読書記録 「グッドバイ・マイ…」編
こんにちは、青木です。
今回は前から夏の終わりに読みなおしたかった作品の読書記録です。
記憶を頼りにネットで覚えている単語や場面を入れまくって見つけました。あらすじや登場人物から、記憶にあったものと間違いないです。
タイトルは「グッドバイ・マイ…」、小野川洲雄(おのがわくにお)さんの作品です。こちらは『中学生演劇脚本集8巻』(1985年、日本演劇教育連盟、晩成書房)に収録されていたものを今回取り上げます。
そうです、中学演劇です。
高校演劇は有名どころだと「夏芙蓉」「7人の部長」、最近だと「水深ゼロメートルから」などが評価されているという話を聞きます。
過去、現在問わず、大人になっても面白い作品がたくさんあります。(いつか思い出に残ったり、面白いと聞くものはまたどこかで読んでみようと思います)
この作品は、あてどなしを作った時に「既存の作品も」的なことを書いていて、まっさきにこれがでて…。「もし、上演許可がおりて公演を打つ機会があれば」挑戦してみたい既存作品ですし、これは8月がいいと思っていたものになります。
〇作品あらすじ
〇読み直して思ったこと
あらすじではすごく、こう、「俺たちはなんだってできる!神様からの困難にたちむかうぜ!」という希望にあふれた話(全体的にみれば間違ってはないけれど)に聞こえますが、読み直してもこの作品は情け容赦がありません。
読んでいただきたいのでネタバレは避けますが、どの主人公の選択肢を選んでも【絶対的な正解】がない中で、「じゃあ、どっちを選ぶ?」を突きつけるところが⋯。
多分、ボクが学生時代にこの演目で上演を見ているというのもあるし、社会問題を扱っているし、「世の中に出たら普通にでまわっている事実」なので、読み返してみても、こう、えぐられるものがありました。
◯これを読みたかった理由
はじめてこの台本に出会ったきっかけが中学の部活発表会で他校がやっていた演目でした。
中学の時に、見始めた最初は「ここの役者さんうまいなあ」ぐらいの印象だったのですが、3番目の子(※黄郎)の場面からいっきに物語が焼き付いてきた作品。中学3年間、他にも他校の作品で印象深かったものはたくさんあったのに、これだけはざっくりとしたあらすじと場面は覚えていました。
たしかこのときの総評(多分、総評があったなら夏の大会かな)も一部覚えていて、役者についてはやはり評価が高かったのと、作中の赤ちゃんの泣き声に触れられていました。総評が言っていたのは「効果音で探したんだとおもうけどこの声は『お母さんにかまってもらいたい』っていう泣き声だ。作中は「生きたい」って訴えかける描写だから違和感があった。表現的に難しいとおもうが伝えておくよ」みたいな内容。音響に興味を持ってやたら効果音とか凝りだしたのは思い返せばここからかもしれません。
〇番外 同じ作者の方の作品も読んでみた
〇「メロスは走らない!?」
(『中学生演劇脚本集2巻』(1983年、日本演劇教育連盟、晩成書房)
公式のあらすじが見つからなかったため、簡単に内容を説明します。
文化祭で『走れメロス』の朗読をする登場人物達。しかし、「内容がきれいごとだ」「現実はこんなんじゃない」と不平不満をもらします。このクラスの中に、「岡田君」という子がいるのですが登場人物たちも「不良と絡んでいたよねぇ」「昔はまじめだったのになんでかわっちゃったんだろう…」と知ってはいても誰も彼を気に留めることなく日常が過ぎていきます。なにかといいわけをつけて日々の選択をしていく登場人物達でしたが…。
物語の序盤で「走れメロス」のあらすじとともにこう語りては言います。
初読時の印象は「古い作品だけどこんな希望のない作品(※誉め言葉)があったんだ」と思いました。ボク自身、中学の部活動から演劇をはじめたのですがこの登場人物と同じく「きれいごと特有の臭みや灰汁みたいななんか腑に落ちないところ」はありました。なんならあるあるに近いかと。
ネタバレというよりもこれは読んでもらいたいのであえていろいろ書きませんが、クラスメイト達と共に序盤でしれっと出てきた「岡田くん」がキーになります。
