近づいてきた相手以外とは
遊ばないというルール。
遊びたいという気持ちがあれば
自ずと近づいてくるだろうし
その気がない相手に
無理強いをしたりしない。
この、自分の領域であることを示す
マットの意味を
人間も野生動物も理解するのだそうです。
ここ領域は、博士ご自身の
領域であることを理解して
尚且つ、その領域に踏み入ることを
博士は許容してくれているのだという
コミュニケーションが生まれるということだと思います。
そして、ルールとして
大人は膝立ちもしくは四つん這い、など
立ち上がらない姿勢だそうです。
何故ならば、大人になると
身体がうまく使えていないからなのだそう。
そして、性別年齢職業などの
カテゴリをすべて外して遊ぶ。
つまり、ジャッジの無い状態でないと
本気で遊ぶことはできないということだと思います。
思考を外して、身体言語によって
ピュアなコミュニケーションをする。
◆
更に身体の使い方としては
相手を掴まない。体重をかけない。
そして優しく触れること。
相手が転がった時には、必ず後頭部に手を添えること。
これが実際に手を添えることが
できなかったとしても
相手が手を差し伸べて
守ろうとしてくれているだけで、
とても良い感覚を受けるのだそうです。
確かに…。
ごろごろ農園でも自然と
そのようにしてもらっているし、自分もやっている。
相手を大切に思うと自然と出るものだもんね。
◆
ここで、冒頭のスーパーで激突した件に戻りますが
この件を通して
自分がいま、何を感じて求めているのかを
自分が理解して満たそうとしていない限り
自分を安心させてあげられないのだと痛感した訳です。
そして、それは
フレッド博士の説いておられる
「自分を知ることこそが安心、安全を築く」
ということと一致したわけなんですよね。
自分を知らない、自分を感じていないまま
身体を動かすことはアンバランスな状態というか。
いや、自分を感じるというよりは
自分の感覚を信じるということ。
自分の感覚を信じて寛ぐということ。
その寛いだ状態でありながら
相手と組み合ったり
コミュニケーションを取るということは
自分自身が安心安全リラックスしており
愛を表現できている無邪気な状態であるはず。
その状態で相手と交わし合う何かは
ピュアで作為が無く
互いに心地良さの中に在ると思う。
その状態で生まれたものには
コントロールが無いから
互いに違和感や不快感が無い。
安心があるから、捨て身になれる。
安心があるから、勇気を出せる。
安心があるから、信じることができる。
まず、この安心という前提がなければ
人はクリエイティブさや積極性を
発揮することができない。
恐れによる緊張が心身に走っていると
動けなくなるし、動かないことが最善だという
選択をすることが自然だ。
だから、まずは自分。
自分の欲求を知ること。そして
与え続けること。満たされること。
自分を愛することができて
はじめて他者を愛することができる。
◆
わたしはここ数年
自分を大切にすること、自分を愛することとは
何なのかを自分なりに追求してきたんですが
うまくいかないし、できなかった。
知識としてはわかるつもりだけど
なかなか実践に落とし込めなくて。
つまり、自分の中に
自分を許しきれないものがあり
許容できなかったり、否定してしまったりで。
そんな自分を大切にしたいとは
心から思うことができない、けれど
自分を大切にすることで
始めて人生を愛おしむことができるのだと
知ってしまったのだから、
できるようになりたい…と
あれやこれや、とやってみたけれど
結局は、自分ができたことも
てきなかったことも
そこへの評価や判断はどうでもよくなって
自分は何を感じているのか
何を求めているのかを知りたいと
思えるようになった
その心の動きが始まってから
これが自分を大切にするこということなんだ、
という実感を得ることが出来たんです。
大切に思っていたらこんな事を
するんだろうな、っていうことを
こなしていったとしても
本当に心から大切に思っているからこそ
自然と動かされてしまうことには敵わない。
個人的な自分の価値観にとどまらず
自分が社会的に振る舞う側面や
ちょっとした思い込み…
とにかく、なんでもすべて
あらゆる全てが一致していると
自分の全てが力強く呼応した動きになる。
それは、瞬間的に
身体と心とを調えて「一致させるぞー」と
やりだすのとは全然違う。
◆
もう、コミュニケーションというものは
人と接する前から始まっているのだということですよね。
自分の思考と自分の身体と
あらゆるすべて
自分が、まず自分をどのように扱っているのか。
そしてどのように扱われたいのか。
この世界とのコミュニケーションというものが
健全なものなのか
そういった前提がある上で
他者とのコミュニケーションがある。
これはもう、会話術だとか
テクニックでは到底及ばないものだよね…。
でも、テクニックを突き詰めた先に
気づけるものがあったり
テクニックではどうしようもないのだ、と
絶望してから
初めて自分はどのように在りたいのか
真剣に向き合い始めることができたりもする。
心底うんざりしなければ
自分の思い込みを捨てることって
難しいんだよね。
わたしは、迷いのある自分に
心底うんざりしている。
これは良いチャンスかもしれない…!
あぁ、だけど
うんざりして、迷いのある自分を否定したり
禁止事項を並べ立てるのは違う。
そういった消極的なものではなく
積極的に、調和を求めて生きることから
外れたくないという想いのままにいたい。
自分の感覚を信じたい。
恐れへの対処という生き方や
過去の寄せ集めによる正しさを指針として
自動運転のように囚われて生きるのではなく。
そして、正しさを振りかざしている時
自分では気がついていない。
安心が欲しい、という枯渇した
痛みがあるからこそ
正しさを振りかざしているのだということに。
だったら
もう安心を求めている場合じゃない。
即、安心してしまうことだ。
安心できる材料がそろうまで
安心できないのでは
きっと間に合わない。来世に乞うご期待って話。
嫌だよそんなの!
正しさという欲に気づいたら
自分は安心を求めている。