『スポーツは教育の一環』に違和感しかない
国際人権NGO(非政府組織)のヒューマン・ライツ・ウォッチが先日発表した報告書、「『数えきれないほど叩かれて』:日本のスポーツにおける子どもの虐待」を読み、日本のスポーツ現場がこの有様でよく五輪開催と言えるなと思ってしまった。
何故に日本のスポーツ現場から暴力が無くならないのか?その原因の一つに、『スポーツは教育の一環』という文化にがあると私は思っている。
そもそもスポーツ(競技)はスポーツであり、教育は教育である。それなのにスポーツが教育の一環になってしまうのが違和感しかない。
これは恐らく「スポーツを体育」と訳した明治時代にミスった負の遺産が一つの要因だと私は考える。
「私は競技を通して◯◯を教えている」
みたいなことを言う指導者は少なくないし、それを支持する風潮に私は反論したい。
競技を通して教わったり感じ取ったりするのは選手であり、それを指導者が"教えることが出来る"と思っていたら厚顔である。
そして『スポーツは教育の一環』の最大の問題点は、何でも"教育にすり替えられる"ことではないか?
だからスポーツ指導の現場で暴力が横行しても、それをも教育の一環として必要だったとすり替えられる。
教育の一環として暴力が成立してしまい、指導者に罪の意識が無いのだから大問題である。
日本のスポーツ現場から暴力を根絶するには、今以上に厳しい厳罰を徹底するのは不可欠だろう。
しかし、この有様にスポーツ庁って何をしているのか、存在する意味があるのかな?
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