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和久井清水『狐の嫁入り』

 私はなぜここにいるのだろう。
 浅野玲奈(あさのれな)はロブスターのバター焼きを一口食べて、そっとため息をついた。料理の味などまるでわからなかった。
 レストランの天井は高く、クラッシック音楽が静かに流れている。客達の上品な囁きは川のせせらぎのようだ。
 今、ナイフとフォークを投げつけ、席を立って外に飛び出したら……。
 玲奈はそんな自分を想像してめまいがした。ぐらぐらとまわりの景色が揺れる。白いテーブルクロスの上に美術品のようにならべられた料理。その向こうには、実の姉、紗江子(さえこ)と婚約者の藤島一也(ふじしまかずや)がいる。二人の上品ぶった笑顔がぐにゃりと歪み、紗江子の白いワンピースと一也の黒のジャケットが対極図のように交じり合った。
「どうしたの? 気分でも悪いの?」
 紗江子が優しげな声で問いかける。
「緊張してるのかな?」
 一也がからかうように言う。
「玲奈はこういう店、慣れてないの」
 紗江子は勝ち誇ったように言って、媚びた目つきで一也を見た。同じ家で育った姉妹だ。高級なレストランなんて慣れていないのは紗江子も同様のはずだ。
「今日は大事な日だからどうしてもこのレストランにしたい、っていうのよ。一也は美食家なの。さすがは花籠(はなかご)の店長よね」
 そんなことは知っている。このくらいの高級なレストランに連れて行ってもらったことだってある。
 二人は婚姻届を区役所に出すだけで、式も披露宴も一切やらない。その代わりに紗江子のただ一人の肉親、玲奈と三人で会食をすることにしたという。一也には、この場に招きたい肉親も親族もいないらしい。祝福してくれる友人、知人の一人もなく、この結婚を心の底から呪っている玲奈とともに祝うとは、人でなしのカップルに相応しい。
 姉はいつも私の大切なものを奪ってしまう。
 二つ違いの姉は、子供の頃から人気者だった。見た目の可愛らしさと人なつこさ。明るい性格でだれにでも親切で成績も良く、運動会や体育祭でもスターだった。
 小学生の時も中学の時も、高校時代も玲奈はいつも浅野紗江子の妹と呼ばれ、「お姉さんに似てないね」という心ない言葉を投げつけられた。
 学校の先生も友人も、玲奈の存在の向こうに浅野紗江子の姿を見ていたのだ。
 家庭でも同じだった。「少しはお姉ちゃんを見習いなさい」というのが両親の口癖だ。玲奈がなにをしたというのではなく、紗江子のようにできなかったということに対してだ。そんな時の父と母は心底残念そうに、「紗江子の十分の一でもいいから、あんたにいいところがあればいいのに」とため息をついた。
 姉は両親の愛すら玲奈から奪ってしまった。
 そしてまた、玲奈がひそかに憧れ恋していた藤島一也を奪った。
 一也はバイト先の店長だった。全国展開している和食のチェーン店、花籠(はなかご)は、バイト教育が厳しいことで有名だった。一也の教え方は厳しい中にも優しさがあった。仕事に慣れた頃、玲奈は一也に恋していることに気が付いた。一也も玲奈のことを憎からず思っていたようで、仕事帰りにファミレスでお茶を飲んだり、SNSでたわいないお喋りをするようになった。
 ある日、仕事帰りに二人で駅前をぶらぶらと歩いていると、後ろから紗江子に声をかけられた。偶然見かけたので、と言っていたがそれは嘘だ。紗江子がそんな時間にいるはずのない場所だ。
 一也との交際が紗江子に気取られぬように、玲奈は最新の注意を払ってきたつもりだ。だが、勘のいい紗江子は玲奈の変化に気付いたのだろう。そして待ち伏せをし、あとをつけてきたのに違いない。
 交際が始まったばかりの一也と玲奈の関係は、あっという間に紗江子によって幕が引かれた。そして玲奈に取って代わった紗江子が、一也との交際を始めたのだった。
 牛肉のパイ包み焼きが出てくると紗江子は、急に昔話を始めた。それは姉妹がまだ小学生の頃のことで、両親と一緒に親戚の家に遊びに行った時のことだ。
 伯母は母の姉で、農家に嫁いでいた。町の中心部から電車で四十分ほどのところにあるのだが、ものすごい山の中だった。自然が残っているといえば聞こえはいいが、隣家がどこにあるのかまったくわからないような場所だった。
「紗江ちゃん、よく来たね。お焼き作っておいたよ。好きでしょう?」
 伯母は紗江子の肩を抱いて家の中に入っていく。二人の後ろ姿を、悲しい思いで何度見たことだろう。両親も続いて中に入っていく。置き去りにされた玲奈は玄関の前で立ち尽くしていた。
 しばらくして、玲奈がいないことに気付いて母が外に出て来た。
「なにやってるの」
 言葉と同時に手が出る。頬を張られて泣きながら伯母の家に入ると、お焼きはすっかり食べられたあとで、変色したたくあんだけが皿の上に残っていた。
 伯母のことは嫌いだったが、家の周りの畑や小川や森は好きだった。いつも日が暮れるまで一人で遊んでいた。
