
読書記録 「読む戯曲」編
最初、レーゼときいて「♪残酷な天使の」まで浮かびましたが、あれはテーゼですね。青木です。
今回は、『プロトタイプテキストログジャック』の制作につきまして、「読む戯曲(レーゼドラマ)」の読書記録になります。
補足ですが、読む戯曲ならびにレーゼドラマは下記のようなものを指します。他にも、クローゼットドラマ、ブーフドラマ、書斎劇などの名前がありました。
レーゼドラマ(〈ドイツ〉Lesedrama)
上演を目的としないで、読むために書かれた戯曲。上演に適さない戯曲をいうこともある。
なお、今まで「レーゼドラマ」という単語すら知らないところから、制作の資料のためにがっと読んだ中の感想を書きます。おそらく、ほぼ確実に言葉や知識が足らないところがあると思うので「こいつ、バカだなあ」と思ってください。
●すべてのはじまり
◆『読む戯曲の読み方 久保田万太郎の台詞・ト書き・間』(2022年10月、石川巧、慶應義塾大学出版会)
「舞台知識0かつ単体でも読みやすい戯曲」のヒントが欲しくて手あたりに本を漁っていたら見つかった本、そして青木が「読む戯曲」の存在を知った本です。久保田万太郎さんの戯曲研究が主題ですが、その前段階として「読む戯曲」に触れられており、今回そこを中心に読みました。
最初は、「こういう定義があるものが読む戯曲である」というものがあるかと思っていたのですが、「上演できないなら戯曲として価値はない。出来の悪い作品が増えるのはおかしいじゃないか」「文学で終えるのはもったいない。読む戯曲も上演すべきだ」「あくまで判断は読者に任せる」など作者の数だけ考え方が出てきて人の数だけ見方や自論があるイメージでした。ただ、劇作家など演劇人だけでなく、森鴎外や谷崎潤一郎など小説家として名をはせた方について名前も出てきたことが意外。
文芸に入る創作の形態はと聞かれ、小説や詩歌・短歌などは「あぁ!わかるわかる!」となるのに、戯曲も入るかと質問したらなぜか小説などのようにすんなり入らないのは、結果として「上演されてこそ完成であり、戯曲だけでは未完成である」というイメージが馴染んだ結果なんだと思います。
本著でも読む戯曲の歴史や背景を見ながら「少なくとも1910年代~1930年代に活躍した戯曲作家に中に、舞台での上演につながる可能性を放棄してしまった戯曲を屍のように見下す視線が合ったことは間違いない(8頁)」とまで見解を述べていたので演劇という世界でも人権のようなものを得られるのは一部の優等生のみのイメージだったのでしょう。まあ、あまり今もそう変わりないところはとても個人的に書いて感じる節もありますが…。
本当は久保田万太郎さんの戯曲を探して合わせて読みたい気持ちがあったのですが、じっくりしっかり読もうと思えば思うほど、時間が欲しく、この本をしっかりとは読み解けていない部分がかなりあると思う。ただ、好奇心を掴まれてしまったのでこれはこれで個人的に読んでいこうと思います。
●レーゼドラマの定義共通項
いかんせん目安がなければ絞り込みもできないので、「レーゼドラマ」について載ってそうなネットや書籍の事典・辞典あたりを漁っていた時には下記のような記載がありました。
書斎劇(Closetdrama)
上演を目的としないで読むために書かれた戯曲。ドイツ語ではレーゼドラマLesedramaに同じ。(後略)(646頁)
(1973年12月、フランク・B・ギブニー、ティビーエス.ブリタニカ)
レーゼドラマ [ドイツ]Lesedrama, [英]closet drama
劇の形式はとっているが舞台上演を考えず、読む目的で書かれた劇、または上演には不適切な劇作品。ローマ時代の小セネカの悲劇なども、朗詠に力点がおかれ、またルネサンス期の人文学者たちも、プラトンの対話編を模倣した対話形式の作品を書いた。
文学的な内容を優先させるあまり上演を放棄する例もある。英語のレーゼドラマに相当するのはクローゼットドラマ(書斎劇)であるが、イギリスのロマン派作家バイソンの『マンフレッド』なども主人公が中心で独白的抒情の部分が多く、その代表的な作品とされている。しかし、近年になって、演劇観や上演法に大きな変化がみられるようになったため、作者自身がレーゼドラマと見なしていた作品が舞台で再発見される場合も多くなった。その代表的な例はゲーテの『ファウスト』であろう。(1877頁)
