"Future Imperfect" ~何故私はそれでも「日本のより良い未来」を信じるようになったのか?
こんばんは、烏丸百九です。
入管法改悪に続き、LGBT差別増進法も国会で可決されそうですが、何も言わず黙っているのもハラが立つので、本noteには珍しい(?)エッセイ形式の文章を書いてみることにしました。
拙い文章ですが、今の日本政治の在り方に疑問のある方は、是非ご一読いただき、ご感想などお聞かせいただければ嬉しいです。
「暗い未来」に一直線の岸田政治
入管法改悪の賛成派は、思いのほか多かった。
所謂ネット右翼勢力の賛同は、いつものことなので驚きはなかったが、ことにショックだったのは、賛成派の間に、ある通奏低音が鳴っているように思えたことだ。
元はといえば、”リベラル派”と呼ばれる人たちから始まった考えだから、当然と言えば当然ではあるが。
上野の考えについて、当時から、「特権階級のくせに偉そうに」とか「セレブが貧困を奨励するのは矛盾ではないのか?」という素朴な反感は見られたものの、私自身、このような考え方の何がどうまずいのか、上手く言語化出来なかった。
いかにも傲慢ではあるけれども、反成長や反資本主義という考え方を取り入れていけば、それほど奇異なものではないのかな、程度。
しかし、一昔前に流行ったこういう思考こそが、今に至る流れ、この国に蔓延する「悪い雰囲気」を生み出す源流だったのではないか、と思う。
確かに、現在のこの国の状況には、明るい要素を見出す方が難しい。
国際情勢が緊迫する中で、岸田政権は戦後日本の平和主義を大幅に方向転換し、将来的に防衛費を倍増することを決定した。しかも、国民に一切の相談なく、自民党の閣議決定によって、である。
入管法の改正、健康保険証の廃止、原発再稼働、そして防衛費倍増。あまりに強引なやり口から、「安倍、菅の方がまだ致しやすかった」という声も聞こえるようになってくるほどだが、彼は前者らと異なり、愚かさや無知蒙昧さ、歪んだナショナリズム故に誤った道に突き進んでいるわけではない。岸田はそうではない。彼は、「我が国の暗い未来」が間違いなく訪れる現実だと確信し、それが日本人の自意識に膾炙しつつあることも見越して、積極的に「暗い未来」へと突き進もうとしている、恐らくは憲政史上初めての日本国首相なのである。
岸田の頭の中にあるのは、地域紛争や激しい経済競争に巻き込まれながら、ゆっくりと”滅び”へと進んでいく、希望なきこの国の未来であり、望まないながらも「敗戦処理」的な役割を担わされる中で、自身を含む日本の支配層の力をいかに保っていくか、の計画であろう。
散々指摘されている点ではあるが、入管法改悪は技能実習制度廃止との「パッケージ政策」と言われており、事実上の「移民政策」を人口減少対策として大幅に拡大する一方で、「不法な外国人」に対しては懲罰を持って極めて厳しく対応したいという意思の表れなのだろう。
ここにあるのは「我々の資産を守るために奴隷がたくさん必要なのでお願いします」という、あまりににべもない資本家側の都合であり、どうせこの国には将来などないのだから、「行儀のよくない」人々には帰ってもらえばいい、選ばれたエリート層だけが定住してくれれば十分、と考えたのかもしれない。
今後起きるだろう財政危機に対処するためには、戦前と同様に、個人口座を把握して資産税を徴税する必要が出てくるかもしれないし、原発は依然としてリスキーではあるものの、低コストで既得権益を維持しつつ、万一事故を起こしても、大都市圏以外に破滅的事態の責任を押し付けることができる。
このように、「日本に明るい未来はないので、縮小するコミュニティの中で最大限の利益を維持する」目的に照らせば、岸田政権のやっていることは異様でも不合理でもない。こうした意見が民衆の支持を得て、明示的に強い力を持つ限りにおいて、皆保険制度を維持することや、マイナンバーカードやインボイスへの反対、SDGsの重視や国際協調といった「リベラル」な諸政策は、「この国に未来などないのに、”うまいこと逃げ切る”以上のことをなぜ考えなくてはいけないのか?」という身も蓋もない問いとともに、誹謗と嘲笑の的にされるのである。