 その日も小川に沿ってどこまでも歩いた。野苺を摘んでは食べ、ススキの若い穂を振り回し、でたらめな歌を歌った。草や木や鳥がとても近くに感じられて、だれに愛されなくても自分は幸福だと思えた。このまま一人で、人間のいない世界をずっと生きていけるような気がして、知らず知らず笑いがこぼれてくる。
 足取りはいよいよ軽く、自分がどこを歩いているのかも気にならなかった。
 日が落ちると、山の中はあっという間に暗くなる。空にはまだ夕焼けの名残があるというのに足元は暗かった。
 玲奈は急に怖くなって辺りを見回し、帰り道を探した。
 その時、山の端にぽつんと明かりが見えた。
 明かりは二つ、三つと増えていく。
 四つ、五つ、六つ……十、十一、十二……。
 オレンジ色の明かりはゆらゆらと揺れながら、一列に進んでいく。
 玲奈は引き寄せられるように、明かりに向かって歩いていった。
 着物を着た男女が手に提灯を持ち、並んで歩いていた。男は紋の付いた羽織を着ていて、女はすそに金色の刺繍がある黒い着物を着ていた。中に一人だけ上から下まで真っ白な着物を着ている人がいる。
 花嫁だ、と玲奈は思った。これは狐の嫁入り行列だ。うつむいているので顔は見えないが、みんな狐の顔をしているに違いない。
 玲奈は行列に加わって、一人一人の顔をのぞき込んだ。だがどうやっても顔を見ることができない。どの人も顔をそむけたり、提灯の明かりが届かなかったりで、顔の部分だけは暗く隠されていた。
 花嫁行列は粛々と夜道を進んでいく。狐の花嫁がどこに嫁入りするのか、玲奈は見届けたいと思った。この行列の先には狐の花婿がいるはずだ。
 夜が更けているのがわかった。いつもなら寝ている時間なのだろう。足も目蓋も重くなり、なんとか歩いてはいるが眠くてしかたなかった。
 紗江子の甲高い声で我に返ると、玲奈は小川のそばの窪地に横になっていた。懐中電灯で顔を照らされ、自分がここで眠っていたことを知った。
 遠くから、いくつかの小さな明かりが瞬きながら近づいてくる。
「お母さん。こっちこっち。こんなとこで寝てるよ」
 母と伯母がやってきて玲奈の顔をのぞき込んだ。
「なんで心配かけるの? あんたって子は」
 乱暴に引き起こされて、げんこつをくらった。それでも心配してくれていたのか、と思うとその時は嬉しかった。
「紗江子がここじゃないかって教えてくれたんだよ。あんた紗江子に感謝しなさい」
 この窪地は秘密基地と名付けて紗江子とよく遊んだ場所だ。紗江子に見つけてもらわなくても、ここなら伯母の家のすぐそばだ。目が覚めたら一人で帰ったにちがいない。
 だが、この一件は紗江子の手柄となり、ことあるごとに持ち出され、利口な姉と愚かな妹という構図を聞く人に印象づけるのだった。
 今も紗江子はその話を一也に言って聞かせ、笑い合っている。玲奈も一緒になって笑った。少しも面白くない。むしろ腹立たしい。だけど子供の頃から可笑しくもないのに笑うのは慣れているので完璧に笑うことができる。
「玲奈って想像力が豊かなの。小さいときから。あの時も、狐の嫁入り行列について行ったんだってきかないの。夢を見たんだろうけどね」
 紗江子は笑っている。この笑顔ははたして本心からのものなのだろうか。玲奈のように、紗江子もまた本当の思いを隠しているのではないだろうか。そう思うと紗江子が一也と結婚する、ということ自体、疑わしいものに思えてきた。
 紗江子が一也を選んだ理由が、玲奈にはどうしてもわからない。たしかに一也は見た目はかなりいいほうだと思う。背も高いし色白で、二重まぶたの目がとても魅力的だ。加えて人に話を合わせるのがうまい。中身のない話を面白おかしく喋って女性を笑わせたりもする。
 だが、紗江子の好みのタイプは、一也のような男ではなかったはずだ。チャラチャラしたタレントにも、いつも辛辣な言葉をテレビに向かって浴びせていた。「男は学歴と経済力」紗江子はいつもそう言っていた。
 紗江子自身は容姿端麗、と周りから言われ、それを真に受けている。加えてそこそこの大学を卒業し、とりあえず地元の信用金庫に就職した。妹に比べたら、どんな高望みをしても自分は許されると思っているらしい。
 玲奈のほうはかなり偏差値の低い大学にようやく合格したが、中退を余儀なくされた。入学してわずか半年後に父が交通事故で亡くなったのだ。ショックで病気がちになった母の看病のためと、経済的な理由で大学をやめるように、紗江子から強く言われたのだ。
 学費の高い大学に入っている自分がやめるのは当然、と思うことにしたが、そう簡単に割り切れるものではない。
 姉が就職し母が亡くなった今、もう一度大学を受け直すという選択もあるはずだ。姉に生活費の援助をしてもらい、アルバイトをしながら大学に通う。目的があって心が強い人なら、きっとそうするだろう。だが、玲奈には特に目的はなかった。強いて言えば、少しでも条件のいい結婚をすることだ。
 そんな時に出会ったのが一也だった。自分の人生にもようやく明るい兆しが見えてきたと思ったのに。
 玲奈はデザートのフォンダンショコラをフォークで二つに割りながら考えた。