地方あるある「調べものの時ほど都会の県外にある可能性が高い」のせいなのか、演劇用語などの時点にはレーゼドラマに関する解説が記載されたものはありませんでした。不思議。
『世界演劇事典』 (2015年11月、石澤秀二、東京堂出版)
→「レーゼドラマ」「書斎劇」「クローゼットドラマ」の項目なし。
『世界演劇事典』(1999年4月 ロビン・メイ、開文社出版株式会社)
→「レーゼドラマ」「書斎劇」「クローゼットドラマ」の項目なし。
『西洋演劇用語辞典』(1996年4月、テリー・ホジソン、研究者出版株式会社)
→「レーゼドラマ」「書斎劇」「クローゼットドラマ」の項目なし。
ここだけの情報だけで大まかなイメージを捉えて考えるなら下記がレーゼドラマの定義のようなものになるでしょうか。
①ジャンルは演劇というより文学表現。
②上演に適さない戯曲形式の作品。または、作者が上演を想定せず書いた戯曲形態の作品。
③再評価・再発見などで舞台戯曲になる。また逆にレーゼドラマと分類される場合がある。
④海外や日本、古典や近代など場所や歴史問わず該当する作品がある。
ただ、小説の中にも萩原朔太郎氏の『猫町』や、梶井基次郎氏の『桜の樹の下には』など、「これは一人称の小説かそれとも散文詩かわからない系統」が存在するならば、表現の模索の中で生まれた産物としては自然だなあと思いました。
●読んだ本や作品たち
◆『雨空』(久保田万太郎、1954年)※戯曲デジタルアーカイブより
初読の感想はずいぶんと間や仕草にこだわりのある書き方をしている印象。
一番特徴的だと思ったのがこの「――」が冒頭のト書きにもあるところでした。
お末 鳥の声鐘の響さへ身にしみて。 ――「菊の露」よ
長平 鳥の声鐘の音さへ身にしみて。 ――あゝさうか、三味線出してよい
気分よい機嫌ぢゃなつて奴だな。(1頁)
最初、おもわずなんだこれはとも思ったのですが、おそらく、言葉と言葉の間のタイミング、間に近い何かだろうなと思いました。読んでいて「――」が入ると、目で文字を追っていった時に自然とそこで区切れ、それをセリフ全体で「あ、ここで一息切った」「あ、ここで止まった」としゃべり方が見えてくるような感じ。
しがない物書きのはしくれながら、いつも「間」に関しては難しく、素直に「間」など書いてみたり、「たじろいで」などの動作で間を表現してもらえないだろうかと模索するのですが、まさかこんな読ませ方があったとは。
加えて個人的に思ったのは、「お末 あたし、大切(だんじ)にしますわ。(寂しい響きをもつ)」(26頁)のように、動作や表情にも細かく指定をする人だなぁという印象。
あれは青木が学生時代に演出と役者を掛け持ちしながら学内で芝居を作っていた時期から武者修行として外のいろんなWSへ参加し始めた頃でしょうか。その中の戯曲のWS、まだ第三者に読んでもらうような一般的な書き方に慣れてなくて、こだわりがでてくるほど「ここまで書くのは演出の領分だよ」とよく指摘をうけておりました。おそらく、このアドバイスが頭にあるからなのか、ボクがどんなにこうしてほしいと望んでも、役者さんや演出さんにゆだねるしかない部分なのかなと諦めていたからなのか、よりくっきりと目にとまりました。この方、プロフィールに俳人ともあり、岩波書店から句集があるようなのでいつか合わせて読んでみようと思います。
◆『戯れに恋はすまじ』(1952年2月、ミュッセ、岩波書店)
人物表があり、全体は戯曲形式。広場から客間、結構なハイペースで場所や心情がころころと変わります。さらに「合唱団」が説明を補っていたり、メタ的に主人公の内情を引きずり出している描写がありました。
補足ですが、「幕(客席と舞台の区切れ。間に休憩とか入る)」「場(幕のような区切れではないが舞台上の場面が変わる)」「景(ひとつの場面をさらに区切って変える)」と場面が変わる違いのうち、本著はかなりこまかく「景」が用いられておりました。
あらすじ
パリで学位を取って帰郷した男爵の一人息子ペルディカンは二十一歳,遺産相続のため同じ日に修道院から帰って来た従妹カミーユは十八歳,幼ななじみの才子佳人の再会だが,二人の恋のかけひきと意地の張り合いに犠牲者も出る.青春の詩人ミュッセが,恋愛心理の真実を芳醇なロマンの香りに包んで仕上げた「読む」戯曲.一八三四年.
