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リベラル派・保守派は何が異なるのか(外面的要因重視or内面的要因重視)

2024年は世界的にも選挙イヤーと言われており世界各国で選挙が行われています。7月7日は国内では東京都知事選挙、フランスは国民議会下院の選挙が行われました。3月にはロシアの大統領選挙がありましたし、来る11月には米国大統領選挙が注目されています。


1.『インテグラル理論』で語られるリベラル派・保守派

前回触れたケン・ウィルバーの『インテグラル心理学』に引き続き『インテグラル理論』から、一般的に「左派-右派」、「リベラル派-保守派」、「グローバリスト-ナショナリスト」などといわれる政治的な立場が異なる人々は、一般論として各々重視しているところがどう違うのか、私たちにはどのような選択や道がありうるのかについてみてみたいと思います。

ちなみに一連のケン・ウィルバーの『インテグラル本』いろいろ批判もあるようですが…視点を広げる(その視点あったな💡)、分析軸(そういう分析軸はありかも)、研究ありがちな蛸壺的で細分化的なものとは対極でメタ視点の統合的なアプローチの試みとしては、とても学べること、参考になる視点は多いと感じます。ものごとを見るときに、その見方のメリットと現在地、限界とか盲点などをあぶりだすには結構有用そうです。

さて、政治的な立場について、「人々の苦しみの原因をどこに位置づけようとするか」という観点からリベラル派と保守派について端的に書かれていた箇所があったので、紹介します。ウィルバーの見解としては、

人々が苦しむ原因として、リベラル派は外面的な要因を重視しがちであり、保守派は内面的な要因を重視しがちなのだ。言い換えれば、誰かが苦しんでいるとき、典型的なリベラル派は外面的な社会制度を批判する傾向にあり(「あなたが貧乏な生活を送っているのは、社会によって不公平な扱いをうけているからだ」)、それに対して、典型的な保守派は、内面的な要因を非難する傾向にある(「あなたが貧乏な生活を送っているのは、あなたが怠け者だからだ」)。

『インテグラル理論』208頁

要は、何か問題が起こったときに、リベラル派は外的なものに問題の原因を求めて解決法も外界へのアプローチになりがちだけれど、内面を軽視する傾向がある。軽視どころか個人の内面の「価値判断を行うこと」をも拒絶するから、かわりに経済システムや社会構造に焦点を当てることになる。逆に、保守派は内面に問題を求めて、内面を重視し、内面的なアプローチになりがちであるとのこと。

ここまでのごくごく断片的な話でも、保守派とリベラル派の考え方のパターンや前提の違い、限界が見える化されます。両者がなぜ論争しても議論しても噛み合わないのかがみえてきて、視界がクリアになってきます。要は、前提も違うし、焦点を当てる世界、あえて想定しない世界が各々違う。それは単に表面に見える現象の好みとしての右か左か、価値観の違いとか、そういうものではない、ということです。

また、ウィルバーの発達過程(最も単純化したもの)は、以下となっているのですが…(実際はもっとずっと分析軸も多く複雑なので、詳細は『インテグラル心理学』『インテグラル理論』などに譲ります)

意識の進化と世界観の変化:
自己中心的 → 自集団中心的 → 世界中心的 → 神性中心的

『インテグラル心理学』『インテグラル理論』

リベラル派は自集団中心主義的な段階から世界中心的な段階へと移行している(進歩的である)けれども、外面的要因を重視して内面的な世界を軽視しがちで、フラットランド病理(※物質の領域のみが現実であり、狭い科学だけが真実を主張できるという見方)に侵されたものである。いわば、リベラル派の思想は「高次の段階の病理的バージョン」である。

一方、伝統的な保守派のイデオロギーは、家族の価値や愛国心を重視しており、自集団中心的な傾向が強い。内面的発達という見方を十分に含んだものでいるけれども神話的-順応的段階までのものしかない。しかしその範囲においては健全な在り方である。つまり「低次の段階の健全なバージョン」である。

2.私たちの現状の選択肢と、向かう未来の方向性

つまり、現状の私たちの選択肢が、「高次の段階の病理的なバージョン(リベラル派)」「低次の段階の健全なバージョン(保守派)」のどちらかになってると指摘しています。

これは、なるほどね~・・・と唸ってしまう指摘です。両者の意見が対立して噛み合わず、勝ち負けのように戦ってしまう国内外の現状をかんがみると、これは…どちらがよい、どちらかが素晴らしいという話ではないのは一目瞭然です。そして、ウィルバーは言います。

大事な点は、統合的政治(インテグラル・ポリティクス)は、「高次の段階の健全なバージョン」を採用するということだ。後・習慣的で世界中心的な段階に基礎を置いたうえで、内面的発達と外面的発達の両方を等しく重視するのである。意識を成長させたり、心の豊かさを増大させようとしたりしながら、それと同時に、経済的ないし社会的な豊かさを向上させようとも務めるのだ。

(中略)

したがって、統合的政治を実現するために必要な手順は次の二つである。
  (1)  内面領域と外面領域の両方を包含する
  (2)  内面領域における発達の諸段階を理解し、そのことによって優先的指令に到達する。

『インテグラル理論』216頁

統合的な政治…まだまだこの世界では見たことがないですね。政治が特定の利権と結びつき、選挙戦というような戦いのエネルギーと諦めが蔓延する現在では、なかなか想像がつかないです。統合的というのは、現在の対立軸を超えるような視点を持った政治と内面領域の発達(内面にアプローチした教育的要素)とがリンクする世界なのでしょう。実際に生きているうちに体感してみたいものです。現時点でも想像するのは自由なので、まず勝手に想像だけでもしてみるのもいいのかな、と思ったりします。

3.雑感

<左派vs右派>、<リベラル派vs保守派>、<グローバリストvsナショナリスト>、<〇〇推進vs〇〇反対>、など政治的社会的な決断にしても両極ぶつかる混沌とした世界や国内の現状をみると…私たちは社会システムとしても内面や意識の段階としても、まだまだ発展途上であることがわかります。膿だしというか、生み出しというか・・・。

つまり、各々今までの視野角では解決できない課題が多く、それを乗り越えて向かうべき次なる世界(統合していく、全体として調和していく)があるわけです。「現状がわかる、利点のみならず限界や欠点がみえる、次がありそうだ」つまり、地図における現在地がわかるのは大きいと感じます。そして、この混沌にも、次なる一歩の萌芽🌱の役割があるのでしょう。混沌が終わった後に、あ~こういうことだったんだ…ということがいつか種明かしされるかのようにみえてくるのかもしれません。

そして、ケン・ウィルバーの『インテグラル理論』は、善悪二元論で捉えずに、各自どの発達段階においても「自分は正しい」(自分の正しいを相手に押し付けるのはNGとして、「あなたもあなたで正しいのよね」といいつつ「でもね、やっぱり自分は絶対正しい」と思っている社会の先端にいるようなリベラル的な態度ですらも、全然”統合的”ではない)を乗り越えるため、対立を乗り越えて成長進化する社会の次なる方向性の視点のヒントがありそうです。他者を理解したり、自分の状態を客観視したり気づく、また社会と個人が次の意識に向かうときの導線というかキッカケのひとつとしても活用できそう。

ちなみに、『インテグラル心理学』は700頁越えで本文が500頁もあるというボリュームのみならず、体系書で資料集的という感じで、読書に適するかというと…ちょっと違うかなという印象でした。『インテグラル理論』のほうは、構成としてもボリュームとしても読書するには読みやすい感じでした。どちらも現時点では通読しただけなので、これから重点的に部分的に、また章ごとに読んで内面と外面への理解を深めてみたいです。

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