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【没った小説】翡翠(かわせみ)

「そうか、もう5時限目になるのか」
 時の流れは早いものだ。この世界に来てから、果てしなく長く感じていた時間は刹那のように過ぎ去っていく。
 おや、申し遅れてしまったね。私はクロノス。全世界に共通する時間、絶対的時間を管理する組織の長だ。
 数年前、複数の世界線を巻き込んで起きた大規模な時空の歪みによって神話の世界から人間界に飛ばされた神々の一柱と言って、伝わるだろうか。
 現在、私は人間界にある学園で学生生活をしている。
 なぜそうしているのかというと、度重なる観測と調査の結果『空音学園』という学校に事件の元凶がいるとの情報を得て原因究明のために編入したから……だが。もう事件も飽和しているし人間界も楽しいからここにいる、と言ったら言い訳になってしまうだろう。

 これは学園での生活にも慣れ、生徒たちの中にもしっかりと馴染めてきた、冬の日のことだ。
 いつも通り昼休みを終え、5時限目が始まろうとしていた。5時限目は美術か……今日は他のクラスと合同で、2月に開催される連合美術展の作品を作ると聞いていた。
 連合美術展のテーマは「心の風景」だ。自分自身を風景に例えて描いたり、思い出の風景を描いたりして、自分自身と向き合うというテーマのもと制作するのだという。
 心の風景……か。風景画は少なからずとも元いた世界ではあったような。人間の子どもが、私への感謝の気持ちで『公園』の絵を捧げてきたこともあったな。
「やっほーノスぴ、一緒に絵描こ」
「クロノスも、一緒にやる?」
おや。ゆきひことターナではないか。
 ……そうか、もう作業に取り掛かる時間なのだな。そうだな。せっかく誘われたことだ。ゆきひこ、ターナのふたりと共に作業をすることにしよう。

「心の風景ってなんだろ、そんなこと言われたって思い出の風景とかまだなくない?」
 ターナは頭を抱えながら、メモにぐしゃぐしゃとなにかを書いている。
「それに、自分自身を風景にするのって難しそうでなんかね」
「心といっても、いろいろあるな。性格、感情、それに、夢も心のひとつではないか」
「夢かぁ」
 なにかいいことを思いついたような顔をして、口を開いたゆきひこは、今朝見た夢の話をはじめた。
「今日の夢さぁ、めちゃくちゃ面白かった。友達と格ゲーやってたらなぜかキャラクターたちが戦うのをやめて突然車に乗り始めて。別のゲーム始まっちゃったんだよね。笑ってる声が夜中に記録されてた」
「なんだそりゃ」
 夢といっても、将来の夢という意味で言ったつもりだったが、もしかして寝ている時の夢と思ったのだろうか。おもしろおかしい夢だ。
 だが、それを絵に描き起こすのも楽しいだろうなと納得するようにくすっと笑った瞬間、私の頭にあった記憶が急に呼び起こされた。
 それは、この学園に編入したばかりの頃に見た、鳥の夢だ。
 カワセミ、という鳥が飛んできた夢だ。宝石の翡翠の由来にもなっている青い鳥が、私のもとへ飛んできた夢を。
 手元にある物語のネタ帳を、そっと開いた。懐かしいな。涙の跡が残ったこのページに、夢の内容がこと細かく書いてある。
 あの日見た夢を、風景にするために。少し、この夢を思い出していこうか。

 初夏のある日。
 まだこの学園に編入して間もない頃だ。潜入捜査のためとはいえ、いつも見ているはずだった人間たちの真似をするのにも一苦労するほど、私は青かった。
 少しずつとはいえ、人間界にいると人間の色に染まっていく。不安も覚えるし、時に慌てたり、退屈になったり。
 こんな感情は、元いた世界で感じることはなかった。この瞬間、人間はとても感性豊かな存在だと気づかされた。
 そして……人間界に辿り着いて見た風景の美しさに、心が惹かれていったのを、鮮明に覚えている。
 風に揺れる木々の音。吸い込まれるほど青い空。
 私が元いた世界は、外に出たとしても空虚が続いていて、広いだけのなにもない空間が続いていた。
 時間という無の中、直さないといけない小さな綻びからひっそりと見ていた人間界の風景。
 この世界の風景はこんなにも美しく、切なかっただろうか。
 他の神々は人間界へ『堕ちる』と言い、人間界へ行くことを恐れていた。だが、こんなにも美しい世界へ堕ちると表現するのは、あまりにも酷すぎる。
 そんな素晴らしいこの世界で……はじめて微睡みを覚えた時のことだ。
 微睡みというか、昼寝と言うのかな。とても心地よかった。組織長としての使命や、生きづらさといった軛から解放されたように穏やかな時間が流れていた。
 目を閉じて、私は夢想した。穏やかな日差しや、小鳥のさえずり……私が気づくことのなかった不安や葛藤が、待ち望んでいたものを。

