掌編小説|『チンチン電車』
作:元樹伸
僕の街には今でもチンチン電車が走っている。
チンチン電車とは街中を走る路面電車のことで、車掌と運転手の間で行われる合図として鳴らす鐘が「チンチン」と聞こえるのでそう呼ばれている。僕たちが小学生だった頃も、チンチン電車は同じ場所を走っていた。
当時、小学四年生だった僕の登校班に美代ちゃんという女の子がいた。彼女も僕と同学年で、とてもおっとりした感じの子だった。
「美代ちゃんは少しのんびり屋さんだから、ちゃんと見てあげてね」と母親に言われていたので、僕は何かと彼女と接する機会が多かった。
「あれって、なんて言うか知ってるか?」
通学路の途中に走行中の路面電車が見える場所があり、五年生の男子がそれを指さして登校班の女子たちに聞いて回った。
「路面電車でしょ?」
班長の六年生が代表で答えたけど、下品な男子としては「チンチン電車」と言わせたくて「他に呼び方があるだろ?」と聞き直した。
「そんなの知らないわよ」
班長がしらばっくれると美代ちゃんが自慢げに「チンチン電車でしょ?」と答えて、男子たちは「女子がちんちんって言ったぁ」と盛り上がった。
「美代ちゃん、男子に乗せられちゃ駄目だよ」
「どうして? だってチンチン電車だよ?」
班長に諭された美代ちゃんがまたチンチン電車と言ったので、僕たちはそれが可笑しくて笑い出した。
その夜、今朝の話を家族にすると高校生の姉が怒りだした。
「圭介、女の子にそんなこと言わせちゃ駄目じゃん!」
「でも聞いたのは僕じゃないし」
「ほんとガキね。面白がったなら同罪でしょ?」
「なんでだよ?」
謂れのない責めだと思ってふくれていると、洗い物が終わって台所から戻った母親が僕の正面に座って言った。
「お母さん、圭介に言ったよね。美代ちゃんのことを見ててあげてねって。だから今度そういうことになったら、あなたがちゃんと止めてあげるのよ」
「わかったよ……」
いつも笑顔を絶やさない母親が神妙な顔をしていたので、僕はその言葉を素直に受け入れて頷いた。
「なあ、あれってなんだっけ?」
翌朝、例の五年生が路面電車を指しながら美代ちゃんに聞いた。
「いいかげんにしなよ!」
班長が注意したけど、彼らは懲りずに同じことを美代ちゃんに聞き続けて、彼女はその度にチンチン電車だと答えた。
その様子を見ていた僕はだんだん嫌な気分になってきて、ついには「班長がやめろって言ってるだろ!」と叫び、上級生を相手に掴みかかっていた。
放課後、僕は喧嘩の件で呼び出されてこっぴどく先生に怒られた。ぐったりしてそのまま下校すると、家の前で美代ちゃんに出会った。
「圭介くん今日は遅かったんだね」
「喧嘩したから先生に怒られたんだ」
僕と美代ちゃんはご近所で親同士が仲良しだったから、こうして二人で話をすることは珍しくなかった。
「私のせいで、ごめんなさい」
「美代ちゃんは悪くないよ。とにかく明日からは男子にチンチン電車のことを聞かれても、絶対に答えちゃ駄目だからね」
僕が念を押すと彼女は少し考えてから「わかった、圭介くんが嫌ならもう答えないよ」と言って微笑んだ。
あれから十年後。
中学時代の同窓会があったので久しぶりに地元へ戻った。少し早めについたので実家に立ち寄ろうとしたとき、買い物帰りの美代ちゃんを見かけた。
「圭介くん、久しぶりだね」
「美代ちゃんは元気だった?」
二人は久方ぶりの再会を喜び合って、懐かしい街の中を並んで歩いた。
高校卒業後、僕は上京して独り暮らしを始めたけど、彼女は今でも実家にいるみたいだった。
「たしか圭介くんが喧嘩したのって、この辺りだよね」
路面電車が走る通学路に差しかかったとき、美代ちゃんが僕に聞いた。
「覚えてるよ。チンチン電車事件だろ?」
「そう、チン……じゃなくて路面電車」
彼女が言い直したので僕たちは笑い合った。
「あのときはね、チンチン電車って言うと圭介くんが面白がってくれたからつい調子に乗っちゃって。でも今思い出すと本当に恥ずかしいよ」
「えっ? じゃああれは僕のためだったの?」
「うん、あの頃の私って健気だよね」
それから彼女は今度の休みを使って東京へ遊びに行きたいと言った。
だから僕は「そのときはどこへでも案内するよ」と答えて、別れ際に美代ちゃんと固い握手を交わし、次の再会を約束した。
おわり
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。