ペルディカンとカミーユは許嫁でもあり兄妹のような関係で、ペルディカンはカミーユと結婚しようよとさながら「。゚+.(・∀・)゚+.゚」な顔で言ってそうなアプローチをするのですが修道院での体験から結婚には消極的なカミーユは、「(˘•ω•˘)」な顔で断りながらもなんだんかんだ18歳の乙女で恋慕の関係を断ち切り切れない様子。
ここまではいいと思うのです。ただ、解題の中でミュッセは二作目以降劇作家として大批評を受けたり、駆け落ちまでした相手と不仲になって心身ともに病んだり。この『戯れに恋はすまじ』も病み上がりの傷も言えないうちに書いた作品ということもあり、個人的ですがユーモアなんて言葉ではあまりにも歪んでる展開が繰り広げられていきます。
その作中でカミーユに振り向いてもらえないペルディカンがとった行動というのが、乳姉妹、つまりカミーユの異母姉妹の妹的存在にあたるロゼットにカミーユを振り向かせたいがために結婚しようだの愛の言葉で口説き、本命のカミーユにその様をわざと見せつけるのです。まぁ、そんなことしたものだから最後がとんでもなく「うわ」となる終わりを迎えます。
よく、ラブコメディのジャンルでも「押してダメなら引いてみな」ってやるあのお決まりがコメディとして成立するのは「メインの二人の誤解がとけ仲直りする」「サブのキャラクターがそれを楽しんだり、あらたなカップルが生まれる」などが成立して誰も傷つかないように組まれていたんだなとしみじみと思いました。
ただ、これ、すごいなと思ったのが、戯曲として読んだときに場面がとにかくハイペースで場面が変わるんですが、このスピード感は読む戯曲だから出来たんだろうなおもいました。なんでしょう、この迷うこともなく次の行動に移せるペリデュカンに見え、その判断に至るのがはやいし、その判断を実行するはやさが青木はもはや末恐ろしいと思いました。
《余談》 詩歌とセリフの境目
『戯れに恋はすまじ』を読んだ時に思い出したのは、ずっと前に読んだ『お気に召すまま』や『ロミオとジュリエット』などシェイクスピア作品。
自体的にはシェイクスピアは1564年‐1616年、ミュッセは1810年‐1857年と生きた時代は違いますが、こう、セリフが詩的なところが似てるなあと思いました。有識者の方から絶対そんな浅はかな読みにはならないといわれそうなんですが、まだ読んだものが少ないとはいえさながら孔雀みたいな文章だなあというのがボクが思った西洋の戯曲です。
実は『お気に召すまま』を初見で読んだ時、詩的な表現が多く、また海外特有の洒落や知識を知らなければ「…いま、なにがおきてんの( ᐛ )」ととても初見ではついていけず、今回の『戯れに恋はすまじ』もあらすじ調べてそれを頼りに読みました。
青木、文字の創作は好きなのですが、絵と詩歌短歌は読む専門。絵は単純に描けないので描ける方すごいなぁと。詩歌短歌は学生時代の友人達の影響で読むようになりましたが書くまでには至りませんでした。
おそらく、一番決定打になったのは最果タヒさんの作品を読んだ時でしょうか。創作をする数少なく友人たちで、詩歌短歌が好きな友人達はこぞって「この作家はいい!おすすめだ!」と勧めてくれました。一番近いたとえがうまく見つからないのですが、その時の近い感覚は漫画『珈琲いかがでしょう』(2014年、コナリミサト、マックガーデン)に出てくる主人公とその友人が飲んだコーヒーの味の違いでしょうか。相当前に読んだ漫画なので全体の内容は記憶がおぼろげなのですがその場面ははっきり覚えていて、そのコーヒーをおいしいと思った主人公と泥水のようだといったその友人の分かれ道みたいな場面がありました。