 いつから紗江子の男の好みが変わったのだろう。
 一也は大学は出ていない。ただ、親の遺産があるとかで、働かなくても食べていけるというのは聞いたことがある。今の仕事が好きだから働いているのだと。着ている服はいつも垢抜けていて、時計や財布は高級ブランドのものだ。
 紗江子は一也のお金に目が眩んだのだろうか。それとも、玲奈から一也を奪うことが目的なのだろうか。
 食事を終え、レストランを出ると二人はこれから映画を観に行くという。
 玲奈の犠牲の上に紗江子の人生があるのではないか。一人で夜道を歩きながらそんなふうに考えた。
 ずる賢い狐のような花嫁。
 もし紗江子が結婚式を挙げたら、その日は天気雨が降るのだろう。

 二人の婚姻届は一也が休みで、紗江子が有給を取れる日の大安に出すと聞いている。その日がいよいよ来週に迫った日の夜、紗江子と一也は長々と電話をしていた。
 リビングで、最初は楽しげに話していたのに、だんだんと雲行きがあやしくなる。
「そういうことを言ってるんじゃないの。なんでそんなこと言うの? あなたのそういうところが嫌だって言ってるの。どうして直そうとしないの」
 なにをそんなに揉めているのか、玲奈はリビングの扉の前で聞き耳を立てた。
「じゃあ、ちゃんと話そうよ。うん。今度の日曜日に。え? 休めばいいでしょ」
 仕事を休めと言っているらしい。飲食店の日曜日に店長が休めるはずがない。
 なんという無茶を言う女だろう。我が姉ながら呆れるばかりだ。
「じゃあ、海浜公園で。私の車で迎えに行くから」
 海浜公園は花籠から車で二十分ほどのところにある。なぜそんなところで、と思ったが、ただデートをしたかっただけなのか、とバカバカしくなった。
「なんか喧嘩してた?」
「うん。ちょっとね。わけわかんないこと言うから腹がたって」
「わけわかんないことって?」
「結婚前にこの家、処分したらどうかって」
「どういうこと? この家処分したら、私、どこに住めばいいの?」
「だよねぇ。でも、一也が言うには、ここは二人の家だから、あとあとトラブルにならないように、今のうちに売ってお金を分けた方がいいって」
「トラブルってなに? 私たちがお金のことで揉めるっていうの?」
 口ではそう言ったが、たしかにこの先なにがあるかわからない。家を売ったお金を半分にする時に、すんなりといかない可能性だってある。紗江子はなにかを企んでいるのではないか。これまでのように、妹のものを、また奪おうとしているのではないだろうか。
 家の処分のことだって、本当に一也が言い出したのかどうか、あやしいものだ。
「揉めたりしないよね。でも私が一也と結婚してこの家を出たら、あんた一人でここに住むんだよ。寂しくない?」
 やっぱりそうか。どうやって私を説得するか相談するつもりなんだ。一也を悪者にして私を騙そうとしているのだ。

 玲奈は自分の部屋で、どうしたら紗江子の悪巧みを暴けるか考えていた。
 紗江子は仕事に行った。玲奈は今日一日、休みだった。空はいまにも雨が降りそうだ。どこに行くという予定があるわけではないが、黒い雲のせいで頭が重く、気分が晴れない。
 紗江子はどうやって両親の家を独り占めするつもりなのだろう。
 玲奈は何気なく、地図アプリに海浜公園の場所を表示させた。
 なぜ、こんなところで話し合うのか。
 不思議に思いながら、周囲を見ると近くに法務局の出張所があった。
 ああ、やっぱり。
 法務局で家のことを調べるつもりなのだ。
 紗江子は一也をだましている。妹の男を奪うために一也に近づき、利用して財産を奪おうとしている。一也と結婚するのは自分だったのだ。幸せな結婚ができるはずだったのに。
 その時、家の電話が鳴った。紗江子が勤めている信金の職員だという。名前は聞いたことがある。紗江子と同期入社の男性職員だ。
 横田雅之(よこたまさゆき)となのる男は、紗江子から電話はなかったか、と訊く。
「いいえ。なにも。なにかあったんですか?」
「一緒にお客さんのところへ行くことになってたんだけど、今朝、僕の母がちょっと具合悪くなって病院に行ったりしてたもんだから。直接行くことにしたんだ。だけど待ち合わせの場所に、浅野さんが来てないんだよ。スマホに電話したんだけどつながらないんだ。なにか連絡来てないかな」
「いえ。なにも。信金のほうに伝言が行ってるんじゃないですか?」
「いや、それはないと思う。これから行くお客さんっていうのが、ちょっと……。お姉さんから聞いてない? きみのことで、ほら、いろいろと」
「ああ、あのことですね」
もちろんなにも聞いていないが、とりあえず話を合わせておく。
「うん。きみもいろいろ大変だね。でも大丈夫だよ。心配しなくていい。僕とお姉さんにまかせておけばいい」
「ありがとうございます」
 紗江子はこの横田という男と、なにかよからぬ相談をしていたに違いない。それは玲奈を陥れるものなのだろう。だから、玲奈にはなにも話さないのだ。いや話せないのだ。
「これから行くお客さんって、あの、どっちの人ですか? えーっと、山本さん?」