岡田君が変わってしまった部分も作中出てくるのですが、ボクが引っかかったところがありました。
ボク、このセリフ読んで思い出したのが『君と宇宙を歩くために』(2023年、泥ノ田犬彦、株式会社講談社)という漫画の登場人物の小林君でした。(一巻の表紙・金髪の方の子)
この漫画の2巻58頁、部活動のために小林君が友人・宇野君とテスト勉強をするときに小林君の視点での世界が描かれています。同じく、勉強しようと思っていてもやる気とは別に、文字の情報を整理して読むことが苦手です。
末尾にある作者コメントには岡田君について細かな記載がなかったこと、また作中だけであればストレスによる影響や当時の非行問題に絡めてだと思うので、あくまで青木が読んで思ったことになります。
多分、当時はそこまで踏まえたセリフではないとは思いますが、時代に遅れてしまったところの改変は著者がOKの旨を末尾に書いているので物語の筋や意図・方向性を変えず、今の方に共感できる時代感に調整すれば令和でも十分上演しても面白そうな作品だなと思いました。
余談ではありますが、『君と宇宙を歩くために』もとても面白い作品なのでぜひ。おすすめです。
〇「棄権」 ※考察のため一部ネタバレ含みます。
(『中学生演劇脚本集5巻』(1984年、日本演劇教育連盟、晩成書房)
先に言っておきたいことがあります。
ボクはこの3作品の中で一番苦手な作品かもしれない。
ただ、同じ作者でここまで違いが出たことは発見でもあるので素直に書いてみようかと思います。
あくまで初読時のみの、個人的な感想は、「小森は入院沙汰になったのに、最後が『あなたのおかげでクラス一体になりました!だから、小森戻ってきてよ!』っておまえら何様のつもりだよ」です。
あくまで誤解していただきたくないのですが作品のクオリティ云々でも作者の考え方を否定するつもりはありません。信じてほしい。青木が勝手に腑に落ちていないだけです。
この全集のいいところは「作者がどうしてこれをかいてどう演じてほしいか」まで書いてくれている所なので、そこを踏まえて「なんでこの作品だけ違和感が出たのか」をまとめてみようかと思います。
【共感できなかった点】
①ボクが個人的に地雷にあたる作品の系統だった、という偏った価値観
これをいいはじめたら元も子もないのですが、素直に認める・知るのも大事かと思って入れました。
ボク自身、幾度か不登校なりかけみたいな時期があって、登校した時にぼろくそ言ってきたクラスメイトが急に謝ってきたことを思い出しました。あの時から、それがずっと気持ち悪かったというか、人間不信になったことがあります。相手からすれば「謝ったのに。ねちっこいな」と思われるかもしれません。
もうそれにつきると自分でも思うのですが、その時の感情を言葉にするなら
「ボクが苦しんだ事実や失った時間は戻ってこないのに、たった一言謝ればまるでその事実がきれいさっぱりなくなったような感じ」が嫌いだったのです。作中でも、「改心したって小森が倒れた事実は変わりないのに、最悪死んでしまうかもしれない未来だってあるのに、なんで平然ときれいな友情として語ってんだこいつら」とさえ見えてしまいました。あくまでこれは青木の、偏った価値観で見た感想にはなってしまいますが。
そしてこの感想は、作者の、登場人物の視点ではありませんし、題材にされた出来事もあったとかいてありました。なにより、これ見て「がんばろう!」と思う人がいるかもしれないのでこれ以上はノーコメントで。
②作者の考える「弱者の理論」と小森君の心情変化
同じく末尾【創作のいきさつ】の中で、作者は「弱者の理論」を踏まえて迫ってみたいと書かれており、もしかしたらこのひっかかりの解消になればと調べました。「弱者の理論」というそのものではうまくでてこず、「ランチェスター理論」という名前や「弱者の戦略理論」という名前で出てきたのでそちらを参考にさせていただきます。
ビジネスの中では弱者(説明では中小企業)が強者(大手企業)と同じ方法で商品を売っても限界があるから、質を上げる等差別化して強者に勝つというものらしい、という説明が一番簡略化された説明でした。
また、「創作のいきさつ」の中で下記のことにも作品が出来るまでに背景としてあったことが書かれておりました。
