立原透耶『拡散希望』
1
マイがいなくなった。
ふわふわした茶色の揺れる柔らかな毛。長い睫毛。いつも一緒のベッドで眠った。甘えん坊で寂しがりやのマイ。あの子は誰でも簡単に信じるし、人なつっこいから、さらわれたのかもしれない。ぼんやりしているから道に迷ったのかもしれない。
わたしは心配で心配でないてばかりいたけれど、ママとパパはすぐに行動した。警察に連絡した。でも事件性がないって言われた。勝手に出て行ったのではないですか? このくらいの子ならよくあるんですよ。彼氏はいませんでしたか? なんてバカにしたように口元にニヤニヤした笑いを浮かべていた。許せない。
ママは友達に頼んでポスターを作ってあちこちに配りだした。パパはインターネットにマイの写真を載せて情報を求めた。家族みんな必死でマイを探した。マイは家出するような子じゃない。うちが大好きで家族が大好きだった。日曜の午後、いつもわたしとリビングでゴロゴロするのが習慣で、そこにパパとママも加わって、みんなでミルクを飲みながらのんびりおひるねした。
なのに、今はマイがいない。
ツイッターとかフェイスブックとかLINEとか、パパはできる限りの手段を使ってマイの写真と特徴を知らせた。もしかしたら道に迷って家に帰れないのかもしれない。それとも、すごく素直だったから、誰かに騙されて連れ去られてしまったのかもしれない。
すぐにメッセージとかメールとかたくさん届いた。
パパもママも最初は大喜びしたけれど、すぐにそれは絶望にかわっていった。どのメールもマイのことなんて知らなかった。誰もマイを見ていなかった。
良心的な内容だと「見つかるといいですね」「お祈りします」「気をつけて見てみます」といったもの。たちの悪いものだと「もう死んでるんじゃないですか」「事故にあって捨てられてるんじゃ」というものもあって、むしろそういう悪意に満ちた内容の方が多いぐらいだった。何よりパパとママをがっかりさせたのは、嘘の情報だった。「どこそこで見かけました」「よく似た子が車に乗せられるのをみました」とか、そういうやつ。てんでバラバラの地域で、時間帯もちぐはぐ。こんな偽情報はつきあわせると、矛盾がすぐにわかるのに、必死になっているパパとママにはそれがわからなかった。バカみたいに一つ一つ調べて、一つ一つに返事をして、全部をプリントアウトして警察に提出したりもした。
三日たっても一週間たってもマイは見つからない。
マイ、どこにいるの? お腹をすかせていない? 寒くない? 誰か優しい人があなたの面倒をみてくれていたらいいのだけれど。意地悪な人にいじめられていないだろうか。車にはねられて動けなくなっているかもしれない。道に迷ってどこかで震えて縮こまっているのかもしれない。
マイ。マイ。わたしはここよ。ここであなたの帰りを待っているのよ。
ママは病気になってしまった。心労が重なったのだ。ぼーっとしているかと思えば泣き出し、かと思えば「マイが呼んでいる」と叫んだりした。パパは心配してママを病院に連れていった。そして一人で帰ってきた。
「ママはしばらく入院することになったよ。パパと一緒にマイを探そう。パパはママのお世話もしなきゃならないから、お前も辛いだろうけれど、頑張っておくれ。必ずマイを見つけような。諦めるもんか。マイは大切な娘だ」
あたしは黙って頷いた。なんども、なんども。
マイのいない生活なんて考えられなかった。こうやってマイの帰りを待ち続けるだけだなんて耐えられない。ママの退院祝いにマイがお家で待っていたら、どれだけ素敵だろうか。きっとそうしてみせる。あたしがマイを探し出す。
パパが仕事や看病で家にいない時、あたしはパパのパソコンを立ち上げてこっそりのぞくことにした。相変わらず、マイの情報だとか、「拡散、見つかれ!」みたいな文字が飛び交っている。でも、マイにたどりつく情報は何もない。
ため息をつきながら、あたしは別の方法を考えてみた。
