生長記録#21 23/2/19
長文駄文失礼します。
忘れっぽい自分だから落ち着いた今、ちゃんと日記に残そうと思います。
先日2/15に母方の祖父が他界しました。
84歳でした。
5,6年くらい前から施設で1人で過ごしてましたが昨年からずっと体調が悪くて病院と施設を行き来していて、年末頃いよいよリハビリも出来ずベッドから寝て動けない状態になってしまい、最期の延命措置などを行わない小さな病院に転院することになりました。
12/23
祖父の転院の為、仕事を休んで寝たきりでも移動出来るタクシーに同乗しました。
コロナ前振りに祖父に会えました。
自分の知ってるまんまるの祖父ではなくて、痩せこけた寝たきりの祖父でした。
1時間くらい車中2人でずっと喋っていました。
「彼女ができたよ。俺もずっと一緒にいたい人に出会えたよ。」って伝えたら「かあちゃん聞いたかぁ、大変やでぇ。」ってめちゃくちゃびっくりしてて可愛かったなぁ。嬉しかったなぁ。かあちゃんは自分とこの車運転してたからおらんのに。
久しぶりの外をキラキラした目で見てたなぁ。
冬の六地蔵の川沿いが綺麗だった。
よく晴れた日でした。
この1時間が話せる最期の機会だなって思って大切に言葉を交わせました。
病院は2人で行ったことのある伏見稲荷から10分くらいの距離にある小さな病院でした。
1/30
母から連絡が来ました。
祖父の熱が下がらず、お支度に入られましたと。
意味がわかんなかったので母に今から行った方がいいか聞くと電話がかかってきて、まだ大丈夫やけど後もうちょっとやからいつでも行ける用意はしといてと言われました。
こんな日に連絡が来なくてもええやんってちょっと泣きました。
家でべじおと飲んで、その後来たマカロンの前で酔っ払ってたこともあり、めちゃくちゃ泣きました。
その日は祖母の命日でした。
2/8
仕事が休みの日に妹と2人で会いに行って来ました。
京阪電車で1時間30分かかりました。
年明け初めての祖父との面会でした。
年末に会った時からさらに痩せて口を閉じれない骨と皮だけの祖父を見て上手く言葉がで出来ませんでした。
妹と一緒に行って本当によかった。
一人で行ってたら泣いてしまってたと思う。
こういう時の気の強い妹は本当に強いし頼りになる。
単語を上手く発せない祖父に
「なんて!?わからへんで!?」
って言いながら単語をゆっくり聞き取りながら僕に通訳をしてくれました。
最後に何故か僕と妹の名前を書いて欲しかったみたいで妹が書いてあげてました。
俺の名前は俺に書かせろよ。
本当に祖父は間もなく死ぬんだなと思いました。
これが会える最期の機会かなと思うと寂しくなりました。
1/30から毎日がヤマと言われながらずっと覚悟しながら、毎日いつ来るか分からない電話に怯えながら生きていましたが電話は一向に鳴らず自分のイベントも無事に終わらせることが出来ました。
2/13
イベントの次の日、母と妹から連絡がありました。
血圧が急激に下がってるみたいで後悔しないようにとの事で仕事を早退させてもらって、病院に向かいました。
僕のスケジュールを知ってたみたいなタイミングで驚きました。
2人が着いた頃には血圧が少し安定して、大あくびをかきながらぐっすり寝ていました。
寝てるところ悪いので10分程で直ぐに帰りました。
今日で会えるのは最後かなと思いました。
2/14
仕事をお休みさせてもらい朝から祖父に会いに行きました。
所々呼吸しづらそうなところがあり、昨日よりも血圧も下がってました。
僕が来たというのは理解出来ていました。
僕が1時間程ずっと冷えた骨と皮だけの手を握り続けました。
時々ベッドの横を掴んで起き上がろうとしていましたがそんな力はなく寂しそうな顔をしていました。
母はベッドの昇降ボタンを押して祖父を上げ下げして遊んでいました。
その日、帰っていぬいのライブを見てきました。
フィリアを聴けてよかった。
ボロボロ泣きました。
2/15
朝9時頃母から電話がありました。
「じぃじにカズが来るまでは待っててって言ってあるから早くおいで」と震えた声で。
急いで用意をして京阪電車で1時間30分。
最寄りの駅に着いた時、大粒の雪が降ってきました。
両親が駅前のコンビニにご飯を買うついでに迎えに来てくれました。