作者がいう「弱者の理論」に当てはまるところは、「勝負から棄権した健康体のクラスメイト」(強者)と「気管支が弱くても棄権せずに走った小森」(弱者)の対比。また、元の出来事があって、その劇化。
だけど、小森はクラスメイトに勝った(勝った負けたというよりはクラスメイトと小森の間に友情が芽生え成長した)っていっていいんだろうか…。
ボクはどうしてもここに引っかかってしまうのです。もちろん、あくまでも、これは批評じゃないし個人的に読んで思った違和感です。
つながらない。ボクだけかもしれんけど、つながらない。なぜだ。
感覚的なものになるのだけど、青木はいじめっこを今でも覚えています。にくいとか嫌だった、くやしかったというのもあるのですが、「自分の世界がなくなる」というか「殺されるんじゃないか」とか、今思えば大げさと言われても仕方ないような根源的な恐怖が根っこに焼き付いています。
作中では完走後に倒れて起き上がらない。さらに気管支炎で入院。
クラスメイトの輪から抜け、拒絶し笑うという行動からも、「やり遂げた!」というような決してポジティブな感情は抱いていなかっただろうし
そりゃあ、冒頭で「もうあんな学校へ戻りたくない」と言いたくもなるし、手紙だって読みたくないと思ってしまうでしょうよ…。
また、物語の中でも「恥」とか「プライド」という面を小森君が走っている中で同級生たちが議論・葛藤をする場面があります。
逆を考えれば、小森君が走ると言い出した時にクラスメイトから笑われ、どうせお前が走ったってびりだと馬鹿にされ、さらに女子生徒から「無理しなくてもいい」と声をかけられ…。この時、小森君のプライドずたずただったんじゃないかと思ってしまうのと、それだけのことをクラスメイトはしたととらえても過言じゃないような気がしてしまうのです。
実際の出来事、また男女の配役を変えないでほしいというところも「恥」「プライド」はかなり比重の重たく作者の方はとらえていたのではと青木は見てしまい…。
そのことから、見舞いに来たわけでもない、ただたくさん送りつけてきた手紙を読んだだけで改心して、「学校へ行きたい」って、問題が解決したっていうことにもやもやが残ってしまうのです。
もしくは、冒頭で「友情。その問題点」をテーマとされていたから、あえて引っかかりを作り、問題点を考えさせるような物語にされているんだろうか…。それだったら見事にひっかかったのでこの先生の作品めっちゃ巧妙やなとおもうのですが
青木、もう、わからないよ…_(:3」 ∠)_
多分、「メロスは走らない」を先に読んでいたという先入観もあって、すごく、こう、その団結が疑り深く見えてしまったのと、あまりにも、こう、強者目線の話だなと…。でも、自分で書いていてもやっぱり「価値観(偏見?)」って入っているので、青木がただひねくれた見方をしているだけなのかもしれません。いや、多分そうなんです。きっと。
さいごに
どうしてもこの時期は自殺者が増えるといいます。
気持ちはわからなくありません。なんならボクも夏休みが終わると地獄がまた始まるんだと怖くなり、よく吐いたり寝込んだりしておりました。
だからこそ、無責任に声をかけられないのも事実です。今までどう生きてきたと言われたら腹の内にしまって「見て見ぬふり」と「割り切る」としかいえません。
ただ、これも難しいものでキャパを超えると倒れます。青木は社会人になって倒れました。子ども・大人問わず辛いときは辛いんですよ。でも、「辛くない」と言わない、空気が悪くなるみたいなのは、あれは呪いみたいなもんだなと常々思ってます。
ただ、ボク自身、演劇という表現が好きなのも実質【自分がいない(死んだ)世界を観ている】ようなものなので。でも、なにか一言言えるなら消えたくなったら誰かになるのもひとつの手段かと。
なかなか人間の心って難しいですね。
今でもどう書けば届くのかわかりません。なんだかんだ書き連ねても先人の書くものをみてはいつも圧倒されてばかりです。
でも、なにか一つでも誰かの心に穿つものを生み出してみたいものですね。お互い生きている間に。
またどこかでお会いしましょう。
約束ですよ。
それではまた。