そうだ、パパの書き込みに対する反応ばかりを探すんじゃなくて。
ネット全体に検索をかけてみよう。マイの名前、年齢、容姿、特徴。一つ一つを根気よく組み合わせて、膨大な情報を精査していく。幸い、あたしは引きこもりで家から一歩も外に出ない。たまに病院にいく時だけ、パパとママ、マイが一緒についてきてくれるくらい。だから時間はたっぷりある。それにあたしは辛抱強い。マイのためならどんなことだって我慢できるし、どんなことだってやってみせる。
さらに五日が経過した。
パパは私立探偵という人を雇った。探すのが専門なんだそうだ。これまでの実績がすごいんだよ、ほとんど見つかっている、きっと大丈夫だ、とパパは自分に言い聞かせるかのように、あたしに教えてくれた。
パパ、でもその数字は本当なの? いわゆる自己申告ってやつで、客観的データじゃないよね? とは口に出さなかった。これ以上パパに辛い思いをさせたくない。ワラにもすがる思いでいるのは、あたしだって同じだ。
夢を見た。ふわふわした柔らかい毛があたしの頰をくすぐる。そっと撫でると、くすぐったいのか、嬉しそうにニコニコするマイがいた。ああ、マイ、帰ってきたのね、よかった! しがみつこうとして目が覚めた。あたしの目から涙が溢れていた。
マイ。マイ。あなたがいないとこんなにも寂しい。
あなたがいないと家族みんな、心が壊れてしまいそう。
どこにいるの。どうして帰ってこないの。
ネットでマイのことについて言及する人はほとんどいなくなった。誰も情報を拡散してくれないし、コメントもくれなくなった。世の中なんてこんなものなんだ。毎日のように新しい「探しています」にコメントがつく。運よく見つかれば「よかったね」という善意の返事がたくさん書き込まれ、いつまでたっても見つからなければ、あっという間に、みんな忘れてしまう。もちろん毎日のようにマイのことを「見つかりますように」と書いてくれる親切な人も少しはいる。でも、この人たちはどうして飽きることなく、マイのことを心配してくれるのだろう。
どうしてかしら。
もちろん、マイのことを気遣ってくれるのは嬉しいし、マイの写真を毎日タイムラインに載せてくれるのは嬉しい。だけど、なんだか気になる。
ママの入院は長引いている。
パパは疲れ切って、ここのところ毎晩お酒を飲んでいる。お酒を飲んでいるのに、フラフラしながら、マイの名前をつぶやいて外を歩き回るから、ほとんど眠れていない。このままではパパも病気になってしまう。なんとかしなくちゃ。
あたしはもう一度よく考えてみることにした。
こんなに日数が経っても、マイのことを気にしてくれている人たち。果たしてそれって本当にただの親切なの? 同情なの?
気になりだすと止まらない。
マイのことを今でも「見つかりますように」と毎日書いてくれる人たちを調べだした。
最初の人は動物病院の院長さんで、他の子たちについても同じように書いていた。うん、問題ない。
次の人は犬でも鳥でも関係なく、行方不明の子たちについて毎日書き込んでいた。そういうアカウントだ。
その次の人は学校教師。中学校の先生みたいだ。
それから、それから。
最後まで確認したけれど、これといって不審な人物はいなかった。
あたしはもう一度、全員を見直した。
中学校の先生という男の人(たぶん)。なんだろう、書き込みを丁寧に読み直してみた。どうも学校の先生じゃない感じがする。ネットの書き込みと日常との人格が違っていてもおかしくはない。おかしくはないのだけれど、やたらと「教師です」と強調しているのが却って気になる。
マイがいなくなった日の少し前まで遡ってみた。
ヨッピ:可愛い子を見つけた。無防備でいかん。あれは危険だ。
RT:犯罪はダメですよ、ヨッピさん
RT:いやいや、タクさんほどのワルじゃないから
RT:ヨッピさん、匿名掲示板で暴れてるの、知らないとでも思った?