「奪るか奪られるか」の世界に魅了される人々
「平等に貧しくなる」社会では、上野のような”リベラル知識人”の理想とは裏腹に、常に最も周縁的な者や弱者がターゲットとして、政治家や反社会的勢力の食い物にされる。
犯罪が充溢する裏社会に(過剰なまでに)適合し、「この世のすべては弱肉強食の自己責任。だから俺は”奪う方”を選ぶ(お前らもそうしろ)」と嘯く「闇金ウシジマくん」の主人公、丑嶋馨の新自由主義的な論理は、作品が大衆的人気を得た10年前頃から、貧困化を背景として徐々に今の日本社会に蔓延し、既に国民の大半に浸透しつつあるように思う。
ウシジマのような反社会的勢力のマインドは、自分たちの利益のためなら人権蹂躙や弱者排斥をも”悪の正論”と見なす、現代日本的な政治ポリシーそのものである。
「人権」は平等と分配の論理であり、「少ないパイをお互いに奪い合う」新自由主義の世界観とは本質的に相容れないものだが、後者のフレーミングで前者を捉える限りにおいて、シスジェンダー女性の安全に配慮したトランス女性はトイレや公共施設を利用してはいけないし、非正規労働者の雇用のためには移民労働者は来るべきではないし、財政健全化のためにはマイナンバー制度や増税も甘んじて受け入れなければいけない。
未来なき破滅に向かう現代とは「悪魔が微笑む時代(北斗の拳)」であり、そうした荒廃したペシミズム的社会観において、人間の良心や利他の精神は、「生き残りの確立を下げるだけ」の愚かな行為なのである。
維新の政党としての「悪さ」を批判する人々は間違ってはいないが、少し誤解をしているように思う。維新はその「悪さ」故に有権者を騙しているから人気なのではない。維新の本質的部分、即ち「美徳としての死や破壊」に対する拘りと強烈な弱肉強食のポリシーはちゃんと「伝わって」おり、有権者はそうした彼らの「悪い」本性を(無意識的に)見抜いているからこそ、熱心に支持していると考えた方が自然だろう。
しかし結局のところ、彼らはこうした「暗い未来」観を示すことで何がしたいのか?
動機は色々考えられるだろうが、ひとつには、少子化対策に失敗し、「暗い未来」を作り出す原因となった政府の失態と、「共に歩んできた」彼ら自身への(マッチポンプ的な)慰めであろう。
大和人は災害の多い社会に住んできた事情から、自身の不幸を「天災」や「運命」「自然現象」といったものに責任転嫁するのが得意な民族だと言われているが、彼らは「暗い未来」を祖国に齎した主原因が、自らの政治的な無能にあることを半ば認識しつつ、結果的に数千万人の未来を奪ってしまったという責任の重大さに耐えられず、「暗い未来」を当然視し、それを共に耐え忍ぼうと述べることによって、自らの過去の罪科を直視することなく、あまつさえこのような社会環境に「適応」することを肯定さえしてみせるのである。
こうした”リベラル知識人”の現代日本観は、皮肉にも維新的な世界観と表裏一体、コインの裏表だということだ。
ただ、当たり前の話だが、陳腐な世代論で彼らを責めて見せても、何も変わることはないだろう。
最大の問題は、環境への「適応」を得意とする大和民族が、現在の社会状況を”自明”とし、のちに来るとされる急激な人口減による社会の破壊を受け入れるばかりか、少なくない人々がそれを肯定して「俺は”奪う方”を選ぶ」と言い出していることであって、その絶望的な「暗い未来」観が変わらない限り、いつか「本当に」大規模な破局はやってくるだろう。それは、喜劇としての歴史の反復でもある。
こういう未来で、きっと私のような人間は生き残れないと思う。戦争は全ての人間の命を奪うが、ナチスの例を引くまでもなく、まずは「社会的弱者」の生存権を奪い去るからだ。
こうした暴力的な価値観を前に、「弱者」にできることなどあるのだろうか?
