長老たちへの懇願───ステパノに範を Ⅰペテロ5章4節
タイトル画像:Helichrysum arenarium from Thomé Flora von Deutschland, Österreich und der Schweiz 1885
2023年5月7日 礼拝
Ⅰペテロの手紙5:4
そうすれば、大牧者が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。
καὶ φανερωθέντος τοῦ ἀρχιποίμενος κομιεῖσθε τὸν ἀμαράντινον τῆς δόξης στέφανον.
はじめに
前回、長老や教会のリーダーというものが、つまり、長老は、『イエス・キリスト』の型であって、来るべき再臨のイエス・キリストを体現したものでなければならないことであると紹介しました。そのイエス・キリストを体現するためには、決して信徒を支配してはならないという内容でした。今回は、長老やリーダーに約束しているものについて見ていきたいと思います。そこに示されている神の御心とはなにかをペテロの言葉から見ていきたいと思います。
しぼむことのない栄光の冠
4節を見ていきますと、キリスト教の信仰において非常に重要なものです。ペテロは、長老やリーダーたちに対して、『大牧者が現れるとき』には、栄光の冠を受けると約束している言葉です。
この『大牧者』は、キリスト自身を指し示しており、キリストの再臨の時には、キリスト者たちは永遠のいのちを受けることができるという意味が含まれています。
さらには、単に永遠のいのちだけではなく、『しぼむことのない栄光の冠』を受けるともペテロは伝えています。
アマランサスという花
『しぼむことのない栄光の冠』という表現は、長老やリーダーが永遠のいのちを受けることによって、この世での苦しみや悲しみ、死といったものを超え、真に栄光ある存在となることを表しています。『しぼむことのない』と表現されているギリシャ語は、アマランサスという花の名で形容されています。このアマランサスという花は、葉茎からカレーの香りがするため英語でカレープラントと呼ばれるそうです。乾燥させた後も、色や形の変化が無いことから、イモーテル(不滅)、エバーラスティング(永遠)とも呼ばれている花です。
古代の伝説では、アマランサスの花は決してその輝きを失わず、それゆえ決して滅びる(色あせる)ことはないとされてきました。
古代ギリシャでは、古代オリンピックの勝利者にアマランサスの花を「戴く」ことから、『しぼむことのない栄光の冠』という言葉がありました。
古代オリンピックでは、通常、月桂樹の冠は、カレープラントのドライフラワーで作られていたようです。色褪せないと言われているカレープラントであっても、いずれは朽ちていきます。 また、コリントで行われたイストミア大祭で贈られる勝利者の花輪も、すぐに枯れてしまうパセリの葉で作られたものが一般的でした。 しかし、神は忠実な長老や教会のリーダーに、永遠の果てしない時間を超えて続く栄光の冠を授けると約束しているのです。
同時に、『しぼむことのない』(アマランサス)という言葉は、神が長老として召された人々に、朽ちることのない栄光に忠実であることを強調する言葉でもあります。
アマランサスと長老
こうして、この4節を見ていきますと、長老や教会のリーダーというものは、神から特別に期待された職務であることがわかります。
この聖句は、長老やリーダーたちにとっての重責を強調しています。彼らは羊飼いとして、群れを導き、保護し、養っていかなければならず、その責任を果たすことによって、キリストからの栄誉を受けることができるということを示しています。この聖句は、教会の指導者に対して、自分たちの役割を真剣に考え、群れを守り導く責任を持ち続けるように呼びかけています。
それは、信仰の指導や教育、慰めや助言などを行うことが求められています。彼らは、自分自身の信仰を深めるとともに、他者を導き、助けることで、神の御国のために働く使命を担っています。
そのため、彼らは信仰の指導者としての役割を十分に理解し、常に自分自身の信仰生活を磨き、神の御心に従って行動することが求められます。そして、人々が彼らを見て、キリストの愛や真理を感じ、信仰に向かって歩むことができるように尽力することが必要です。これが、霊的な責任であります。
また、信徒たちにとっても、自分たちが羊として、羊飼いに導かれる立場であることを意識し、教会の指導者たちを支援し、共に神の御国を建て上げることが求められているということを示しています。
冠を受ける者として召されていること
冠とステパノ
『栄光の冠』τῆς δόξης στέφανον テース ドクセース ステパノンを見ていきますと、興味深い言葉があります。クリスチャンなら、ピンと来るでしょう。ステパノンという言葉です。