 適当な名字を言った。
「山本? いや、石堂(いしどう)さんだよ。スナック蛍の」
「ああ、そうですか」
「あ、浅野さんが来た。走ってくる」
 横田は笑って電話を切った。

 その日の夜、玲奈は紗江子が仕事から戻るのを待って横田の名前を出した。紗江子は、ほんの一瞬だが動きを止めて、上着を廊下のハンガーに掛けた。
「連絡取れない、ってすごく困ってたよ。横田さんってあの横田さんだよね」
「うん」
 紗江子は着替えたトレーナーの袖をたくし上げながら、気の抜けたような返事をした。わざと気にも留めないふうを装っているのが、見え見えだった。
 同期で入社した横田とは、気が合うらしく休日にデートらしきものをしていたことを知っている。だが、紗江子のほうはちゃんと付き合う気はなかったようで、「告(こく)られたけど断わった」というようなことを言っていた。
 紗江子の頼みがなにかは知らないが、それを心安くきいてやるところを見ると、まだ気があるのだろう。
「スマホにかけても出ないって言ってたけど」
「ああ、デスクの中に忘れて出ちゃったのよ。で、うっかり逆方向の電車に乗っちゃって、それで時間に遅れたの」
「ふーん。勤務時間中だから、仕事なんだよね」
「そうだよ」
「職場のほうに訊いたら、って行ったら、それはちょっと、って言ってたけど、なんで?」
「さあ、なんでだろう。べつに普通の仕事だけど」
「なんか、私に関係あること?」
「いいや」
 紗江子はバカにしたように笑った。
「あんたに関係あるわけないじゃない。仕事なんだから」
 これ以上この話はしたくない、というように紗江子はテレビをつけ、ソファにどっかりと座って新聞を広げた。
 今日の夕食は玲奈の当番だ。作っておいた親子丼の具を、二つの丼に盛り付けてダイニングのテーブルに置く。味噌汁とサラダを並べ、紗江子を呼ぶと不機嫌そうに黙り込みながら席に着く。
 食事の間はいつもテレビをつけっぱなしにして、タレントの悪口などを言いながら食事をする。それが唯一の共通の話題なのだ。だが今日は、そんな話をするでもなく、重苦しい食卓に番組の妙に明るい笑い声だけが虚しく響いていた。

 翌日、玲奈は早番だったので、バイトが終わったあとスナック蛍に向かった。客は一人もいなかった。
 奥まったボックス席に座り、ビールを注文した。カウンターの向こうには、五十歳くらいの疲れた感じの痩せぎすの女が立っていた。
 ビールが来るとすぐに、横田に電話をかけた。
「今、蛍に来てるんだけど、来ませんか」
「えっ」
 横田はなぜかひどく驚いている。
「まだ仕事、終わりませんか?」
「ちょうど終わったところだけど。でも、どうして蛍に?」
「横田さんに訊きたいことがあるんです」
「いや、僕はなにも知らないよ。きみに教えてあげられることはなにもない。そんなことより、はやくそこから出た方がいい」
「どうしてですか?」
「それは言えないんだけど……」
 横田は声をひそめて言う。困り切ったようすから、紗江子から口止めされているのがわかる。
「ここがだめなら、どこか別のところでお話できませんか? 姉は私になにも話してくれないんです。なにが起きてるんですか? 教えてください」
「あのね。とにかくそこから出るんだ。いいね」
 横田は一方的に電話を切ってしまった。
 紗江子によほど強く言われたのだろう。腹立たしい。そして紗江子への憎しみがわいてくる。苛立ちながらビールのグラスを取り上げようとすると、いつの間にかテーブルの横に男が立っていた。
 スキンヘッドで黒いジャージを着ている。胸元には太い金のネックレスが下がっていた。
「あんた、浅野さんの家族?」
「え」
 目つきや話し方が、明らかに普通の人ではなかった。これまで出会ったことのない人たち。つまり裏の社会で生きる男なのだろう。
「そうなんだろう?」
 玲奈は怖くて返事ができなかった。なぜ、紗江子の家族だとわかったのか。あとで思い返してみれば、単純に顔が似ていたからなのだろうが、その時は恐怖で頭がまわらなかった。なにか恐ろしい罠にかかってしまったような気がして震えた。
 玲奈が返事をしないので、男は舌打ちをしてどこかに行ってしまった。
 すぐにでも店を出たいのに、腰が抜けたのか立ち上がれない。カウンターの向こうで、店の女が意地の悪そうな顔でグラスを拭いていた。

 紗江子がなにかを企んでいるのは間違いない。
 眠れない日が続いた。
 スナック蛍のママは、ヤクザと知り合いなのだ。あるいはヤクザが経営している店なのかもしれない。
 紗江子に訊いても答えるはずはない。もう一度、横田に電話をかけた。仕事中のはずだが、かまうものかと思った。
「困るよ。浅野さんから口止めされてるんだ」
「教えてくれるまで、何度だって電話するから」
 横田は長い息を吐いて、どこか静かな場所へ移動したようだ。
「軽々しい行動をしちゃだめだよ。蛍にももう行っちゃいけない。僕と浅野さんが、きっときみを守るから。いつもどおりに生活するんだよ。知らない人と話をしてもだめだ。いいね」
