【極東見聞録第一部】歩行という手段を、目的にすり替え、意味を見出すだけで人は救われる【ログ】
※山は大抵誰かの土地であり、所有物です。そこに生えている山菜や樹の実等は、その山の所有者のものですので無許可で立ち入ったり、採取したりすると法で罰せられる可能性があります。
新緑に染まる山々――新緑に染まれば明るくなる
多くの人間においてストレス解消と言われると何を思い浮かべるだろう。軽い運動とかカラオケとか色々なものが上げられるだろうが、私は食事であると思っている。
ストレスを吹っ飛ばすというよりかは、ストレスをコントロールするという意味合いが大きいかもしれないので、ストレス解消という問いに対する答えとして理にかなっているかは微妙だが、人間は食事によってある程度のストレスを解消できるだろう。
自然を欲していた私に友人が提案してくれたのは山菜を取りに行くことだった。
生憎五月中旬で、山菜の時期は過ぎているのではないかと思ったが、彼曰くまだ全然生えていると言う。そこで私と友人は小さめのビニール袋を手に外へと繰り出した。
檜原の五月は暑寒い。暑寒いとはどういうことかと思うだろうが、要するに気温自体は肌寒いくらいなのだが、日差しは結局五月の日差しなので、山登りなどで油断すると大汗をかくと言ったところだろうか。
厚着というほどではないが、そこそこ体を温められる格好で扉を開けると、変わらずに雄大な山々が広がっているのだが、何を隠そう五月は新緑の時期だ。緑でも明るい黄緑色の葉を付けた木々が煌々とした日に照らされ、まるで空気を緑がからせるように光る。
生来花粉症と戦ってきた自分からすると五月の山、森なんてものは憎悪の対象でしかないのだが、なぜかその時の私の中には憎悪なんて感情は一つとして存在していなかった。
この緑から単純に癒しという言葉では言い表せない喜びを感じていたのは確かで、強いて言えば受容と言おうか。
社会という「当たり前」の枠組みから逃げ出した自分を受け入れられない私より先に受け入れてくれているような感覚。それは確かに私の前を歩く、ただ毎日を楽しく過ごさんとする友人の助けがあってのことはわかっているのだが、現実主義の私ですらその自然の母性のようなものを感じざるを得なかった。
誰が言ったか母なる大地とは言いえて妙と言ったところだろうか。
山は川崎より険しい
四月に入社した会社からは社用携帯としてiPhoneが支給されていた。Windowsユーザーで、パソコンを多く利用してきた私からしたら世間の同調圧力に屈してiPhoneを使う必要はない。
だから初めて触れるiPhoneがその社用携帯で、iPhoneは初期から様々な便利なツールが搭載されているということをその時に知った。特によく見ていたのは――もうよく覚えていないのだが、健康チェックアプリのようなものに搭載された万歩計だった。
営業職として入社した手前、サラリーマンの時は街中をただひたすらに歩いていた。あそこのお店は営業した、あの店は先週入ったと、私に割り当てられていた川崎というエリアの駅周辺のブロックをしらみつぶしに、恐らく全ての店に営業として入ったのではないのだろうかと思うほどに歩いた。
毎日毎日二万歩近く歩いていた私の革靴はすぐに悲鳴を上げ、気に入って使っていた革靴はすぐにダメになる。
だからこそ山を歩くとしても、毎日あれだけ歩いていたのだから意外とすいすいと登れるのだろうと思っていた自分を今になると愚か者だと嘲笑したくなる。
山は険しい。
何より舗装されている道路がどれだけ感謝すべきものであるのかというのをすぐに感じた。かつての記事でアスファルトの足を押し返すような感触が嫌いだと言った内容を書いた覚えがあるのだが、歩くと言うことにおいて舗装されている道がどれだけ有難いことか。
土の道はまるで自らの足を引っ張ろうとする悪霊の様にその歩幅を鈍らせ、土に同化した石を踏んでは、足を挫きそうになる。
でもその歩いていると認識できている感覚が、私は好きだった。なんて言おうか。アスファルトの道では歩くと言う行為が当たり前で、目的地に着くための手段でしかない。
しかし山における歩行は、それ自体が目的になっており、歩くと言う動き自体を楽しむことが出来る。歩幅を短くした方が疲れにくいとか、あそこの道より、この道の方が歩きやすそうとか、ここを踏んだら危なそうとか。義務的に足を交互に出すアスファルトの上の歩行とは違い、歩くことに意味を見出せるのが山の中だった。
もちろん今回の目的は山菜だ。だから登山やハイキングの様に山を歩くこと自体が目的ではない。登山やハイキングも歩くことが目的ではないかもしれないが。
それでも遠くで聞こえる動物の声は何の動物なのかとか、この野草は食べられるけどあまりおいしくないとか、顔に蜘蛛の巣が引っ掛かって気持ち悪く顔を拭う感覚とか、山は歩くだけで色々な体験をもたらしてくれた。
しかも一人ではなく、ここら一帯を縄張りにしている猟師がついているから、無料の山岳ガイド付きだ。
リフレッシュをネットで調べると「気分を一新すること」、「元気を回復すること」と出てくるのだが、まさにこのリフレッシュ以外に私に当てはまる言葉はなかった。
川崎を歩いている頃はただただ疲弊する毎日だった。それが山を歩いていたら、疲労感で言えば川崎より疲れていると言うのに、歩けば歩くほど癒されていく。
猟師の友人は心の有り様をゲームにちなんで上手い表現をしていた。体力的に疲れているときはHPが足りない。精神的に疲れているときはMPが足りないと。
山で歩くと言う行為は明らかに私のMPを見る見るうちに回復させていった。
もちろん山菜という回復アイテムで、その後に体力も回復することになるのだが、その話はまた次に話すとしよう。
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