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民主主義と「暴力」―あるいは何故私は山上を非難するのをやめて安倍晋三の死を「自業自得」と言いたくなったのか

烏丸百九です。前回から大変な間が空いてしまい、読者の皆様には申し訳ありません。

とにかく参議院選挙以来の溢れるような情報の洪水―安倍晋三元首相の暗殺と、その容疑者が反社会宗教セクトとして有名な旧統一教会の被害者であったこと、参院選での(予想通りの)与党勝利、国葬と旧統一教会を巡る種々の論争―を追うのに精一杯で、自分の考えをまとめられませんでした。

七月も終盤に入り、ようやく少し気持ちが落ち着いてきたので、私が今考えていることをざっと纏めてみたいと思います。

1.「暴力を許さない左翼」と「ご提案をする野党」

安倍晋三元首相の殺害事件について、呆れるほど繰り返された枕詞があります。「いかなる暴力も許されるものではない、がしかし……」です。主に安倍元首相の暗殺を強く非難しつつ、彼の生前の行いを批判する左派が用いていました。

しかしながら、(「テロ」ではないことが後に判明したとはいえ)いきなり路上で他人を射殺することを堂々と肯定する人間は、日本のみならずアメリカのような極端な銃社会でも殆どいないでしょう。その意味では、「いかなる暴力も許されるものではない」のは「常識」であり、言うまでもない、ごく当たり前の事実に過ぎません。

心理的傾向として、人が「常識」を態々枕として述べるときは、「常識」に反する主張がしたいと内心思っている時です。

「いかなる差別も許されるものではないが、しかし……」
「格差は是正されなければいけないが、しかし……」
「誹謗中傷は避けるべきだが、しかし……」

こんな枕詞で、差別や格差肯定や中傷を行う人々の姿に、皆さんは見覚えがないでしょうか?

今回の事件について、メディアが岸信介から連なる安倍晋三とズブズブだった「統一教会」の存在をなきものにして、「特定の宗教団体」という表現に徹するというのなら、それ自体がすでに言論が封殺されていることを自己暴露するものでしかない。忖度しまくりなのである。「言論封殺だ!」とことさら巨大メディアが大合唱している光景を見ていて思うのは、すでにみずから口を閉ざしておいて、何をかいわんやなのである。暴力によって弾圧される云々以前に、金銭的な圧力に屈して見ざる聞かざる言わざるをしているくせに、いまさら「言論封殺だ!」「民主主義への挑戦だ」と叫んでいる姿は滑稽ですらある。なぜか? すでに暴力に屈するよりも以前にカネに目がくらんで自己封殺しているからである。

「長周新聞 - 「民主主義への挑戦」というすり替え」より

少なくとも、山上容疑者の「暴力」は、「民主主義への挑戦」などではありません。「政治的テロ」でもないし、ましてや「通り魔的な殺人」でもありません。政治と宗教勢力が結託した巨大な圧力によって、既に機能不全となった「言論」と「民主主義社会」の悪弊が、必然として生み出した「悪の暴発」の一形態に過ぎないのです。

ネットで噂されていた残虐な動物虐待の例として、「猫を電子レンジに入れる」というものがあります。電子レンジに入れられた猫は、やがて熱傷を負い死に至ります。当たり前の話です。その時、猫の遺体が爆裂し、スイッチを入れた人間が死に至ったとしましょう。その虐待者に対して、同情や憐憫の言葉をかけるべきだというのでしょうか? 「いかなる事故死も悲劇である」と、本当に言えるのでしょうか?

山上容疑者の人生は「電子レンジに入れられた猫」のようなものであり、彼の声は誰にも聞こえず、聞いたとしても聞かないフリをされてきたのでしょう。生活苦のために、もう先がないと考えたという情報も出ています。じりじりと死が迫る音を聞きながら、彼が「悪を暴発させるしかない」と考えたところで、そういう社会を維持することに加担してきた側(勿論左派も含まれる)が、「いかなる暴力も許されるものではない」と安易に言えるものでしょうか?