最果タヒさんの作品を読んだ時、きれいで切ない、くちどけのする砂糖菓子のような文章だと思うことはできても、友人たちのように影響をうけて詩歌をかくぞとまではならず、ボクの中でより「書いてみたい」があり続けたのが戯曲の方でした。これは決して表現の優劣の問題ではなくもはや好みの問題なので誤解しないでください。読むのは好きです。ほんとですだから石をなげないでいたいごめんなさい。
書くまでには至らなかったものの詩歌が好きな友人たちは朗読など「音にして読む」ということにこだわりを持っているところはすごく特徴的なだなぁと。なのできっと、ボクのように戯曲という見方だけで読んだ時と、もし詩歌短歌を好きな友人たちがみたら西洋の戯曲や久保田万太郎さんの戯曲はまた違って見えるんだろうなと思ったので備忘録として書き残しました。境目はなんなでしょうか、いまだわからずのままです。
◆『昭和文学全集』「ひかりごけ」(昭和39年5月、武田泰淳、角川書店)
青木、じつはこれ岡山で過去に舞台として観劇してました。
当時は漠然と「あれだよね、人を食べたやつには輪っか見えるとか裁判でいうやつ」とだけ文学史でさらっと知ってる状態で原作を読まず観劇して、ものの見事に頭にはてなで満たされた演目。まさかこんなタイミングで思い返したり読み返したりする日が来ようとは…。
個人的には、この演劇を見てすぐ文庫本を買って読んだ時は「難しい」が頭で先行しすぎてしまい読み終えたか読み切れなかったのすら記憶が怪しいのですが、今は「あ、あれだ!『ゴールデン○ムイ』や『ポ〇モンアルセウス』の世界観だ!」(※本編もアイヌ文化がでてくるので)のイメージでマイルドになり、紀行文の箇所が読みやすくなったような気がします。
前半が紀行文形式(※解説の中で他の作品も含め作者が実際に北海道へ取材へ行ったらしい)、後半が戯曲形式の構造、そして紀行文の終わりにも「読む戯曲」という言葉が出てきました。
また、作者の武田泰淳氏は『ひかりごけ』の紀行文の中でモデルとなった実際の事件を作品にする過程で下記のような迷いを述べておりました。
この事件をどのような形式の小説の皿に盛り上げたらよいのか迷うばかりです。この事件には、私たちに、サルトルの嘔気とは違った意味の、嘔気をもよおさせる何者かがあります。あまりも重苦しい象徴、あまりも色彩鮮明な危険信号、あまりにもコントラバスの効いた重低部の重圧があります。(449頁)
補足ですが、「サルトルの嘔気ってなんだ?」と思って調べたら小説家サルトルの『嘔吐』が出てきました。カフカの影響を受けた作品という説明が出てきたので「あぁ…あの希望が辞書に載ってないようなえぐ憂鬱系の作品を書くカフカ氏か(察)」とでもそこがいいという偏見イメージで重苦しさのイメージは伝わりました。他に作品名として触れらえていたのは『野火』(大岡昇平作)。こちらは映画でみたことありましたが、あの作品は人を食べる食べないの題材以前に個人的に目をむけても聞こえてくる音すら逃げたくなるような、あのもう二度と見たくないほど戦争の凄惨な描写があり、多分武田氏が懸念していたのと近いえぐさはあれに近いものがあったのかなと思いました。
すごく遠い日の在りし日の記憶を遡って舞台のことを思い出した時、演出の方がメタ的に出てきてその前置き(紀行文体のとこ)→漂流中(戯曲文体のとこ)→メタ的な補足→裁判(戯曲文体のとこ/漂流中とは別物とのこと)の場面転換的なことを説明して補足されていたと思います。