 物思いにふけってから数分後。私は知らないところにいた。
 人間界のことをなにも知らなかった私はすれ違っていくたくさんの人々に驚き、怯えていた。
 はじめてのことに戸惑い、泣き出してしまった。けれど、気づいた人がいても声をかけてくれることはなくただ通り過ぎていくだけの冷たさにほんの少し怖さを感じて縮こまってしまった私の前に、一羽の鳥が飛んできた。
 見たことの無い鳥だ。ターコイズブルーの翼、オレンジ色のお腹……この鳥は、なんという鳥なのだろう。興味からそっと近づいてみるが、逃げる気配を感じなかった。おかしいな。鳥に限らず動物は、近づいただけで警戒し、逃げてしまうと聞いたのだが……
 震える手をそっと差し出してみる。すると、鳥は私の手に乗った。
 本当に、野生の鳥なのか? と不思議に思って首をかしげた私に共感するよう、鳥も小首をかしげて私を見つめる。
 しばらく見つめあっていると、鳥はなにかを伝えるようにチイチイ、と鳴き始めた。
「どうしたの」
 私が声をかけると、鳥はチイと鳴いて飛び立っていった。この先にいいものがあるよ、と言いたげな顔をして。
 私は鳥に誘われるがままに後を追った。木々を伝い、飛んでは止まり、止まっては飛びを繰り返し、気がついたら私は街中を抜け出していた。
 息は切れるし、脚も痛い。待ってと言っても鳥は待ってくれない。きっと今を逃したらもう見れないものなのかな。
 そう自分に言い聞かせ、鳥の後を追い続けると、そこにあったのは――

「ここは、どこ」
 見たこともない世界。さっきまでいた場所とは、まったく異なる光景が広がっていた。
 美しい。
 はじめて人間界に来た時に見たような、絶景だ。青々とした木々に、穏やかに流れる川の水。なにもかもが私の目には素晴らしく見えた。
「ねえ、ここは」
 振り向くともう鳥はいなかった。鳥を探すように前を向いたら、今の私とよく似た人がそこにいた。
「ここは、ヒスイ池」
「ヒスイ池?」
「君は、道に迷ってしまったのかな」
 ヒスイ池。喋り方も、雰囲気も私によく似ている青い目をしたミディアムボブの男性はそう言う。彼もまた、この世界へと迷い込んでしまったのだろうか。
「この場所はとても美しいな。ずっといたいと思えるくらいに、ね」
「そう……だな」
「ここで出逢ったのもなにかの運命か――もし君が嫌でないなら、私と共にこの大自然を楽しまないか」
 その言葉を、私は疑うことなく受け入れた。

 私たちは、心惹かれるままに自然を堪能した。
 無我夢中ではしゃぐ子どものように、純粋な気持ちでいっぱいだった。軛を外すことが、こんなにも喜ばしいことだっただろうか?
「ははは、水ってこんなにも冷たくて気持ちよかったんだな」
「隙あり」
 お互いに川の水で服がびしょ濡れになったり、土にまみれてぐしゃぐしゃになりながら笑いあった。いつもなら嫌なはずの服の汚れも、この時は全然気にならなかった。
 しかし、楽しい時間は長く続かなかった。彼がもう時間だなと呟いた瞬間、いきなり私を抱きしめたのだ。
「絶対、大丈夫だからね」
 耳に伝わった声は優しく、消え入りそうなほど儚かった。でも私は、その言葉の意味がわからなかった。なにが大丈夫なのだろうと問いかけようとしたが、その瞬間私はヒスイ池から寝具の上に戻っていた。
「夢……か」
 これが夢だと気づいた時には、私の目からは一粒の雫が伝っていた。
 鳥は、どこへ行ったのやら。
 そしてなぜ、私は泣いているのか。
 その理由はわからないけれど、確かにあの夢は幸せを運んできてくれた。楽しい、嬉しいという気持ちを。
「絶対、大丈夫だからね」
 なぜかその言葉に救われたように、私の心の荷は軽くなっていた。
 気づいてしまった。今まであった生きづらさを。私が、今まで無理をしていたことに。組織のトップに立つことの責任感や、常にクールで大人っぽく在りたいというこだわりが、自分の首を絞めていたのだと。
 常にクールでなくちゃいけないなんてことは、なかった。私はこんなにも純真な気持ちになれるのだなと、気づいてしまった。
 ――私は望んでトップに立ったわけではない。最初こそ幸せだった。しかし、私は組織を統率することに囚われすぎて、次第に生きる意味を見失ってしまったのかもしれない。
 こんなことで、生きる意味を失っていいのか。その問いかけに答えるようにポツリ、とつぶやいた。
「もう、無理しなくていいんだな」
 その日から私は、ありのままの私を、受け入れることを選んだ。

 ノートにある涙の跡を見て、また涙ぐむところだった。でも、ちょっとだけ恥ずかしいから口元を綻ばせた。
「ノスぴどうしたの? 楽しいことでもあった?」
「ああいや、なんでもないさ。ちょっと昔のこと思い出してただけ」
 その日以降、鳥の夢は見ていない。けれど、この夢を見てから、ありのままの自分をさらけ出すことができるようになった。
「絶対、大丈夫」
「なにそれ」
「私を救ってくれた言葉だ」
 不安な時や泣きそうな時は、この言葉を呟いてみる。こうして今穏やかな気持ちでいられるのも、カワセミ、及び彼のおかげなのだろうな。
 それ詳しくと言いたげな顔でゆきひこが見つめているが、なんでもない、と返して私は絵を描き始めた。
「……ありがとう」
 聞こえない声で呟き、筆を進めた。
 私を救ってくれた愛しいあなたへ、この想いが伝わるように。
 この感動を、ずっと忘れないために。夢の中で見た風景を思い出しながら、今この絵を描いている。

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