病院に着いてロビーでゆっくりしていた時に看護師さんが降りて来て母と話をし始めました。
口を閉じさせて頂きましたって言葉が聞こえた時母はぐちゃぐちゃな顔で泣いていました。
間に合わなかった。
2人で病室に入るとずっと開いていた口を閉じた真っ白の祖父が寝ていました。
窓の外に白い梅が咲いている素敵な個室でした。
母と父は葬儀の打ち合わせや病院との書類のあれこれで時間がかかるので僕は先に祖父の家がある宇治に帰り、仏壇に線香をあげました。
その夜は家族5人で祖父とたまに行っていた高級焼肉に行きました。
2/16
家族はみんな自分のことや打ち合わせで家にいない中、僕は1人で仕事を任されました。
葬儀に使う写真を祖父のアルバムから選ぶ仕事でした。
祖父はボンボンで几帳面だったので若い時からの写真がナンバリングされたアルバムが書斎にたくさん残っていました。
どこにいつ行ったとか何時何分の電車に乗っただとか事細かに書かれていました。
自分の知らない祖父がたくさん映ってました。
祖母の写真が増えて来て、母や叔父の写真が増えてきた時くらいから1人で祖父の大好きだったセブンスターを吸いながらずっと泣いていました。
改めてアルバムに紙の写真として残すことの素晴らしさ、自分が昔から写真が好きなことに気付きました。
祖父の話を家族としている時に学生結婚だったことを知りました。
親戚の結婚式で出会った祖母に一目惚れして結婚に至ったそうです。
祖母に一目惚れして東京オリンピックのチケットがあるって嘘ついてデートに誘って競技場の周りを歩いたこと
祖母が嘘に気付いて一緒に歩いてくれていたこと
祖母がお見合いを薦められ実家に帰った時、最寄りの駅で待ち構えてお見合いを阻止したこと
祖母の為に自身の誇りであった早稲田の大学院を中退してやりたいことを辞めて自分のおじいちゃんの会社で働き出したこと
祖父の大好きなエピソードたちです。
2/17
叔父を迎えて6人で通夜を行いました。
叔父の代わりに母が喪主を務めました。
祖父の意向で家族葬でした。
小さな葬儀場を予定してたけど、空調が故障したという事で広い葬儀場に6人でした。
祖母と同じ葬儀場でした。
(祖母の時はめちゃくちゃ人集まった。250人くらい集まった。広い葬儀場を3部屋ぶち抜きで執り行った。)
妹と2人でずっと時計を確認したり、足の短い父を見て笑ったり子供みたいにふざけてました。
今まで聞いたお経の中で1番クセが強くてニヤニヤしてました。
2/18
祖父の家に引き取られた義理の妹夫婦と息子さんも来られ9人で葬儀を行いました。
通夜と葬式は緊張しすぎてあまり覚えていません。
僕が最期の別れの手紙を読むことになっていたからでです。
転院の時から母に読むよう言われていてその場のアドリブで乗り切ろうとしてたのですが、棺桶の中に手紙を入れることになってしまい、通夜から帰った後1人で便箋に書きました。
葬儀と初七日が終わり、棺桶が閉じれないくらいの花を入れた後、最期のお別れの手紙を読みました。
それまで家族の前で絶対泣かないって決めてたけど手紙を読んでいる時はずっと泣いてしまいました。
何とか最後まで読めました。
家族は皆一番グッときて泣いてたみたいだけど周りに気づかないくらい祖父のことしか考えれませんでした。
読み終わったあと父が泣いてることに気付きました。
葬儀場から火葬場まで向かう道中、祖父が過ごした街を通れてよかった。
火葬場から自宅まで、骨壷を抱きしめながら帰った。
まだ暖かくて祖父が膝の上にいるように感じた。
火葬を終えて4年振りくらいに祖父が自分の家に帰ってきた。
祖父と祖母の遺影を並べた時、少し笑ってるように見えた。
夕飯で母と一緒に祖父が毎晩飲んでいた白鶴まるとワイルドターキーを祖父のグラスで乾杯した。
家族5人でくだらない話をダラダラした。
母に葬儀が終わった後送ろうと思っていた写真を送った。
自分で言うのもなんだけど僕が撮った一番素晴らしい写真。
2人で大泣きした。
あの写真は2人だけの秘密です。
人に尽くすことが好きで苦にならなくて
誰かの為になることが好きで
言ってないのにフラれてることに気付かれたり
この人ってホンマにオレの母親やなって思った