RT:ここは鍵垢じゃないのでお応えできませんw
RT:スマソwww
別に気にするほどのものではないのかもしれない。でも、マイがいなくなった日から、ヨッピの書き込みはマイを探すパパの文章をリツイートするだけ。だから、あたしはこの人のハンドルネームでフェイスブックを探した。見つかったけれど、書き込みは公開されていなかった。あたしはパパのフェイスブックを確認した。たくさんの書き込みの中に、ヨッピがいた。それだけじゃない。ヨッピは毎日「見つかるとイイですね」と書き込んでいる。
ちょっとおかしい。こんなの、心配しているというよりも。
面白がっている。
あたしはゾッとした。
ヨッピのことをもっと調べよう、こいつがもし近くに住んでいるのだとしたら、マイを捕まえて隠しているかもしれない。
ツイッターにアップされている写真を一枚一枚、丁寧に見直した。目が痛くなったし、パパが帰ってきたら中断しなければならないしで、なかなか思うように進まない。
イライラするけれど、そこは我慢。
パパは自分のパソコンを他人に使われるのがとっても嫌いなのだ。だから内緒。
ママは機械なんて怖いと言って、パソコンには触ろうともしなかった。携帯だってスマホじゃない。お年寄り向けの簡単ガラケー。だからマイもあたしもパソコンには近づかなかった。これまでは。
だけどパパが使っているのを横目で見ていたから、あたしには簡単に使いこなすことができた。自分が使ったあと、その痕跡を消すことだってできる。
普段のパパならそれでも気がついたと思う。だけど、今は非常事態だ。それにパパは疲れ果てていて、もう平常の感覚なんて失っていた。ママの名前をつぶやき、マイの名前を繰り返し、片手に缶ビールを持って、ウロウロ歩くばかりだ。ちゃんとお仕事できているのかしら? とりあえず背広を着て、とりあえず行ってきます、と毎日家を出るけれど。パパのワイシャツはだれもアイロンをかけないからシワシワだ。家族みんなが揃っていた時は、いつもパリッとしていてアイロンもノリもきいていて、それはかっこよかったのに。
あたしが頑張るしかない。
ヨッピという謎の書き込み主は、驚くほど近くに住んでいるらしいことがわかった。ある写真の中に電柱が写っていて、そこに番地が書かれていたのだ。すごく小さな字だから普通ならみんな見逃すだろう。でもあたしは必死だった。拡大し、デジタル処理して文字をはっきりさせた。中学校の裏あたりだ。
ヨッピは本当に中学校の先生なのかもしれないし、単に近くに住んでいるからそんな風に嘘をついているのかもしれない。
同時にヨッピの書き込みから、彼が出没していると思われる匿名掲示板を突き止めた。
検索をかける。
マイの名前でそれらしいものはない。
検索をかける。
「可愛い子」
たくさんヒットした。気が遠くなりそうだったけれど、引きこもりのあたしにとって、時間は味方だ。パパも最近では夜中にしか帰ってこない。
可愛い子、確保。
突然、そんな書き込みが目に飛び込んできた。
あたしはどきり、とした。直感で、これがマイに関係するんじゃないかって思った。
急いでそのスレッドを遡る。
時々見かける、茶色いふわふわの毛の子。可愛いなあ。
話しかけてみた。あんがい、用心しないな。
けいかく実行。
可愛いよ。可愛い。
もう、家になんか返さない。オレのヨメ決定。
ふわふわしてる。やわらかい。気持ちいい。
ないてばかりなのでおこったらおとなしくなった。
やばい。実況ちゅうけいしようか?
おっぱい可愛い。
合間合間に多くの書き込みがあった。「犯罪じゃね」とか「家に返せよ」とか。でも、なんだかその場にいる人全員が面白がっているみたいだった。一人も心配している人なんていない。誰かが警察に連絡してくれたらよかったのに。誰も本気にはしていない。悪質な冗談だと思っているのだろうか。
もし、捕まえられたのがマイだったら。
どうしよう。
マイ。
狂ったようにあちこちを押していたら、突然、動画サイトに飛んだ。
「今からあ、この子猫ちゃんのお、おっぱいを公開しまあす」
「はーい、なかない。なくとお兄さん、怒っちゃうよおお」
「良い子のみんなあ、他人を簡単に信用してはいけませんよお」
ひゃっひゃっ、とかヒッヒッ、とか、喘ぐような、ひきつるような笑い声が耳障りだ。
男は首の下からしか映っていない。顔はわからない。
声もボイスチェンジャーか何かで変えていて、デジタルで不自然な音声になっている。
狭い風呂場。トイレとシャワーしかない。
