乾山の春野
石田 瑞穂
寒さの厳しかった冬もやっとおわり暖かくなりだす春宵は、心身もゆるゆるとほどけ、おおらかな雰囲気の器で呑みたくなる。そんな花月ともなると、時代箱からいそいそととりだす尾形乾山作の皿があるのだ。
色絵春野図角皿がそうで、ぼくがもっているのはその「壱」。もともとは五ないし十客一揃の向付であり、箱書きは一八代永楽善五郎。そのうち一客が流出し別葉したものとおもわれる。新型コロナ禍のため二年ぶりの開催となった東京美術倶楽部特別展に、金沢の店が出品したものを譲りうけた。
ほかに乾山作は、鳴瀧時代の鉄絵図角皿をもっているが、モノトーンの漢詩付草花図で気韻高く、ふだん使いには緊張する。母の茶事にだされることがおおい。だから、日々の酒肴を気兼ねなく盛ることのできる乾山の色絵皿を長年さがしていたのだった。
この色絵春野図角皿は、文字通り、早春の野に芽吹く草花をえがいもの。かなりデフォルメされた図案で、乾山焼のなかでも頓にユーモラスかつかわいらしい小品ではなかろうか。
ぼくの「壱」の皿には右から、ぜんまい、仏の座、すぎな(土筆)、そして草蘇鉄がえがかれている。一息で大胆にえがかれたぜんまいや蘇鉄と、小筆の命毛だけで繊細にえがかれる仏の座と土筆の対比。禅味と琳派の洗練が一如となり、幽玄な風情を醸しだしている。
一見、樹幹と枝葉と映る、図面の左角へしなるように曲がった蘇鉄のうしろに、太めにえがかれたぜんまいの茎がのび、縁高の内角へとかかり、そこから天へ勢いよくつきぬけ昇る画策も、絵付師の綺想にもみえるが、日毎すくすく伸盛る春草の写実である。そういった実験性も、陶工の自在な遊び心と映り好もしい。
また乾山の絵皿の魅力は間の美学でもある。殊にこの絵皿の図案は余白がたっぷりとしてい、さっと掃かれた緑釉の草野が春霞のようで、間を活々としたものにしている。その余白に、こんどは実際にこごみのおひたしやのびるの酢味噌和えをおいてみると、夢と現が混ざりあうようで、眼にも愉しい晩酌となる。
ぼくはこの向付に、同郷の作家澁澤龍彦氏が好んだと聴く土筆の天ぷらや、近くの竹藪でとれた筍をおいて呑むのを春の無上の愉しみとしている。鯛の昆布〆やホタルイカの造里を盛るのもいい。くだんの鉄絵図角皿と異なり、この色絵春野図角皿なら気分も春の陽気のようにほぐれ、肩肘はらずに酒を旨く呑めるのであった。今宵、とりあわせてみたのは、小山冨士夫の徳利と古唐津山瀬盃である。
仁清に範をえた乾山は、若かりしころ、宮廷趣味を脱することができなかった。脂ののった鳴瀧時代もそうで、代表作と謳われる作品はそのころのものがおおい。
ぼくのふだん使いの乾山は、ちょっととぼけていても懐深く、老いの枯淡に人生の春をかんじさせる勢いと瑞々しさがある。
〈CROSSING LINES連載エッセイ 「眼のとまり木」 第5回〉
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