『怖さ』を知ること、『恐怖』を我が物とすること
「ジョジョの奇妙な冒険」第一部に登場するウィル・A・ツェペリは主人公・ジョジョの師匠であり、恐ろしい吸血ゾンビとの戦い方をレクチャーする。
激しい戦闘の最中、彼は唐突に「ノミっているよなあ、ちっぽけな虫ケラのノミじゃよ。巨大な敵に立ち向かうノミ……これは『勇気』と呼べるだろうかね?」とジョジョに質問し、「ノミどものは『勇気』とは呼べんな」と自分で回答する。そして改めて「『勇気』とはいったい何か?」と語りだし、「『勇気』とは『怖さ』を知ること、『恐怖』を我が物とすること」と説く。「人間讃歌は『勇気』の讃歌、人間のすばらしさは勇気のすばらしさ、いくら強くてもこいつらは『勇気』を知らん、ノミと同類よォーッ!」と叫びつつ、ゾンビの顔面に強烈な膝蹴りを食らわすのである。冷静に読むとあまりにノミに失礼な発言ではあるが、ジョジョは師匠の一連のセリフに感銘を受ける。
あらゆる右翼や全体主義者は、『恐怖』を武器として用いる。他国のミサイルが、外国人が、「変態」が、社会に『恐怖』と災いを齎す限り、マジョリティは自己の安全を防衛せざるをえず、それを国家として推進することが「安心安全な社会」を作り出すことなのだ、と。
しかし、国そのものがファッショな「死と破壊」に魅了され、人心が荒廃し、「所詮この世は弱肉強食なのだから」と、この世の(理不尽な)ルールに適応し、「他者を蹴落としてでも生き残るべきだ」などと大半の人間が思っている社会に、ほんとうの「安心安全」などあるのだろうか。
それは言うなれば、我欲に塗れ、無謀な相手に戦いを挑むゾンビと同様に、『恐怖』に扇動され、現実を正しく認知することが出来なくなった者たちが、己の卑小と冷酷と怯懦を認められずに、ただ目をそらしている「お花畑」の妄想ではないだろうか。
『恐怖』を動機に、ゾンビのように暴れまわる人々の姿は、『恐怖』を克服し、『勇気』をもって悪と対決する、ツェペリの言う「人間賛歌」とは対照的である。
どのような屁理屈を捏ねようとも、国は政府ではなく、人が作るもの。人が『勇気』を失い、『恐怖』に己を忘れた社会に、「より良い未来」などあるはずもないのだ。
私が言っていることは、何の現実的裏付けもない理想論ではない。資本家に言われるまでもなく、移民の受け入れが社会に必要な労働力や生産人口を確保し、景気を上向かせることは広く知られているし、実は差別を禁止することも、経済を改善する効果があると言われている。
日本がマイノリティを差別するために多大なコストを現在進行形で支払っているとすれば、それを止めることは社会的コストの削減と、当事者たちのより自由な経済活動につながるだろう。選択的夫婦別姓なども典型的な例ではないだろうか?
そして、結果的にではあるが、黴臭いネポティズムと既得権益はその実体を維持できずに徐々に分解されてゆき、より平等で効率的で、持続可能な社会が実現していくことになる。
移民・難民の人々を受け入れよう。LGBTQの人権を守り、特にトランスの人たちを変態だの何だのと誹謗するのをやめよう。外国の政府と(出来るだけ)仲よくしよう。批判には真摯に応えよう。
デマをばらまき、『恐怖』によって人々を扇動するのはやめよう。他人を暴力的に支配しようとするのをやめよう。どんな相手の尊厳も傷つけないようにしよう。「死と破壊」が齎すのは、樹木のない丸裸の都市ぐらいだ。
まだ見ぬ明日への『恐怖』を我が物とし、己の卑小さを乗り越え、仲間と握りしめたその手を決して離さずに、楽しいときは大声で笑って、『勇気』と敬愛と公正さをもって、「暗い未来」に立ち向かい、「より良い未来」を作っていこう。
今の私たちには、きっとそれができるはずだから。
共感してくれた人、「暗い未来」の招来に反対する人は、是非↓から記事orマガジンを購入して支援をお願いします。
記事単位で購入すると、後から返金申請もできます。
ここから先は
¥ 300
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?