これを読んでからもう一度「君たちはどう生きるか」を見てほしい
先日のレビューを知り合いに見せたらいろいろな人から「もっと分かりやすく書け」と言われたので、本作についてのさらに具体的な解釈を書いておきます。もちろんこの映画はいろいろな解釈があってしかるべきと思いますので、あくまで下記は「自分はこの解釈でもっともこの映画を楽しむことができた」という話です。ご参考ください。
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↓ 以下ネタバレ注意
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本作では宮崎駿の中にいる2つの人格が、作品中の別人物として描かれています。2つの人格とは「アーティスト」としての宮崎駿、そして「ひとりの人間」としての宮﨑駿です。この構造は時間軸方向にもマッピングされていて、アーティストとしての宮崎駿は今の自分であり、ひとりの人間としての宮﨑駿は若い頃の自分でもあります。
まとめると次の通りです:
主人公
他者と生きるひとりの人間としての宮崎駿, 昔の宮﨑駿, 若さの象徴
大叔父
孤高のアーティストとしての宮崎駿, 今の宮崎駿, 老いの象徴
その上で本作をとらえると、本作は「大叔父の世界の崩壊」つまり「アーティストとしての宮崎駿」が終わる物語となり、作品全体が宮崎監督の引退宣言となっています。大叔父のいる塔はスタジオジブリであり、その中に広がる形而上の世界は宮崎駿の認知するジブリを中心とした表現者たちの世界です。物語ではその世界に、主人公(若い頃の自分・人間としての自分)が入ってきます。そして自伝的な冒険の末に、アート的発想の根幹に捕らわれていた「母」を取り戻します。さらには、世界の中心を継いでほしいという大叔父(今の自分・アーティストとしての自分)の願いを断り、自分の世界に閉じるのでなく、仲間と生きるひとりの人間として世界に帰ることを選択しました。
また、上記の解釈により「君たちはどう生きるか」という作品タイトルの意味が見えてきます。ほとんどの人が「僕はこう生きたから、君たちはどう生きるか、考えなさい」という上から目線に聞こえるかと思いますが、本当の意味は『「君たちはどう生きるか」という本によって導かれた物語』というものです。
吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」はざっくり言うと、ある少年が「自分を中心として世界や他人が存在する」という考え方から「世界の大勢の中のひとりとして自分が存在する」という考え方に変わる物語です。
作品中、主人公(=若い頃の宮崎監督)が同書を読んで涙するシーンが登場します。このとき主人公が「世界の大勢の一部として自分が存在する」という考えを持ったことで、物語の後半で大叔父の願いを断る展開となります。つまり、大叔父のように自分の世界の中心として生きることよりも、大勢の人間の中のひとりとして生きる(仲間と共に生きる)選択をしたのです。
そして、宮崎監督自身は子供の頃に同書を読んで感銘を受けています。監督の引退とは「世界の中心としての自分=ジブリの監督としての宮崎駿」から「世界の一部としての自分=ひとりの人間としての宮﨑駿」に戻ることですから、この選択は物語と同じ構造になっています。
つまり、本作は『「君たちはどう生きるか」という本によって導かれた物語』であり、それは宮崎監督の人生の物語でもあるのです。
なお、エンドロールやポスターでの宮﨑監督の表記が、過去作品で宮"崎"であったのに対して、本作では宮"﨑"(たつざき)になっていることが話題になっていますが、「アーティスト」のほうは宮"崎"、「人間」のほうは宮"﨑"として漢字の違いで書き分けられてるのだと思われます。さらに、エンドロールで息子の宮崎吾郎氏の名前が登場しますが、そこでは宮崎姓となっていました。そこからは、宮崎監督が息子さんを「アーティスト」として認めているor期待している暖かい気持ちも、読み取ることができます。本作公開日の金曜ロードショーが宮崎吾郎氏のコクリコ坂だった理由もそのあたりにありそうです。
もし「この解釈はいいな」と思った方は、ぜひもう一度映画館で見てみてください。本作中の冒険が、宮崎監督の中での葛藤や人生の選択として感じられ、実に深みのある作品であることがわかると思います。
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