「どういうこと? 蛍にヤクザみたいな人がいたけど、あの人なんなの?」
「石堂さんだよ。その人は大丈夫なんだ。もし知らない人が接触してきたら。すぐに浅野さんに言うんだよ。だけど蛍には行っちゃだめだ」
「よくわからない。ちゃんと説明して」
「とにかく、あと少しで問題は解決するんだ。僕たちにまかせておくように。今はそれしか言えない」
 再び電話は一方的に切られてしまった。
 横田に訊いたせいで、ますます不安になる。蛍にいたヤクザみたいな男が大丈夫だなんて、どう考えてもおかしい。
 間違いなく横田は紗江子に騙されている。紗江子に丸め込まれた横田はあてにできない。もちろん蛍にいた男が玲奈の味方だとも思えない。
 横田の口ぶりからは、玲奈の身に危険が迫っているようだ。紗江子に、この家の権利をすべて放棄する、と言うべきか。だまってこの家を出るべきか。玲奈は決めかねていた。
 紗江子は憎いが、怖い思いをするのはごめんだ。だが、これからどうするかは、日曜日に紗江子と一也がどんな話をするのか、それを確かめてからだ。海浜公園で話をするといえば、公園の端にある東屋ではないだろうか。あそこなら、木立に隠れて話を盗み聞きすることができる。玲奈は武者震いのような震えを抑えることができなかった。

 駅から公園方面へ行く電車に乗り、バスに乗り継いだ。海浜公園の入り口にあるコンビニに入り、紗江子の車が通るのを待つ。
 紗江子が運転する車の助手席に、一也の姿が見えた。
 コンビニを飛び出し、駐車場に黒い軽自動車が駐まるのを確認して、公園の東屋のそばの木陰に身を隠した。
 ヤチダモやミズナラが濃い影を作っていて、夏だというのに寒いくらいだった。一方で東屋はそこだけが明るく日が差していた。巨木が鬱蒼と茂っているおかげで街の喧騒も、すぐ近くにある海の波音も、ここまでは聞こえてこなかった。
 遠くに二人の影が見えた。玲奈は身を固くして待った。ところが二人は、公園ではなく海のほうへ歩いていく。
 人気のない海水浴場をぶらぶらと歩き、防波堤の上で海に向かい話し込んでいた。幸い大きなトラックが何台も停まっているので、その陰から二人のようすはよく見えた。だが、波の音で二人の会話はまったく聞こえない。
 がっかりして帰ろうとした時だった。二人は向き合って言い争いを始めた。なにを言っているのかわからないが、かなり激しい調子で言い合っている。
 紗江子が言った言葉に、一也の顔つきが変わった。
 一也が紗江子の肩を小突く。体勢を崩した紗江子は一也に向き直ると同時に、両手で胸を突き飛ばした。不意を突かれた一也は、後ろへと大きく一歩後退した。そこを紗江子はさらに思い切り押したのだった。
 一也の体は防波堤の向こうに消えた。
 紗江子は肩で息をしながら海を見下ろしていた。波の音に混じって一也の声がわずかに聞こえる。助けてくれと言っているようだ。
 手をさしのべて助けるのだろう、と見ていると、紗江子は引き攣った顔であたりを見回した。子供の頭ほどの石を見つけると両手で抱え、一也が落ちたあたりに向かって大きく振りかぶった。そしてそのまま投げつけた。
 一也の悲鳴が、玲奈のところまではっきりと聞こえた。
「お姉ちゃん」
 身を隠していたことも忘れて、思わず飛び出した。
「玲奈、なんであんたがここにいるの?」
「そんなことより、一也は?」
 玲奈が海のほうを覗こうとすると、紗江子が押し止める。その手を振り払い、玲奈は防波堤の上から海に身を乗り出した。
 テトラポットが波に洗われていた。だが、一也の姿は見えない。
「いない」
「海に落ちたの」
 冷たい声だった。
「どうしてこんな……」
「行こう」
 玲奈の問いには答えず、紗江子は腕を強く引いた。
「だって」
「早く」
「助けを呼ばないと」
「もう死んじゃったわよ」
 引きずられるようにして車に乗せられ家に帰った。
 その日、紗江子の口から一也の話は出なかった。玲奈はあまりの怖ろしさに、紗江子の顔を見ることもできなかった。
 紗江子ははじめから一也を殺す気だったのだ。それで話し合いの場所を海浜公園にした。法務局の出張所が近いからだ、などと思ったのは玲奈の勘違いだ。今日は日曜日なのだから。
 なにごともなかったように夕食を作り、食べ、テレビを観ている姉を、玲奈は別の世界の生き物のように怖れた。

 翌日、バイト先の花籠に出勤すると、店長が無断欠勤しているので騒ぎになっていた。仕事熱心な人だったので、事件や事故に巻き込まれたのではないかと、バイト仲間で噂しあった。
 玲奈が一時期、一也と付き合っていたことは知られていなかった。まして姉と結婚する予定だと言うことは、だれにも言っていない。
 午後になると本部から人がやって来て、スタッフ全員が話をきかれた。玲奈もきかれたが、「なにも知りません」と答える声が震えてしまった。
 バイトが終わっても、家に帰る気がしなかった。前に一也と行ったファミレスでコーヒーばかりを何杯も飲んでいた。
 紗江子がここまで冷酷な人間だったとは。
 一也を奪い、いとも簡単に殺してしまう。そんな人間と一つ屋根の下で、どうして暮らせるだろう。
