【極東見聞録第一部】山菜の天ぷら、竹の子の炊き込みご飯【ログ】


※後編になりますので、前編の「【極東見聞録】歩行という手段を、目的にすり替え、意味を見出すだけで人は救われる【第一部】」をご覧ください。

山の宝は地べたに落ちてる

 私が食べた山菜はノビルにヨモギ、ヤマウド、ミツバだった。彼らがどんな見た目で、どこを摘めばいいか。それは今でも手に取るように覚えている。

 ノビルの見た目は少しニラっぽく、ニラっぽいなら水仙にも似ているから気を付けなければいけない。
 ヨモギは春菊に似ていて、茎や葉に細かい毛のようなものが生えている。
 ヤマウドは少し赤みがかった葉が特徴的で、芽を取ると仄かに柑橘系の香りがする。
 ミツバは文字通り三つに分かれた葉が特徴的だけど、茎に棘が生えた滅茶苦茶見た目が似ているやつがいて、そいつを間違えて摘もうとすると、結構指が痛くなる。

 その時に食べたのが初めての山菜たちも、一年近く経った今ですら鮮明と思い出せるのはやはり彼らが自らの糧になっているからだと言うのを強く感じる。

 私はどこか食事に信仰的なものを有していて、特に自らが採集、解体、獲得したものについてはより深くその食べたものの姿を刻み込むように食す。もちろん若気の至りで阿呆のように飲んだ酒にかまけて、口にしたあらゆる食材を下水へと無駄にすることも多くあるが、基本的には自らの体になるものたちには普通の人以上の感謝と敬意を払っているつもりだ。

 友人であり師である猟師は、そんな考え方は人のエゴでしかないと一蹴していたが、私はその食に対する信仰というものを捨てきることが出来なかった。やはり汗水流して山から採集した山菜は美味いし、体験というものを加速度的に美化してくれる。

 私は食事の美味いまずいは雰囲気が八割近くを占めていると思っていて、誰と、どこで、どのように食べるかがかなり食事のより良さを決めると思う。

 例えば冬キャンプに冷えた体を摩りながら焚き火に当たり食べるカレーヌードルは、その瞬間どれだけ拘ったカレー屋のカレーより美味いと思うし、嫌いな上司と行く居酒屋で出るアツアツのから揚げは冷凍から揚げに劣る。

 山菜が美味かったり、食材の中で羨望の中にいるのはそういった事柄が深く影響しているのだろう。スーパーで買うにしても、山に生えていたことを想像し、本当は取りに行きたいと自然に思いを馳せながら食べたり、何より自らが採ってきた山菜は心地の良い疲労を思い出しながら噛み締めるからより味が良くなる。

 それを共に歩いた友人とあそこの坂はきつかったとか、次はあっちの方に行ってみようとか、話に花咲かせながら語る飯は格別だ。

肌寒い五月に薪ストーブを焚きながら竹の子の灰汁を抜く

 竹の子と言うと土から顔を出す前に収穫するイメージがあるだろうが、個人で食べるようなものでそんなこだわりを持つ必要はない。既に一メートル近く頭を出した竹の子を根元からへし折って、肩に担ぎ、持ち帰る。

 竹の子の表面は棘というか産毛のようなものがびっしりと生えていて、それを触ったことで少し手がかゆくなったことを覚えている。

 大きな竹の子を持ち帰り、それを全て食べてもいいと言う幸福感というのは、まるで焼き肉の食べ放題のようなワクワク感があるとともに、こんな膨大な量の竹の子をこれから灰汁抜きしなければならない果てしなさに心折れそうになる。

 何より私がお世話になっている友人の家は、一口の電気コンロであり、大量の竹の子の灰汁抜きをする場合、そのコンロは竹の子に独占されることになり、取ってきた多くの山菜を調理することが出来なくなる。

 そんなことで頭を悩ませている私の横で、友人はせっせと段ボールやら枝薪やらを、黒い四角い箱へ放り投げていく。そしてその中にマッチを一本ぽいと投げ捨てるとその火は段ボールから枝薪へと伝播していき、煌々と光る炎を灯した。

 その黒い箱こそ、田舎暮らしの定番とも言える薪ストーブであった。これを読んでいる人は五月に薪ストーブ? と思うかもしれないが、この日は幸か不幸か五月とは思えない寒さを抱える日で、大量の竹の子がなくとも薪ストーブは必然だった。

 大量の竹の子を入れた寸胴鍋をその薪ストーブの上にどんと置き、その灰汁抜きを友人がしてくれている間に、私は友人と採ってきた下処理や調理を始める。

五月の平日の夜に山菜の天ぷらとビール

 本来ならば夕方くらいから「平日の真昼間なのに酒飲んでるよ!」と、ニートの特権を行使してやろうと思っていたが、生憎下処理に思いの外時間がかかり、夜に酒というどうってことのない状況に落ち着いた。