ステパノンという言葉の意味は『冠』。原型はステパノス。ステパノスという言葉は、最初の殉教者ステパノと同じスペルになります。ですから、弟子のステパノは、『冠』という名でありました。
ペテロの手紙では、言葉遊びや修辞技法(レトリック)が用いられています。たとえば、Ⅰペテ 1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。」という言葉がありますが、ここでは、「草のようだ」という表現が繰り返され、韻を踏んでいます。また、同じ章の1:20では、「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現れてくださいました。」という言葉があります。ここでは、「あらわれるためにあがないの血であらかじめ定められていた」という言葉が繰り返され、語呂合わせがあるように、言葉遊びや修辞技法は、読者に印象を残すために効果的に用いているようです。
こうして、単に『栄光の冠』という言葉だけ見ていきますと、そうなのかというように思えてしまうものですが、ギリシャ語の話者たちからすれば、この『栄光の冠』という言葉に、ステパノのレトリックを見て取っていたと考えられます。
弟子のステパノは、聖書の新約聖書に登場する最初の殉教者です。彼は、初代のキリスト教会において、ギリシャ語で「diakonos(ディアコノス)」と呼ばれる役割を担っていました。ステパノは、十二弟子ではありませんでしたが、エルサレム教会の指導者の一人でした。教会で食料の配給をめぐって苦情が生じたとき、それを担当するために選ばれた7人のうちの一人でした。(使徒の働き6:5節)
聖書は、彼を「信仰と聖霊に満ちた人」「恵みと力に満ちた人」と形容しています。事実彼は力強く奇跡を行い、神の言葉を伝えるための力強い証言を行いました。使徒の働き7章を見ますと、彼との議論に負け、最高議会に訴え、彼らは人々を扇動し、ステパノが神殿と律法を汚すことを言ったと偽証しました。ステパノは議会で長い弁明をしますが、感情的になった人々はステパノの言葉を受け入れることができず、最終的に、ステパノは石打ちによる殉教を受け、イエス・キリストのために自らの命を捧げました。ステパノの殉教は、初代キリスト教の信仰の信念や強さを象徴するものとして、後に多くの人々によって賞賛されることになりました。
まさに、このイエス・キリストに殉じた姿こそ、長老のあり方であり、模範であることを物語っています。
ステパノと殉教
ステパノの殉教は、「殉教者の血は教会の種」を体現したものでした。その後の教会が発展していくきっかけともなりました。
キリスト教がローマ帝国中に急速に拡大していった理由の一つに、殉教者たちの存在があります。彼らの多くは迫害に負けることなく、平安のうちに天を見上げ、祈りながら堂々と死んでいきました。それを見ていた人々は感銘を受け、新たにクリスチャンとなりました。ただの人を信仰の勇者へと作り変える不思議な力を見たのです。こうして人々は「殉教者の血は教会の種」と言うようになった歴史があります。
この世において、私たちは誉れを受けることは少ないでしょう。あっても、それらは、朽ちていく、忘れ去られていくものです。
だからといって、この世に冠が無いわけではありません。イエス・キリストの冠は、いばらの冠でした。ステパノにとっては、彼の身体の上にうず高く積もった石の山でした。それらの冠を見ますと、痛みと苦痛のなにものでもありませんが、彼らの冠の傍らにあったのは、執り成しの祈りでした。
最初の殉教者ステパノ、主イエス・キリスト。両者ともに、息を引き取るときに、とりなしの祈りを祈っていることです。死の瞬間にとりなしの祈りを神に捧げ、自分自身を人の救いのために捧げ尽くした最後を見せていることです。いのちを自分のために使うことなく、人の救いのために祈るところに、自分を捧げ尽くす、全焼の祈りの型としての姿と、冠の本来の意味を表しているのが、二人に共通した姿であります。
栄光の意味
『栄光の冠』の中にドクサという言葉があります。このドクサは、 栄光と訳されますが、神の 本当の姿を反映することを意味します。彼らの死は、神の栄光をあらわしたということです。直接的な意味において『栄光の冠』というものは、イエス・キリストの再臨の時、復活した先に与えられるものですが、この世にあっての『栄光の冠』は殉教に出現するものであることを覚えていきましょう。殉教に生きるところに、長老や教会のリーダーのあるべき姿が示されているということです。殉教は敗北ではなく、悪魔とその力に対する勝利であり、その勝利はキリストの死に基づくものであることを忘れてはなりません。(黙示録12:11)