 これまで姉に奪われたものの数々を玲奈は思った。姉がいたために得られなかった、楽しいはずの子供時代。親の愛情。そして一也という恋人。
 紗江子への気持ちは、怖れから怒りへと変わっていった。
 もうこれ以上、なにも奪わせはしない。
 いつの間にか両手を痛いほど強く握りしめていた。
 玲奈はこれからやるべきことを、一つ一つ胸に書き付けていった。

「玲奈、ちょっと来て」
 紗江子がリビングで呼んでいる。
 夕食の後片付けをしながら首だけを回して、「なに?」と返事をした。
 夕食は交代で作ることになっている。今日は紗江子がカレーを作ったので、片付けは玲奈の役目だ。一週間前もカレーだった。その時は玲奈が作ったのだ。今夜はなにがいいか、と訊かれて玲奈はカレーをリクエストした。「ええ? また?」と紗江子は驚いたが、「簡単だから、まあいいや」と笑った。
 紗江子はリビングのテーブルに新聞を広げ、記事を見ている。なにか嬉しそうだった。
「ねえ、来てよ。あんたに話すことがあるの」
 声が弾んでいる。一也を殺してから、一見普段と変わらないようでも、時々は遠い目で物思いにふけっていることもあった。今日のように明るい声を出すのは久しぶりだ。一也を殺したことを悔いているようすはまったくなかった。紗江子への憎しみはますますつのっていった。それは静かに冷静さを保ちながら、深く蓄積していった。
「これだけ、やっちゃうから」
「いいから。私があとでやるから。早く来てこれ見てよ」
 朝は二人とも新聞を読む暇がないので、夕食後に読むのが日課になっている。紗江子は今朝の新聞を見ているのだろう。今日、なにか大きなニュースがあっただろうか、と訝かしく思いながらリビングにやって来た。
 ところが、紗江子は妙な顔でお腹を押さえていた。
「どうしたの?」
「急にお腹が痛くなった」
 すると突然エビのように身を縮め、苦しみだした。
「なんか悪いものでも食べた?」
 玲奈は背中をさすってやりながら訊いた。
「ううん。カレーだけ」
「私、なんともないよ。盲腸とかかな」
「盲腸って、右側じゃないの? 私、お腹が全部痛い」
 紗江子は歯を食いしばってうめき声を上げた。脂汗をかいている。
「どうしよう」
 ただ、おろおろと紗江子の背中をさすっていた。紗江子は何度もトイレに行った。そのうちにトイレに立つこともできなくなった。
 顔を見ると意識が朦朧としているようで、目の焦点が合っていない。
「お姉ちゃん。しっかりして」
 玲奈は泣き声で何度も呼びかけた。
「……って」
「え? なに?」
「……に、連れてって」
 絶え絶えの息で懇願する。
「え? 病院? わかった。当番医を調べるね」
 バッグに保険証と着替えを入れて持ち、紗江子の腕を自分の肩に回して立ち上がらせた。
 紗江子は苦しそうな声を上げる。
「お姉ちゃん、頑張って」
 玲奈は車の免許を持っていないので、タクシーを拾うには表通りまで出なければならない。ほとんど足に力が入らない紗江子を抱えて、ほんの数メートルを進むのも大変な苦労だった。
 大学を中退したあと、玲奈は免許を取ろうとした。だが紗江子が反対したのだ。父が亡くなり専業主婦の母が病気になって、一家で収入があるのは紗江子だけになった。玲奈が免許を取るお金はない、と言下に退けたのだ。あの時、免許を取っていたら紗江子がこんなに苦しい思いをすることはなかっただろう。
 ようやくタクシーを捕まえ、行き先の病院を告げてシートに背をあずけた。その時に、タクシーを電話で家まで呼べばよかったのだと気付いた。さらに言えば救急車を呼んでもよかったかもしれない。
 紗江子が苦しみ、身をよじって呻いた。
「ごめんね、お姉ちゃん。救急車呼べばよかったね。私、気が動転しちゃって」
 玲奈の言葉が耳に入らないのか、紗江子はただ低いうなり声を上げるだけだった。
 306号室、六人部屋の窓側のベッドで、紗江子は眠っていた。投与された薬が効いたのだろう。診断では、食中毒と思われるが明日以降に詳しい検査をするという。脱水症状が激しいので二、三日は入院することになるらしい。
 玲奈は一度家に帰って、洗面用具やスリッパを持ってくることにした。来る時は慌てていたので、そこまでは気が付かなかったのだ。面会時間は午後三時からと決まっているらしいが、洗面用具はすぐにでも必要なものだし、朝に来てもいいと言われている。
「お姉ちゃん。明日来るね」
 紗江子の目蓋がぴくりと動いた。薬で眠ってはいるが、声は聞こえているようだ。玲奈は紗江子の耳に顔を寄せて囁いた。
「伯母さんから聞いたお噺、覚えてる? 人間の男を好きになった狐が、殺されるって知ってて嫁入りした話。それで晴れの日だっていうのに雨が降るんだよね。そのあと狐のお嫁さんは、日照りつづきの村のために生け贄になって死んじゃうんだ。私は狐が可哀想だって泣いたけど、お姉ちゃんは人間のために死ぬんだから意味のある死だ、って言ったよね。今でもそう思う? 意味のある死なんてあると思う?」