同じような欺瞞が、今回の参院選で「提案型野党」を標榜していた面々にも言えると思います。

他方で立憲は、持続化給付金や全国民への一律給付など多くの政策を与党に先んじて提案してきたものの、それを実行できるだけの地盤がありませんでした。このため立憲の提案をわがものとして実行できたのは自民となり、一律給付の10万円も「安倍さんがくれた10万円」になってしまったというわけです。

 最近しばしば言われている「提案型野党」が自らの支持拡大を放棄するものであることは、こうしたことからも明らかです。「提案型野党」の提案は、自民に実現してもらうための「お願い」になってしまうのであり、実績を積むのは自民です。また、そうした提案は自民に批判的なものではなく、自民が賛成できるようなものに限られてしまうため、野党としての存在意義が問われることにもなるでしょう。「野党は批判ばかり」といった主張に対しては「我々は批判し、行動し、実現する」とこたえればよいのであり、「与党に賛成もしています」「提案していきます」というのでは、自らの価値を貶めて存在感を失っていくことにしかならないのです。

「第1回 「今」に至る世論『武器としての世論調査』リターンズ―2022年参院選編―」より

漸進的改革自体は結構なことですが、「与党が受け入れられる範囲内」で「ご提案」を行い、根本的な政策への批判を放棄した野党には、端的に言って存在意義があまりありません。主張の中身以前に、ポジション取りの時点で「下」につくということは、ハナから敗北を認めているに等しいからです。そんな政党が支持されないのは至極当然で、参院選の結果はこの「当然」を追認したものでしかないでしょう。

旧統一教会勢力を政治から放逐せよ」という(ようやく言われ始めた)ラディカルな主張は、同団体と密接な関係を持ってきた自民党が、決して受け入れられないものであり、「ご提案」して済む話では最初からありませんでした。選挙後というタイミングになってしまったとはいえ、野党勢はこの主張をいち早く実現するよう努力することが急務となるでしょう。

そしてこれは、山上容疑者が恐らく心底から願っていた「主張」でもあり、「いかなる暴力も許されるものではない」が、彼の主張自体は「正義」であり許される、ということになります。左派は、正直にそう述べるべきではないでしょうか。

2.安倍元首相の「自業自得の死」と国葬

既に散々反感を買いそうなことを述べてきましたが、さらに突っ込んだ話をしていきたいと思います。

銃撃事件の直後、フェミニスト活動家として知られる仁藤夢乃さんが、安倍元首相の死を「自業自得だ」と言った、とするデマが流され、炎上することになりました。

ツイートのスクリーンショットを見れば分かるように、彼女は「自業自得だ」などとは一切発言しておらず、悪質なデマにより炎上させられたことには、深く同情を寄せるべきと思います。

しかしながら、事あるごとに「炎上」している彼女の普段のパフォーマティブな振る舞いを見ている者からすると、ここはむしろ「その通りだ」と言って欲しかったのが正直な感情ではあります。

以下は、批評家の韻踏み夫さんによる、銃撃事件を評したnoteです。
事件以降、様々な考察に目を通してきましたが、事件直後に書かれたこれが最も優れた批評であると今も思います。是非とも全文に目を通して欲しいのですが、韻踏み夫さんはアメリカの人権活動家・マルコム・Xの発言を引用しながら、次のように論じます。

有名なエピソードだが、63年にマルコムは「炎上」している。むろん、あらゆる発言が炎上していたのがマルコムだが、そのなかでもとりわけ規模の大きかった炎上が、この発言である。ケネディ暗殺事件について、本来イライジャ・ムハンマドから黙秘しておくように言われていたマルコムはしかし、記者にその質問をされると、思わず本音を言ってしまったのだと言う。「鶏がねぐらに帰って来たようなものだChickens coming home to roost」と、つまり当然の帰結だと言い放ったのである。国中がその暗殺者を憎み、ケネディを追悼しているときに、である。

「鶏がねぐらに帰って来た」という比喩的な表現は、しかし直接的な真実であった。一見、因果応報というような、なんら目新しいことではないかのようである。しかし、暴力についてのマルコムの理論的な中心から導かれてもいるからである。マルコムが暴力を肯定したとは簡単に言えない。ここにも天才的なレトリックの戦略が込められている。黒人が暴力的だと言う言説に対し、そもそも暴力的なのは黒人を奴隷にし、差別し続けてきた白人だと返す。マルコムが常に言っているのは、このごく当たり前の構造を認識しろということである。

