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映画『 #くぴぽSOSびよーーーーんど 』を観たのである

※…この記事は映画の具体的な内容に関してはネタバレしていませんが、大まかな演出・流れなどについては言及しています。また、出演されているアイドルさんの卒業や解散、映画内の時期に社会で起きた出来事等については事実として記事内で扱っていますのでご留意ください。

去る3月4日、僕の数年来応援しているグループである「くぴぽ」を中心としたドキュメンタリー映画『くぴぽSOSびよーーーーんど』を観てきた。

この映画の公開に際し、僕は自分の見てきたくぴぽについてまとめた記事を書いた。

こうして僕なりにくぴぽとの3年半を振り返り、記憶や思い出を咀嚼した上で映画を観たのである。

くぴぽの映画であり、くぴぽの映画ではない

以下の冒頭6分間の無料公開映像でも観ることができるが、映画がスタートするとまず「これは「あなた」の物語」というテロップが出る。

映画を最後まで観ると、この一文が常に映画の根底にあることが解る。

冒頭6分を観ての通り、物語はくぴぽからスタートするが、その後くぴぽに近しいアイドル、関係者のインタビューが随所に挟み込まれることで視点は徐々に拡がりを見せ、時は進み、観客が自然と目を向けさせられるのは“コロナ禍”という事象だ。

21世紀も20年目を迎え、あらゆる文化や思想において多様性が重んじられ、個人の自由が尊重される時代において、そのすべてに制限とストップをかけたこのパンデミックは、かつての大戦のように世界中の人々に共通の認識と体験を植え付けた。

すると必然的に、この時代にくぴぽを追いかけるということは、地下アイドルのシーン、日本のエンターテインメント業界、ひいては当時の日本人の生活そのものを俯瞰していくことになる。

2024年を生きるほぼすべての人間はコロナ禍を体験しているし、それがそれぞれの人生に大きな影響を与えたことは間違いないだろう。
『くぴぽSOSびよーーーーんど』はコロナ禍においてのくぴぽの顛末を追うことで、そうした個人個人の中にある記憶や思い出を追体験させ、向き合わせる映画として作られているのだ。

意図されたウェットさとドライさ

とはいえこの映画がくぴぽとまきちゃんの物語である以上、制作期間中に卒業したメンバーについて触れないわけにはいかないし、それぞれにポジティブな物語とネガティブな物語があり、それをどう表現するのか、僕は注目していた。
いや、正直、見るのが怖かった。

結論から言うと、メンバーの卒業だけでなく、映画内で人間ドラマと呼べる部分は非常にドライに描かれており、言い争いや喧嘩など人間同士の感情がぶつかり、交錯し、観客の心をかき乱すようなウェットな場面は殆どと言っていいほどない。
恐らく映像素材としては存在しただろうが、意図的に省かれている。
この映画は地下アイドルシーンの群像劇ではあるが、特定の登場人物に深く感情移入するようには作られていないのだ。
それは主役ともいえるまきちゃんにでさえもだ。(それでもまきちゃん推しにとっては辛い場面もあると思うが)

もちろん、登場人物それぞれの重要な局面で感情が発露するシーンはある。
だが、その多くは映画内の誰かにぶつけているわけではなく、自分自身であったり、社会や世間であったりする。
登場人物たちは常に自問するように言葉を紡いでいる。
その節々に、僕たち観客が心を重ねられる瞬間がある。
だから、観た人それぞれに“刺さる”シーンは違ってくるのではないかと思う。
登場人物たちに物語性を持たせる特定のポジションを与えないことで、観客に「ここは僕だ」「私だ」と思わせることが監督の意図なのではないだろうか。

ここからは僕の推測ではあるが、映画の途中、上記のような演出に切り替わるシーンが明確に存在している。
それは当初の監督であったユリカナコ氏から、田辺ユウキ氏に監督のバトンが渡される場面だ。
ユリカナコ氏が撮影した部分は、いわゆるアイドルの舞台裏というか、メンバーや他のアイドルが心情を吐露している(涙を見せるような場面も)シーンが多く、ウェットな感触なのだが、田辺監督になって以降は、上記のようなドライな(俯瞰した)インタビュー素材と演出が増えていく。

しかし、その切り替わりは決して唐突ではなく、劇中コロナ禍が進んでいくにつれて進む個の分断と重なり、これまでのように人と密に関わることができない、気軽に誰かに寄りかかることができない、という「自分のことは自分で考えざるを得ない」状況に世界が追い込まれていく姿と、監督の演出方針がとてもマッチしていたように思えた。

僕らは終わらない夢を見る

2024年、くぴぽは結成10周年を迎えた。
オリジナルメンバーはまきちゃんだけである。
本作品内でメインとなっているメンバーたちも、2024年の今はもういない。

映画内で度々登場する「なぜアイドルを続けるのか」という問い。
コロナ禍により苦境に立たされたことで、より浮き彫りになったと言えるが、アイドルという職業において、こと「地下アイドル」においては、いつの時代も、まさに禅問答のように付きまとってくる問いである。

本作品に出演しているアイドルたちは、同じグループのまま続けている者、当時のグループは解散し現在は別のグループで活動している者、完全に引退した者、様々であるが、誰のどの選択が正解だったか、それは誰にもわからない。

地下アイドルにおいては、およそ一般的に「成功」と呼ばれるゴールは存在しないと言っていい。
その「成功」が、「世間に認知され、ショービジネスとして確立し、大金を稼ぐ」という意味であるならば。
ごく稀にそうしたステレオタイプの成功を掴む地下アイドルもいるが、それはもう「地下アイドル」の定義から外れた存在になっていると言える。

そうした「成功」から離れた存在であるがゆえに、続ける理由も、辞める理由も、よりパーソナルなものになってくる。
コロナ禍を迎え、ライブや特典会といった地下アイドルのプライオリティを奪われ、単純に経済的な困窮もあるだろうが、否が応でも自己と向き合わざるを得なくなった結果、「続ける理由」を失ってしまったアイドルは多くいるだろう。
夢から覚めたものから去っていく、そう言えなくもない。

では、残った者は「夢を見続ける愚者」なのか。
ある意味ではそうなのかもしれない。
地下アイドルの活動には明確なゴールがあるわけではないし、注いだ労力と年月に対して大きな見返りがあるわけでもない。
終わりがないからこそ、常に“終わり”がすぐそばにある。

しかし、僕が地下アイドルに最も魅力を感じているのはその部分なのだ。
地下アイドルの活動は刹那的だ。
メンバーがすぐやめたり、グループが1年と持たず解散したり、とかく揶揄されたり馬鹿にされたりしがちだ。
しかしそんな、アイドルも、オタクも、誰もが“すぐそばにある終わり”を意識しながらも、臨界点を突破したようなたった数十分のステージ、沸き上がる狭いフロア、そんな輝きと狂熱を忘れられず、「またやりたい」「また観たい」と“終わらない夢”を見続けるのが地下アイドルなのではないかと思うのだ。

「辞める理由」は現実の中にたくさんあるが、「続ける理由」はそんな夢の中にしかない。

でも、だからこそ、続ける選択をしたアイドルは美しく、儚く、輝いているのではないかと思う。

これは僕の物語だ。
映画『くぴぽSOSびよーーーーんど』は、きっと「あなた」の物語を浮き彫りにするだろう。

その時はまた語り合いましょう。

〜おわり〜

以下告知

現時点(2024年3月7日昼)で「くぴぽSOSびよーーーーんど」が観られるのはあと2回なので、もし、ご興味を持たれた方は新宿K's cinemaへ!

K's cinema公式サイト内紹介ページ

映画公式サイト


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