 夢でも見ているのだろうか、紗江子は苦しそうに眉間にしわを寄せた。
「私はないと思う。意味のある死なんて。死んだらおしまいだもの。お父さんも、お母さんも一也も。それからお姉ちゃんも。死んだらおしまい」
 玲奈は、「そう。死んだらおしまいなんだ」と、もう一度、確認するように言った。

 翌朝、病院に着くとちょうど朝食の時間が終わったところだった。配膳をする職員が大きなカートを押して廊下を通っていく。慌ただしく人が行き来する中で、ナースセンターでは引き継ぎをしているのだろうか、看護師が集まっている。病院内はざわざわと慌ただしく落ち着かない。朝はいつもこうなのかもしれない。
「具合、どう?」
 紗江子は目を覚ましていて、天井を見ていた。一晩で目の周りが落ちくぼんで黒ずんでいる。なにも食べず、点滴だけで栄養を取っているのだろう、手持ち無沙汰なようすだった。
「痛みが取れたから、なんとか……」
「顔、洗うんだったら手伝うよ」
 玲奈は持ってきた洗面用具を見せて言った。
「あとでいいや。なんか動きたくない」
 看護師が点滴を交換にやってきた。
「どうですか。具合は」
 テキパキと空になった点滴のパックを交換しながら、笑顔で話し掛けてくる。
「よく眠れましたか?」
「ええ、まあ」
 紗江子が答えたが、看護師は「あら」と窓の外を見て「雨」と驚いたように言った。
「お天気雨だわ。ほら」
 玲奈に外を見るように促した。
 さんさんと輝く陽光のもとに、虹色の雨が降っていた。
「あら、本当」
 玲奈も思わずはしゃいだ声をあげた。この美しい雨が、今日、この日に降るなんて。
「ぴったりの雨だわ」
 看護師は意味もわからず、玲奈に同調して笑った。二人はなぜか笑い合った。
 外が見えない紗江子は、そんな二人を不安そうに見ていた。
 同じ部屋の六人の患者は、みんな点滴のポールをそばに置いている。起き上がってぼんやりしている人もいれば、紗江子のように横になっている人もいる。
 看護師は病室のベッドを順に見て回り、廊下側の患者の点滴を取り替え、部屋から出て行った。
「じゃあ、また明日来るね」
 玲奈が帰ろうとすると、紗江子が引き留める。
「バイト?」
「うん。午後から。午前だけ休み取ったの」
「それじゃあ、ちょっと話があるんだけど」
 玲奈はベッドの足元にあった丸椅子を引き寄せて座った。
 紗江子が首を振る。
「どこか違う場所で」
 声をひそめるようすがひどく深刻そうだった。人に聞かれたくない話らしい。談話室がこの階にあったが、病室からはかなりの距離がある。紗江子がそこまで歩いて行けるとは思えなかった。
「元気になったら聞くよ。今はゆっくり休んで」
 それもそうだと思ったようで、紗江子は落胆したように目をつぶった。
「昨日の夜、言おうとしたんだよ。だけど急にお腹が痛くなっちゃって。ずっと玲奈に言いたかったことが、やっと言えると思ったのに」
そんなふうに言われると、紗江子の言いたいことというのが気になってくる。あとあと、あれはなんだったのだろう、と思い返すのも気持ちが悪いだろう。
「廊下にベンチがあったけど、そこで話す?」
 紗江子がうなずくので、背中を押して起こしてやった。ベッドの横に今朝持ってきたスリッパを揃えて置いてやる。
 脇の下に手を入れて支え、廊下までほんの数メートルの距離を、点滴のポールを押しながらゆっくりと進んだ。
 ベンチに腰を下ろした時には、紗江子は肩で息をしていた。
「私に言いたかったことってなに?」
「昨日、新聞に出たの。約束の広告が」
 そういえば昨夜、紗江子は新聞を広げて玲奈にも見るように言っていた。
「なにそれ」
「一也からの合図なんだよ」
 紗江子の目が輝いている。
「え? どういうこと」
「今まで黙っててごめんね。これは一也と相談して決めたことなの」
 紗江子は息が苦しそうではあるが、明るい声で続けた。
「初めて一也を見た時に、ああ、この人は、って思ったの。それで話を聞いてみたらやっぱりそうだった」
 紗江子は職業柄、お金に困っている人は直感でわかるのだという。
 一也は派手な生活をするために、非人道的なアルバイトをしていた。それは、少女や自分に好意を寄せている女性を騙して海外の売春宿に売るという仕事だった。一也の派手な暮らしを支えるために、何人もの女性が犠牲になったのだ。
 紗江子は玲奈を守るために、一也を誘惑して注意を自分に向けさせた。結婚の話を言い出したのは紗江子だが、それほど一也に夢中だということを信じ込ませるためだった。そして時機を見て一也と別れる。それでうまくいくはずだった。
「でも、一也には借金があって、ブローカーから見張られていたの。私たちにつぎ込んだお金を回収するためにも、どうしても私か玲奈を売り飛ばさなきゃならなかった」
「それ、一也から聞き出したの?」
「うん。もちろん最初は否定してたけど、蛍のオーナーがいろいろ調べてくれたし、一也の部屋の盗聴器も見つけてくれたから」
「蛍のオーナーって、あのヤクザみたいな?」