我が家とは大違いだ。うちは大きな浴槽があって、マイとあたしはいつも一緒に肩まで浸かった。百まで数えるんだぞ、とパパが扉の前で言う。そんな長く浸かっていたら、気持ち悪くなっちゃうよ、とあたしとマイが文句を言う。ママが、冷たい麦茶を用意しておくわね、って笑う。
懐かしい。
ほんの少し前まではこんな光景が永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
それなのに、今はもう、何十年も昔みたいに思える。
マイ。マイ。あたしの大切な家族。妹みたいに思っていた。ううん、自分の命よりも大事。あなたに何かあったら。あたし、絶対にそいつを許さない。
ネットの中では動画が続いている。
男だけではなく、捕らえられている子の顔も映されていなかった。
首から下が剥き出しになり、カメラの前で震えている。
音声が流れる。
「触ってみまあす」
「つついてみまあす」
「では冷たい水をかけてみましょおお」
「45度のお湯はどうかな?」
「それでは50度は?」
「ああー、熱すぎたのかなあ? 怖かったのかなあ? お漏らししちゃったねえ」
「いけない子だねえ、お仕置きだ」
「お兄さんはこれから君にお仕置きをするよお。痛いかもしれないけれど、そのうち楽しくなるかもしれないねえ。ひゃっひゃっひゃっ」
見てられない。
ひどい。
吐き気がする。
顔が映っていなくても、あたしにはそれがマイだとすぐに分かった。
このヨッピという変態男は、人懐っこいマイを拉致して拷問した。間違いない。
あたしはマイを助ける。
そして、この変態男に復讐する。警察なんてあてにならない。ネットでこの画像をみて、警察に通報しなかったやつらも同罪だ。
許さない。
許さない。
マイ、待っていて。
2
四谷ユウジはたいそう気分が良かった。
彼は昔から小さな生き物が大好きだった。ふわふわして柔らかくて、何かあるとすぐにブルブル震えだすような、愛らしい目をした生き物。それを想像するだけで身内がぞくぞくして、何やら抑えがたい興奮を覚えた。
だが、実家は小さな食堂を営んでおり、生き物を飼うことは許されなかった。厳格な父、物静かな母、気難しい祖母のもと、四谷ユウジは成長した。父の口癖は「学問が必要だ。大学に入って偉くなれ。誰にもバカにされるな」だった。しかし父親がどれほどユウジを殴っても、母親が泣いて頼んでも、ユウジの成績は一向に上向かなかった。小学校の段階ですでにユウジは落ちこぼれの烙印を押され、中学校ではついに不登校になってしまった。
友達と呼べる相手がいれば、ユウジにとって世界はまた違うものになったのかもしれない。しかし、あいにく、世間は冷たかった。勉強もできない、掛け算もできない、漢字もまともに読めない、片付けもできなければ清潔にもできない、まともな受け答えも苦手で、下を向いてニヤニヤにしているだけの男の子に、友達なんてできるはずはなかった。
すぐに陰口が叩かれるようになった。陰口だけならまだ良かった。ユウジは他人の言葉を聞くつもりなどなかったし、実際に、他人の言うことがうまく理解できなかった。面と向かって悪口を言われるようになるのはすぐのことで、それがエスカレートするのも時間の問題だった。
集団に取り囲まれ、殴られたり蹴られたりした。プロレス技の練習台にされ、汚物に顔を押しつけられた。窓拭きをしろよと窓から突き落とされ、腕の骨を折ったこともあった。
それでも大きな騒ぎにならなかったのは、父親が飲酒の末にひき逃げを起こし、妊娠中の母親と背中に追われていた赤ん坊、三人を殺して裁判が行われていたからかもしれない。母親は夫に愛想をつかして、家を出てしまった。膝の悪い祖母だけでは食堂を続けることができず、一家は収入源を絶たれてしまった。その頃から祖母は言動がおかしくなって、現実のことがわからなくなり始めていた。
ユウジは一人だった。
誰も叱らない。誰も褒めない。誰も殴らない。誰も抱きしめない。
自由だ。
だから、学校に行くのは辞めた。
近くのネットカフェに入り浸るようになり、やがて中古のパソコンを万引きして実家に引きこもるようになった。
ネット回線は隣家の無線LANを不法にアクセスして使った。隣には老夫婦がいて、遠く離れた孫とやりとりするためだけに、業者に勧められて無線LANを引いていたのだ。よくわからなかったのか、パスワードが初期設定のまま変更されておらず、ユウジが試しに1234と打つと、すぐに接続が可能となった。
それからはずっとつなぎ放題だ。