なんで心が折れたのか、そこも踏まえて思い出すと決して演出が、役者がとかではなく、ト書きに当たる部分に舞台では見えない部分(「船長はこういう理由があるから我慢を」「ゴルゴダの丘のように」「空襲警報のサイレンが」など)に詰め込まれた部分があったからというのは大きかったんだなと思いました。多分、こっからさらに気になったことを調べたりしていたら、noteの記事一本分ぐらい平気でいきそうなので今回はここまでで割愛します。
◆ 『にぎやかな部屋』(昭和55年1月、新潮社、星新一)
(あらすじ)
マンションの一室。住んでいるのは高利貸しの亭主と占い師の夫人、そして一人娘。そこに金目当ての妙な男たちがやって来て、大騒動が持ち上がる。さらに、死後に人間にとりついてその出来事を皮肉に見守る霊魂たちもからんで……。詐欺師、強盗、霊魂たち――人間界と別次元が交錯する、軽妙なコメディー。会話主体でテンポよく展開、現代の世相と、人間の内面を映し出した異色作。
裏表紙の「人間界と別次元が交錯する、軽妙なコメディー。会話主体でテンポよく展開、現代の世相と、人間の内面を映し出した異色作」とあらすじを見て、「これコメディーだったの?」が初読後の感想です。
決して面白くなかったとかではなく、戯曲という頭でページを開いたら目に入ってきた形式が戯曲ではないタイプの内容で動揺したこと。また、かなり現実と非現実が混同して話を追っていくことで必死になる下手したら心が折れていくタイプの話だったことがコメディよりも抽象的なSF作品の印象として強かったためです。
誤解のないように先に記載しますが、あとがきの中で星新一さんは戯曲の本を参考に読んだときの問題を踏まえたうえでわざとこの形式で執筆したそうです。
例えば冒頭のこの場面。しかも人物表もなくダンッと世界がだされます。
ここはあるマンションの上の方の階の部屋。かなり広い。ひとことでいえば応接間兼事務所といった感じが強い。事実、ここへ住んでいる家族は、この部屋をそのように使用している。いわゆる家庭生活は、この部屋に続く奥のもうひとつの室が使われいるのだ。住人は夫妻とその娘のひとり。どんな商売かは、いずれのちほど……。(5頁)
大事なことなので2回言いますが、あとがきの中で星新一さんは戯曲の本を参考に読んだときの問題を踏まえたうえでわざとこの形式で執筆されています。
最初はおもわず同タイトル同作家の別作品を間違えたのかと思いましたが、あとがきの中にも「出版社のお声がけでかいた」「エノケンなど有名なものはみたことあるが演劇作品は積極的にみない」「後にも先にもこれが最後かな」というようなことを書かれており、ホシヅル図書館(https://www.hoshishinichi.com/)でも戯曲はこの作品のみだったので、間違いでは無さそうです。
「チンパンジーの頭蓋骨」「タイムマシン」など意味深に出てきたり、意味深にそれについて語りだしたり、これは作品のキーかとつかみかけた瞬間、登場人物が「これ何も意味ないんだけどね」と言い出したり。感覚的にはあたまに『パプリカ』の所長がちらついたり、タイムマシーンの下りでは別作品の星新一作品が脳裏をよぎったり…さながらてんやわんやです。
ショートショートの神様あらため星新一さんの作品はいつくか読んだことはあるのですが、あらためて星新一さんのあらたな面をみたような気分でした。しかも2回上演されてるって。すごない?