「昨日は石だったが今日はモロトフ・カクテル、明日は手榴弾、その次はもっとちがった有効な手段がとられるだろう」。しかし、すぐさまこう付け加えている。「私が暴力を煽っていると考えるべきではない。私はただ一触即発の事態だと警告しているのだ。この警告をとりあげてもいいし無視してもいいが、もし警告をとりあげれば、まだ助かる道はあるだろう。だが警告を拒絶しあるいはあざけるならば、死はすでにあなたの玄関先まで来ている」。

「ある一日に乾杯する」本文より

ところで、「拒絶し、あざける」と言えば、安倍元首相の得意技でもありました。

もしここで辻元議員が「死はすでにあなたの玄関先まで来ている」などと言い返したならば、大変な問題発言となったことでしょう。21年の落選を待たずに、議員辞職に追い込まれていたかも知れません。しかし結果として、彼女の警告は正しかったのです。

辻元議員を含めて、党派性の違いにもかかわらず、安倍元首相と親しかった人物は少なくありません。彼ら彼女らの多くは、本気で元首相の「追悼」を願っているでしょうし、「国葬」を執り行うことに反対していたとしても、他の手段―例えば合同葬や党葬など―には反対しなかったかも知れません。

しかし、彼の「暗殺」を、故人による旧統一教会への協力が原因だと認め、「鶏がねぐらに帰って来たようなもの」だと考えるならば、左派はそのような人物を国家が荼毘に付すことは、いかなる意味でも民主主義の原則に反するから反対だ、と言わなければいけないのではないでしょうか。

葬儀を主導したのは、大久保の後継者として内務卿に就いた伊藤博文と、大久保と同じ薩摩藩出身の西郷従道・大山巌らである。彼らが心配したのは、政府の最高実力者であった大久保が不平士族の手にかかって落命したことで、反政府活動が活発化することであった。前年には、西南戦争があったばかりで、不平士族はもちろん、自由民権派の活動などへも政府は警戒を強めていた。明治政府は、この段階ではまだまだ盤石ではなかった。

そこで、伊藤たちは、天皇が「功臣」の死を哀しんでいる様子を、大規模な葬儀という形で国内外に見せつけようとした。葬儀を通じて、天皇の名の下に島田らの「正義」を完全否定し、政府に逆らう者は天皇の意思に逆らう者であることを明確にした。大久保の「功績」を、天皇の「特旨」をもって行われる国家儀礼で揺るぎないものとし、それによって政権を強化しようと葬儀を政治利用したのである。

「撃たれて死んだことは理由にならない…「安倍元首相の国葬」に国葬の専門家が「やるべきではない」というワケ」より

「報道1930」が(昨今珍しく)メディアとしての矜持を見せて述べたように、公然と旧統一教会に協力していた政治家の筆頭である安倍元首相が、旧統一教会の暴力や搾取によって、人生と家庭をメチャクチャにされた男に「暗殺」され、「いかなる暴力も許されるものではない」から元首相は国葬しても良いのだとすることは、山上容疑者の「正義」を、丸ごと否定してしまうことになります。それは旧統一教会や、彼らを許し、利用してきた保守勢力への屈服に等しいのではないでしょうか。

とりわけ日本人は、情緒に流されやすく、「浪花節」に弱い民族性だと言われています。事情がどうあれ、悲劇的な死を迎えたばかりの人物に対し「いかなる葬儀も行うべきではない」などと述べれば、「冷酷すぎる」という感情的反発を招くことは必然でしょう。

しかし、それでも左派が山上容疑者の「正義」をなかったことにすべきではないと感じるならば、そして言論の掛け値としての「暴力」が実際に実行に移されるべきではないと思っているならば、何としてでも「偉大な人物が死に、国葬に付された」という保守派が推進する「カバーストーリー」を拒否し、旧統一教会と政治の関係を解き明かし、真実を明るみにすると共に、民意に問いかけなければいけないのではないでしょうか?

「暴力」を駆使してきたのは一体誰なのか、と。

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