漢字も単語も、ネットを出入りするうちに少しずつ覚えた。誤字をするとバカにされたが、誰かが「これが正しい漢字だ」「正しい使い方はこう」と教えてくれた。
ユウジにとってネットが全世界になった。
食べ物は隣の家の老夫婦からもらった。
父も母もおらず、ぼんやりした祖母との二人暮らしを哀れんでくれたのだろう。人のいい老夫婦は、毎日夜に一回、ユウジたちに握り飯と簡単なおかず、味噌汁を差し入れてくれた。
ネットを始めた当初、ユウジはアニメやゲームに夢中になった。生身の人間よりもずっと優しく、ずっと親切で、ユウジをいじめることもない。それどころか、ユウジのことを「好きよ」と言ってくれるキャラクターもいた。
数年間はそれで満足していた。
だが、やがてだんだん物足りなくなってきた。
家の前には中学校があった。こんなにも近くにあるのに、ユウジにとっては恐ろしいまでに遠い場所にあるように思える場所。
ユウジを拒絶しつづけるくせに、なぜかしら、なんとも形容しがたい気持ちにさせる不思議なところ。
ふわふわしたもの。柔らかいもの。可愛いもの。
いつからか、それがユウジの頭の中に蘇ってきた。
幼少期に欲しくてたまらなかったそれは、今やユウジの全てを支配していた。
あの可愛いものを手にしたい。あの可愛い子を自分のものにしたい。
殴ってばかりの父親はまだ帰ってこない。あいつがこの家に戻ってくるまでに、可愛いふわふわしたものを連れてこないと、二度と手にすることはできなくなってしまう。
今は誰も文句を言わない。
この家では、ユウジが一番なのだ。
オレが、いちばん、えらい。
そう自覚した途端、ユウジの中で力が沸き起こってきた。
そうだ、今ならできる。憧れて手に入れることのできなかった、ふわふわして柔らかくて愛らしいもの。それを自分のものにできるんだ。
まず、目立たないように毎日、夕方過ぎに外出することから始めた。
そうこうしているうちに、理想的な可愛いものが目にとまった。
ふわふわした茶色い毛、柔らかそうな手足。長いまつげ、よく動く瞳。
小さくて、ちょっと力を入れただけで折れそうな体。
あれだ。
あれが欲しい。
あれでないとダメだ。
あれしか欲しくない。
だからユウジとしては珍しいほどに頭を使った。
どうやったら、あの可愛いものをうちに連れてくることができるかを考えた。逃げられないようにするにはどうしたらいいか、そのまま育てるには何がいるのか。どうすればいいのか。
どんな些細なことでもネットに載っていた。載っていなくても、どこかで質問したら、誰かが懇切丁寧に説明してくれた。飼い方も学んだ。餌も準備した。トイレやご飯、いろんなしつけ方法も知った。脱走しない部屋づくりも完璧だ。
あとは捕まえるだけだった。
実際、捕まえるときが一番緊張したし、興奮した。優しい声音を使い、すごく親切な人の振りをした。ちょっと困った様子も演じてみせた。一世一代の大芝居だった。
これまでにも何度か接触していたからか、拍子抜けするほど簡単に確保できた。
おとなしい性格なのか呑気なのか、一軒家に閉じ込められてもしばらくは状況が理解できなかったようだ。首輪をつけられ、檻に入れられて、やっと深刻な事態に気がついたらしい。声を出したら電流の流れるしつけ用の首輪を買っておいて正解だった。しばらく諦めずに大声で泣き叫ぼうとしたようだったが、その都度、電撃ショックを受け、やがてやっと諦めたようだった。それでも家が恋しいのか、しばしば黙って涙を流していることはあったが、ユウジの溢れんばかりの愛情を受け、餌もトイレもきちんとできるようになった。
可愛いもの。
ふわふわした茶色の毛。柔らかい体。愛らしい瞳。
ユウジは夢中になった。
通販で可愛い服を買っては、着せて写真を撮った。自慢したかったが、元の飼い主が探しているのを知っていたので、その誘惑に耐え、一人で写真を眺めニヤニヤした。
茶色のふわふわした毛を撫ぜ、匂いをかぎ、自分の体をこすりつけた。
そのうち信じられないほどの興奮を覚えたので、そろそろ可愛いものをヨメにする頃合いだと悟った。ただ、やはり自分一人でその瞬間を楽しむのはもったいなかった。
色々考えているうちに、ネットである動画を見かけた。
人物も場所も一切秘密にして、可愛いものだけを写して楽しむ動画だ。
なるほど、これなら可能だ。自分にもできるし、他のユーザーにも楽しんでもらえる。祝福してもらえる。
慎重に、個人を特定できるものを排除したバスタブに、可愛いものを連れてきた。