何話したらいいかわからんからネットの情報をすぐ話し出して
有名人がいつ生まれたとかこの苗字が全国で何人いるとかが好きで
気になったことをすぐ携帯で調べたりして
この人ってホンマにオレの父親やなって思った
かぁちゃんへ
本当にお疲れ様でした。
ばぁばが亡くなってから10年近く毎週2で1人で過ごす祖父の面倒を見に行っていたあなたを心から尊敬しています。
まだ後始末が色々あると思うけど諸々終わったら全部ほったらかして自分の好きなことを沢山してください。
僕は祖父が好きでした。
一番お世話になった祖父でした。
色んなところに僕だけ連れて行ってもらいました。
けど若さ故に日々を大事に生きずに覚えていないことの方が沢山あります。
後悔しないなんて本当に不可能で
大切なんて失ってから気付くことがたくさんあって
今話したいこと聞きたいことも沢山あるけど間に合わなかった
こんなことも全部今話せる人とちゃんと笑って話していこうってこの2ヶ月で気づかせて貰えました
結局過去を悔やむより今をどれだけ幸せに生きれるかだと思いました
まだ何にも出来ちゃあいない足りない自分だけど
祖父や周りの大好きな人に出会えただけで満足しています
良かったら皆これからも一緒にいてくれると嬉しいです
一緒にいれるように頑張ります
雪の降る晴れた日に梅の見える部屋で亡くなってよかった
身体中ボロボロなのに苦しんでじゃなくて老衰で亡くなってよかった
あなたがこの世で一番愛した人のにやっと会いに行けるのが本当に心の底から嬉しいです
オレが不甲斐ないせいで何よりも愛した人とは別れることになってしまったけど
あなたみたいに不格好でも自分のそれまでの誇りを捨ててでも愛せる人に会えるか今はまだわかんないけど
僕はあなたが愛してくれたこのまま生きていこうと思います
それを愛してくれる人にオレも出会えたら嬉しいな
あなたみたいにひたすら不器用にまっすぐに愛せたらいいな
見守んなくていいんで
僕らは僕らで勝手に楽しく生きてるんで
どうか、あの世でお幸せに
長くなってしまったけど
最後に別れの手紙の全文を載せて終わりたいと思います
長文駄文失礼しました。
じぃじへ
この度は祖父の葬儀に際してここに謹んで追悼の辞を述べさせて頂きます。
かなり前から母から別れの手紙を考えるよう言われていましたが、あなたとの有限な日々を蔑ろに生きてきしまっていたせいか、あまり思い出を思い出せませんでした。
もっとあなたから貰った言葉を大事にしていればと後悔しています。
じいじには初孫特権で沢山可愛がられて色んなところに連れて行ってもらったことは覚えています。
1人で近鉄電車に揺られて宇治まで来てご飯にたくさん連れていってもらったことも覚えています。
よく連れていってもらった高架下の居酒屋は潰れました。
亡くなった後、葬儀に必要な写真選びの為にじぃじのアルバムを全て見せてもらいました。
そこには僕より幼い学生時代の学友と肩を組んで楽しむじぃじの青春を沢山見れました。
ばぁばの写真が、かぁちゃんとおっちゃんの写真が増え出してじいじの映る写真が減ってきていました。
その意味に気付いた時、1人で書斎でセブンスターを吸いながら涙が止まりませんでした。
あの50冊近くあるアルバムたちにはあなたの愛した全ての歴史が詰まっていました。
自分のことが貼れなくなるくらい自分の愛している人や風景で埋め尽くされていました。
上手く話せなかったから気付けなかったけど、愛に溢れた人だったんだと気付きました。
じぃじが1番愛した人にやっと会えることが本当に嬉しいです。
13年積もり積もった話を2人でゆっくり話してください。
100年後には僕もそっちに行くと思うので土産話と酒とタバコで乾杯しましょう。
最後に、
書斎でタバコを吸いながら難しい本を読むあなたが好きでした。
日曜の夕方、洗濯物を入れるばぁばの隣で笑点を見るあなたが好きでした。
夕食の時、まるをなみなみ注いで嬉しそうに啜るあなたが好きでした。
僕もあなたのような愛に溢れた人として周りと幸せに生きていきます。
あなたの孫で本当に良かった。
孫代表 松村一樹
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