 火をかけた鍋の中には既に沸々と泡を上げる油が準備されており、今か今かと衣の付いた山菜を油すらも待ち望んでいる。

 そこでまず一番採ってきた量の多かったヨモギに天ぷら子をつけて揚げることにする。

 青々とした葉に、まるでドレスの様に真っ白な衣を付けた状態で油の中に放り込むと、じゅわっと泡が湧き上がると同時に、ぱちぱちという油がものを揚げているのがわかる音がし始める。

 野生の山菜は市販されている野菜より強い。それは歯ごたえが強かったり、少し繊維質だったりするので、衣がきつね色になって、ものが浮かんできてももう少し我慢して揚げ続けた。

 衣がきつね色と焦げの間くらいの色になったら山菜を揚げ、油を落として、まずは素材の味を確かめるために塩のみでヨモギの天ぷらを楽しむ。

 サクッという天ぷら特有の軽い食感と共に口の中で文字通りヨモギの香りが豪快に広がっていく。

 まるで車から降りた瞬間に海風が一気に吹き付けてきて、海に来たことを自覚するように。

 山のものに対して海で例えるのはどうかと思うが、何よりも山菜の天ぷらで感じるのは風だった。そして走馬灯のように、苦労して山を登って獲った情景が目に浮かび、その一口で全ての苦労が報われる。

 もちろんビールは忘れておらず、熱々の天ぷらで口内が火傷しないように1の天ぷらに対して5のビールを流し込むが如く、風を大波で凌駕する。

 最高。この言葉に尽きる瞬間だった。

 私たちはある一定の感動を超えた感動を経験した際に簡単に最高――最も高い――なんて言葉を簡単に使ってしまうが、恐らく山菜の天ぷらは紛うことのなき最高だった。

 それはスーパーで売られている山菜を買ってでは味わうことの出来ない最高だ。もう日が高くなり、暑くなり始めている山を歩き、汗を流し、肌に少しの切り傷を作りながらも山菜を獲ってきた者たちが味わうことの出来る最高。

 人生で鬱屈とした感情に囚われている人間を連れてきて、この山菜とビールを味わえばそんな感情なんて忘れてしまうのでは、いや絶対に忘れられると断言できる。

 しかもその山菜は自分たちで沢山、無料で撮ってきたのだからまだまだ楽しむことが出来るのだ。こんな幸せがあってよいのだろうか。罪とも言えるその至福に魅入られた私たちは欲望の赴くがままに、山菜を食い、酒を煽った。

 もちろんそんなことをすれば立派な酔っ払いの完成で、男が二人と集まれば話題は下世話なものへと移っていくのは言わずもがなである。その内容については今回の記事とは関係がないので割愛させていただくとする。

 そんな酒に楽しんだ最高の次の日の朝は、最悪な体調不良が待っているのだが、酒を辞めることは恐らく一生できない。これはもう性としか言いようがない。

 二日酔いの朝に食べたいのは優しいもので、出汁の効いたホッとするものだ。幸か不幸か私は料理が出来たが、それは大学時代イタリアンバルのキッチンに立っていたからであり、得意とするのは洋食であった。二日酔いの次の日にイタリアン仕込みの洋食なんて以ての外なのは、イタリアンのキッチンにいた自分がよくわかっている。

 しかし友人も猟師をやり、多くのジビエを捌いてきた手前、料理に対して知見はあった。しかもある程度の和食も行ける質で、昨日、天ぷらにて利用した麺つゆを使って、竹の子の炊き込みご飯を作ろうと言うのだ。

 その日の朝は変わらず寒かった。だから薪ストーブを焚き、その熱で竹の子ご飯を作ることにする。ある程度料理が出来ると自負している人間は目分量で味を調整するのでここで竹の子ご飯の味付けについては割愛するが、出来上がったものは昨日の最高を超え得るものであった。

 少し茶色がかったほくほくのご飯に、たくさん獲ってきたが故にふんだんに使われた大量の竹の子がごろごろと入っている。竹の子の炊き込みご飯というと竹の子を薄切りにした少しせこいものを想像するが、私たちの炊き込みご飯は違う。

 一日近く灰汁抜きによって火にかけた竹の子はしっかりと柔らかくなり、しかしそれでいて竹の子特有のシャキシャキ感も失われていない。何より友人の味付けは最高で、程よい出汁の塩味と、竹の子の甘味が感じられる。

 しかもその竹の子一つ一つが頬張るいう表現が合う大きさをしている。

 そんな朝を迎えられる檜原での生活が檜原のゆっくりとした時間の中で始まる。

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