《余談》地の文とト書き、会話文とセリフ
先述した星新一氏のような書き方を、もし、ボクのような舞台も戯曲も専門的に学べなかったど素人のアマチュアが、ろくにあとがきをよまずに「へぇ!これも戯曲なんだ!なんだか斬新だな!じゃあこの書き方で書こう!」などと先走ってこの形式で書いて戯曲執筆ワークショップなどで見てもらおうものなら、きっとどの講師の方も「小説と戯曲は違うよ」と同じ文章を例として、下記のように基礎をかため、さらに小説と戯曲は異なるものだからしっかりかき分けろと訂正されるでしょう。
登場人物
・夫
・妻
・娘
〇マンションの一室
応接間兼事務所のような部屋。革張りのソファもしくは二つの椅子。高価そうなテーブルがある。床には厚いじゅうたんが敷いてある。部屋の奥側にはもう一室あり、居住スペースとして使用されている
同じ場所と人物の表記ですが「①登場人物表 ②場所・時刻の指定」の書き方がかなり変わってきます。
小説では「地の文」「会話文」、戯曲では「ト書き」「セリフ」という言葉。ざっくりいえば人がしゃべってるか、状況説明かですが、そこには相容れない壁があります。それがその表現のもつ魅力だとも思いますが…。
よく市販の書籍やらワークショップで出てくる違いの例えとしては「木の見え方」が出てきたりします。木の全体像を描き出せるのが小説、木の断面(年輪)だけでその木や木の背景を伝えるのが戯曲です。
小説の利点は「木が誰から見たものか」(一人称.二人称.三人称などだれの視点で書かれているか指定が出来ること)、「その人物が木を見て何を思うか」(目に見えない心の動きなどを形容詞を用いて情緒ゆたかに表現ができること)、そして未来過去現在、そして現実では不可能な事象(木が人を丸呑みにする等)まで表現できること。また、深堀っていけば文字という視覚情報で表現できるので登場人物の名前や会話の中で言葉遊びが出来ます。
戯曲の利点は、「断面から何が見えてくるか」を相手に委ねることが出来るところです。小説に比べれば利点が少ないし、地層も年輪もぱっと見は味気ないもの。ですが、「いつの出来事」「関わった人物」「どんな事柄に振り回されるのか」を空想.想像を膨らませ、それがピタリと現実に鏡写しのように実体化、また総合芸術ゆえに新たな見え方で化ける瞬間はそれはもう沼のような魅力があります。
青木は学生時代は演劇畑でなく文学畑の出身ですし、過去作品(https://note.com/crow69/n/n7c53f7116311)てまは、私小説じみた作品も書きました。ただ、小説を書こうものなら小説の暗黙ルール、戯曲を書くなら戯曲の暗黙ルールがあり、この「ト書き」と「地の文」の書き分けは、青木が数多にぶち当たって来た壁であり、なおすべき癖でしたので、まあ、思えば遠くへ来たもんだとはこのことですね。
加えて、ポツポツと読んで青木個人が勝手に思っていることなのですが、同じ戯曲の体裁でも「演出・役者に関われる・兼ねられるかどうか」で書けることが異なる印象があります。もし、作者が直接演出をする、役者をするなど舞台制作に関われるならばよりイメージを伝えるために稽古の中で言えますし、追加の資料を渡せますからね。
しかし、「公募やネットなど自分のことをしらない第三者にゆだねる」となると、いかんせん、どんなにこうしてほしいと望んでも、セリフ・展開などから「…つたわれ…つたわれ…」と願いながら日々研磨しているとは言え、化学反応のように新しい表現が生まれることもあれば、「な゛ん゛でだよ゛おおおおおおおおおおおお!!!!!!!」とさながらどこに解釈の相違にうまれたのか、はたまた自分の技量不足か凹むこともしばしば。
ただ、こういう、賭けみたいな、パズルみたいなところがボクは好きなので、たとえ使われなくても戯曲を書くという沼から出られないんですよね
(️️️ ´ᾥ` )
少しでも読む、書く問わず、沼の上澄みを楽しんでいただけたら幸いです。
それではまた…