顔が映らないように三脚を立て、カメラを設置する。動画モードにすると、ユウジは画面に向かって話し始めた。
こんなに雄弁だったのは生まれて初めてだ。
今こそ、自分が主役になったのだ。この世の中の中心だ。
可愛いもの、ふわふわして柔らかくて愛らしいもの。
絶対に手放さない。
オレのものだ。
3
居場所を突き止めた時、マイは動かなくなっていた。
冷たい肉体は息をしていない。もう二度と、優しい声であたしに呼びかけてくれない。
あたしとパパとママ、それにマイ。もう家族揃うことはないのだ。
マイはガリガリに痩せていた。キャットードが床に山積みになっていた。猫缶の中身が腐って悪臭を放っている。水入れもカラカラに干からびていた。
たぶんマイは絶望して、自分からご飯を食べなくなったのだろう、とあたしは思った。
涙が後から後からあふれてきて、息をするのも苦しい。
マイ。マイ。
ごめんね、辛かったね。
あたしは何度もマイの顔に、手に、お腹に、顔をこすりつけた。少しでもあたしの体温が、冷え切ったマイの肉体を温めるのではないかと思ったから。
でもマイは動かない。二度と笑うこともなくこともしない。
ふと、あたしはマイの首についているものに気がついた。
無駄吠え防止の首輪だ。
なんてことを! 怒りと悲しみがごちゃ混ぜになって、あたしの中で荒れ狂った。マイは助けて、も言えなかった。一言も、何も言えずに死んでいったのだ。パパ、ママ、さえ呟くことを許されなかった。
あたしは決意を固め、足音を忍ばせて階段を降りた。
一階では年老いた女が布団の中で丸くなって干からびていた。
死んでいる。
あたしが手を下すまでもなかった。だけどこの女からはマイの匂いはしない。この女は犯人じゃない。動画サイトに映っていたのは若い男だ。
どこにいる?
トイレの扉が不意に開いた。
あたしはびっくりして、老婆の死体といっしよに布団に潜り込んだ。
足音がする。
ブツブツ呟いている。
「可愛い可愛いマイちゃん、着せ替えしようね」
こいつだ。
あたしは後悔した。
怒りのあまり、瞬時にあいつを殺してしまったから。もっと苦しめればよかった。もっと怖がらせればよかった。マイの何倍も何十倍も辛い思いをさせるはずだったのに。
あたしの鋭い爪と牙は、あの男をズタズタに切り裂いた。
あたしの尻尾が揺れた。
喉を鳴らして、あたしは鏡に映る自分を見た。
ふわふわした茶色の柔らかい毛。金色の眼光。
パパとママが、雨の中、死にかけていたあたしを拾ってくれた。あたしは100年近く生きてきて、初めてこんなにも優しい人間がいるのだと知った。
ママが流産して泣いていたので、あたしは生まれる場所を探してウロウロしている小さな赤ちゃんの魂を呼んできた。そう、あの頃からマイはおっとりしていた。だから、こんな目にあってしまった。あたしがちゃんと守るつもりだったのに。
ママのお腹に入る前に、あたしは一つだけマイにお願いした。
あたしはずっと一人だった。家族がいなかった。
だから、一つでいい。一つだけでいいから、あたしに似たところを持って生まれてきて。
頷いたマイは、あたしそっくりの髪の毛を持って生まれてきた。ふわふわした茶色の可愛い毛。あたしにそっくり。
パパとママも、「まあ、姉妹ね、あなたたち、そっくりだわ」と喜んでくれた。
あの幸せな日々。
もう二度と戻ってこない。
マイの魂はどこにいったのかしら。
壊れてしまったパパとママをどうやってなぐさめたらいいのかしら。
でも、その前にすることはたくさんある。
あたしはマイの遺体をそのままにした。
まだ見つかってはダメよ、もう少し待ってて。お家に帰るのはあと少しだけまっていてね、マイ。
家に帰ると、あたしはパパのパソコンを立ち上げた。
迷わず、ネットに書き込む。
「拡散希望。いなくなりました、探しています」
ネットの動画を見ていたやつら。あたしが必ず探し出してやる。お前たちも犯人の仲間だ。犯罪に加担した。あたしから、パパとママから、マイを奪った。
マイを殺した。
一仕事を終えて帰ってきたあたしは今日も、ネットに書き込む。
「拡散希望」
立原透耶(たちはら・とうや)
一九九一 年『夢売りのたまご』で下期コバルト読者大賞受賞、翌年『シャドウ・サークル 後継者の鈴』で文庫デビュー。日本SF作家クラブ会員。SF、ファンタジー、ホラー、実話系怪談など、作品は多ジャンルにわたる。『立原透耶著作集』全5巻(彩流社)など、著書多数。華文SF紹介の仕事に、劉慈欣『三体』(早川書房)監修、『時のきざはし 現代中華SF傑作選』(新紀元社)など。