ショートショート「願いの叶う箱」
その日、私は旧友に呼び出され、彼の家を訪ねていた。
彼とは学生時代の同級で、お互い特に優秀でもないが落ちこぼれでもない、ごく平凡な生徒だった。だから私は彼の家を見たとき、あいつがこんな立派な家を建てたものかと、少々嫉妬めいた感情を抱いてしまった。
しかし、そんなことは二人で酒を酌み交わしているうちに、どうでもよくなっていった。
「いやぁ、立派な家だな。よくやったものだ」
「なに、これからローン地獄さ。まぁここ最近、運が巡ってきてはいるが」
「そうかい。だが、運も実力の内だろう」
「ううん…いや、まぁ、意外とそうでもないのだ、これが」
彼は少し何かを迷ったようだったが、にやりと笑って言った。
「なんだ、気持ちの悪い」
「ちょっと待っていてくれ。とっておきを見せよう」
そう言うと彼はリビングを出てどこかへ行ってしまった。しばらくすると、何かを大事そうに抱えて戻ってくる。あまり綺麗とは言いがたい、両手におさまる大きさの陶器の箱だ。その意匠からして、ヨーロッパのものだろうか。
「それは…オルゴールか」
「いいや、これは願いの叶う箱さ」
彼の言葉に、私は耳を疑った。さてはこいつ、宗教にでもはまったか。
「ふむ、その顔はどうせ宗教かなにかだと思っているだろう。まぁ突き詰めればそう変わらんから、否定はしないがね」
「じゃあなんだというのだ」
「まぁ聞け。僕は旅行が趣味というのは知っているだろう。これは東欧を旅しているときに見つけたものでね。この独特の意匠が気に入ったのだが、あちこち欠けているし、汚れているわりに、妙に高い値段が付けられていた。僕は店主に「この値札、一桁違うんじゃないかね」と言ってみたが、店主は首を横に振るばかり」
「ほう」
「そこで僕は、じゃあ理由を言ってくれ。納得すれば買おう、と言った。店主はぼそぼそと喋りだした。店主曰く、「これは願いを貯めておく箱だ」と言うんだ」
「貯めておく?願いが叶うんじゃないのか」
「最終的にはね。だが、それには自分の願いを箱に貯めておく必要があるわけだ。たとえば「大きな家がほしい」と願うなら、それを毎日心に留めて、この箱へ向けて念じなければならない。それが十分に貯まったときに箱を開けると、その願いが叶うんだ」
「なんだか面倒な話だな。その「願いが十分に貯まった状態」とやらはどうやって解るんだ?その前に箱を開けてしまったらどうなる」
「それが難しいところだよ。その前に開けてしまったら全て無効だ。そして願いが十分に貯まったかどうかは、自分で判断するんだ」
「まてまて、それじゃあその箱を開けて何も起きなくても、「願いの蓄積が足りなかった」で済まされてしまうじゃないか。そりゃインチキだ」
私がそう言うと、彼は肩をすぼめて笑った。
「そう真剣になるなよ。そんなことは誰でも思うさ。だがね、店主があんまり真剣にその話をするもんで、僕はおかしくなっちまって、つい買ってしまったんだ。旅の恥はかき捨てという奴さ」
「詐欺に自分から乗った、という寸法だな」
「しつこいな、君も。それじゃあ詐欺も宗教も変わらんじゃないか」
「実際変わらん」
「そうかい。まぁこれはそんなご大層なもんじゃないよ。でもね、日本に帰って改めてこの箱を見ると、妙に愛着が湧いてきて、どうせだから、この箱が視界に入るたびにちょっとずつ願ってみることにしたんだ」
「ほう、一体何をだね」
「さっきも言ったが、この家さ。今僕たちのいる」
「何だって?この家がその箱から出てきたって言うのか」
「いやいや、あくまでも願っていただけさ。日々そうやって願っていると、なんだか叶う気がしてくるんだ。すると、精神が充足してくる感じがしてね。自然と仕事にも力が入ってくる。そうやって職場で背筋を伸ばしてハキハキとやっていると、新しいプロジェクトなんかが立ち上がったときに「あいつにやらせてみよう」と仕事が舞い込んでくるんだ。それを成功させれば臨時の手当てもいくらかでる。そうやっているうちに旅行に行く暇もなくなってしまってね。願いと共に金も貯まってきたので、この家を買った、というわけさ」
「なんだ、結局この箱は関係ないじゃないか。この家は君が真面目に働いて買ったのだから」
「何事も、きっかけと思い込みが大事だってことさ。夢はいつか叶うと思っているだけじゃ叶わない。かといって夢も目標もなくがむしゃらに生きたところでつまらない。両方が大事だろう」
そう言って彼は清清しい笑顔を浮かべた。学生のときもこんな表情を見せたことはなかった。話からすればこの箱はただの箱だ。だが、この箱の存在が彼を変えたのも事実であるようだった。
私の中にはまた、彼に対する嫉妬、いや、羨望のような感情が芽生えていた。
「そうだな…。ところで、その箱は開けてみたのか」
「いいや、まだ一度も開けてない。なんとなく習慣のようなもので、この家が建つまで…いや、建ってからもずっと願い続けているからな。もし今これを開けたとしたら、ゲストルームが何部屋もあるような、物凄い豪邸が建つかも知れんぞ」
彼は笑った。
「よし、じゃあ俺は、それを願おう」
そういって私は、ソファの傍らにある彼のゴルフセットから一番ウッドを取り出し、彼に振り下ろした。
あの箱を手に入れ、開けてみたが中身は空っぽ。願いどころか飴玉のひとつも入ってなかった。
だが彼の言うように、確かにあの箱は、人の人生に何かのきっかけをもたらすらしい。
それは私にとっても例外ではなかった。
たとえば、いま私が住んでいる場所。
まさに彼の言ったとおり、とてつもなく広く、数十人は住める部屋があるし、清潔だ。立地に難ありだが、三度の食事は担当のものが何人もいて、時間通りにちゃんと出てくるし、栄養バランスもばっちり。それに安定した仕事もある。休暇も十分にあるし、レクリエーションもそれなりに。平凡な人生を送ってきた自分にとっては刺激があっていいくらいだが―。
そうだな、ただひとつ気に入らないのは、ここが大邸宅じゃなく、刑務所という名前なところだな。
おわり