「そう。あんたがうろうろするから困ってたよ。横田くんは前からあそこの担当だったんだけど、最近オーナーがかわってね、なぜかあの石堂さんに気に入られて、困ったことがあったら助けてやるよ、なんて言われてたらしいの」
「でもあの人、ヤクザなんでしょう?」
「暴力団の下請けみたいなことをやってるらしいよ。見た目は怖いけど、一也がかかわってるブローカーのほうが、もっと怖いの。一也がさっさと仕事をしないんで、ブローカーの男たちもじりじりしてきて、一也自身が身の危険を感じるようになったの。石堂さんが一也の借金の金額を聞いて、腎臓を売っただけじゃ足りないな、って」
 そこで一也を死んだことにしよう、ということになった。しばらく迷った一也だったが、危ない仕事に嫌気がさしていたこともあって同意したのだった。
「それじゃあ、あの電話は……」
「うん。盗聴している男たちに聞かせるために、お芝居したの。玲奈も聞いていたんでしょう? そして海浜公園に見に来たのよね。ブローカーの男たちも、どこかで見ていたはず」
 防波堤から一也を突き落としたが、下には波消しブロックがあった。そこに着地した一也に向かって、紗江子は大きな石を投げつけた。あたかも石に当たったように叫び声を上げ、一也は海に飛び込んだ。石堂が、裏のルートで出国する手はずを整えてくれていたので、その場所まで泳ぎ、そのまま舟でサハリンに向かい、ウラジオストク経由でマレーシアに密入国したという。
「一也はマレーシアにいるの?」
「向こうで別人になって働いているはず。予定通りうまくいったら、新聞に広告を出して教えてくれることになってたの」
「その広告が昨日の新聞に?」
 紗江子はにっこり笑ってうなずいた。
「お姉ちゃん」
 声がかすれる。膝の上に置いた手が震えるのを止めることができない。
「なんで言ってくれなかったの?」
「あんたは怖がりだから。それになんでも悪い方に考えて、事をややこしくしてしまうでしょう? だから知らない方がいいと思ったの」
 紗江子の点滴の落ちる音が、なぜか急に聞こえてきて頭の中でこだました。
「なによ。もっと感謝してくれるかと思った。お父さんもお母さんも死んじゃって。もう、私たち二人きりだもの。助け合って生きていこうね」
 紗江子が玲奈の手に手を重ねた。涙が止めどなく流れる。
「どうしたの。なんで泣いてるの?」
 その時、ナースセンターでコール音が鳴り響いた。ばたばたと看護師たちがなにごとか叫びながら飛び出してきた。紗江子と同室の患者の容態が急変したようだ。病室を覗くと、点滴を取り替えてもらっていた患者だった。
 玲奈は昨夜からの自分の行動を思い返した。
 紗江子が食べたカレーには、前に自分が作ったカレーを十分に腐らせたものを混ぜておいた。できるだけ病院に行く時間を遅らせ、入院しなければならないほどに重症化させるために、タクシーを呼ばず通りまで歩かせたのだ。
 救急外来の病院は大勢の患者でごった返していた。紗江子の処置が終わるまで、玲奈は自由に病院内を歩き回ることができた。
 ナースセンターから「資材庫」と書かれた鍵を持ち出し、トイレの横のSTAFF ONLYという扉を開けた。「オスバン」とラベルの付いたボトルと注射器をバッグに入れた。鍵も家まで持って帰った。
 家に帰ってから六本の注射にオスバンをたっぷりと入れた。
 家で紗江子が死ねば、自分が疑われることになる。病院で死んでも、紗江子一人だけならやはり玲奈が疑われる。
 306号室、全員の点滴に消毒液が入っていれば、無差別殺人ということになるだろう。
 ほかの患者には気の毒だが、紗江子と一緒に死んでもらうことにした。
 朝、病院に行き、看護師たちの引き継ぎの時間を狙って、昨夜のうちに確かめてあった点滴などを運ぶカートに近づいた。それはナースセンターの入り口近くにあり、カーテンで仕切られている。
 カートの上には、その階の患者の点滴が部屋ごとに並べて置かれていた。306号室の患者の点滴は六つあった。そのすべてに、点滴パックのゴムの口へ注射器を刺しオスバンを注入した。
 消毒液のボトルと注射器は、外側をきれいに拭いてトイレの個室に投げ捨てた。
 紗江子が胸を押さえ、突然苦しみだした。
「なんか、息が苦しい」
 306号室に医師が到着し、ものものしい機械が運び込まれる。
 廊下は騒然としていた。
 紗江子がベンチからずり落ち、苦悶の表情で玲奈を見上げた。
 白衣を着た看護師が、廊下に倒れ込んだ紗江子に気付いて駆け寄ってくる。
 点滴のパックからチューブがはずれ、透明な輸液が、明るい蛍光灯に照らされながら滴り落ちていた。まるで天気雨のように。



スペーサー

和久井清水(わくい・きよみ)
北海道生まれ。内田康夫の未完作品を書き継ぐ〈『孤道』完結プロジェクト〉にて最優秀賞を受賞、二〇一九年『孤道 完結編 金色の眠り』(講談社文庫)にてデビュー。近作に『水際のメメント きたまち建築事務所のリフォームカルテ』(講談社文庫)がある。

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