偏見について
2020年6月起稿
【偏見】
かたよった見方。ゆがめられた考え方・知識にもとづき、客観的根拠がないのに、特定の個人・集団などに対して抱く非好意的な意見や判断、またそれにともなう感情。(三省堂 大辞林 第三版)
Black Lives Matter の運動が全世界に広まって、今までニュースにも取り上げられて来なかった人種差別の犠牲者の人たちの話が続々と表に出て来ている。今日、2019年8月にコロラド州で起きたElijah McClainさん死亡事件の、警察のボディカメラ映像を見た。Elijahさんは近所のお店で買い物をして、家に帰る途中に警察官に呼び止められ、あれよあれよという間に危険人物にでっち上げられて、地面に押し付けられ、麻酔を打たれ、病院に搬送されたのち、そのまま昏睡状態に陥って死亡した。
彼の最後の言葉が胸に突き刺さる。
"That's my house. I was just going home. I'm introvert. I'm just different. That's all." "All I was trying to do was become better."
- 「あれが僕のうち。僕はただ家に帰ろうとしていただけ。僕は内気でただ変わっているだけなんだ。それだけだよ。」「僕はただ良い人間になろうとしていただけだよ。」
小され大きかれ、誰しもが偏見を持たれたことや偏見を持って人と接したことはあると思う。自分と違うから?みんなと違うから?何が正しくて何が間違いかなんて、誰が決めたの?歴史?神様?国家?
こんな恐ろしいことが、公然とあたかも正義かのように権力を振りかざして行われているのが、アメリカで起きていること。世の中にはまだいろんな不条理が山ほどあるけど、ひとつひとつの問題を、恵まれている環境にある私たち一人一人が、他人事じゃなく、同じ人間に起きていることとして捉えていかなきゃ、結局その世の中を良しとしていることと一緒になってしまう。
じゃあ、Black Lives Matter に関して自分が出来ることってなんだろう。人種差別の背景を知ることはもちろん、SNSで署名や募金のシェア/拡散も出来ることのひとつかもしれない。でもなんかそれってまだ他人行儀な気がしてならないのはなぜだろう。ここ最近ずっと考えていて、少しわかって来たことがある。-まずは、私自身が偏見をなくす必要があるということ。
-----------------------------以下 2020年12月執筆
自分は意識していなくても、私を含め多くの人が自分の見聞きしたことや経験から、物事や他人を判断している。また、少なくともそれに伴った感情で接し方や関わり方は左右されているはず。
例えば、よく「男みたいな字」とか「女っぽい字」といった揶揄があるが、筆跡に性格や個人差による客観的根拠はあっても、「女性は綺麗な字を書いて男性は汚い字を書く」なんて性別による差異に根拠はない。
本当に偏見なくフラットに物事や人に接するのって、卓越した精神じゃないと難しい。でもきっと常に、今在るもの、目の前にいる人との関係性を主軸に考えたり判断していくことを徹底していけば、歪んだ知識で人権を傷つけるようなことはしなくて済むはず。さらには彼らの過去や歴史を知り、それをも享受して現在と向き合うことが「偏見なしに」向き合うということなのかもしれない。
6月に起稿して半年もたってしまった。。偏見についてはまず自己を見つめ直すことから始めるというのが現時点での結論かな。
最近は文化慣習歴史による国民性の違いについてよく考えることがあるので、また別ノートに思考をまとめたいと思う。
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