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痛みと歓喜

−ぱくきょんみ(詩)野原かおり(画)『あの夏の砂つぶが』(sibira 02)に寄せて

石田 瑞穂

書いてなんかない。もう一つ何か書いてなんかいやしない。

 これは、ぱくきょんみさんが翻訳した、アメリカの女性詩人ガートルード・スタインの詩集『地理と戯曲』の一行。スタインの英語原文は文法的にいつもどこかちぐはぐで、それを正確に訳そうとすればするほど、ちぐはぐな日本語になってゆくおもしろさがある。

 ぱくさんの詩も、そんな翻訳にちかい。ぱくさんの言葉は韓国と日本、自己と他者、ジェンダー、現実と夢のはざまをゆれうごき往来している。しかし、そのどちらかに漂着することはない。両岸のはざまをたゆたい流れ中間に浮遊する翻訳的存在なのだ。

夏の砂浜を
裸足のまんまで
どれほど歩いただろう
足の裏から
砂つぶが 
離れていかなくなり 痛い
それはまだ心地よいものだけれど   

  (ぱくきょんみ「あの夏の砂つぶが」より)

 翻訳という言語行為において、原文と訳文のどちらがリアルなのか。訳文にとって完璧な原文は夢であり、その逆もしかり。ぱくさんの詩に登場する介護者は「わたし」か「母」か。よく読むとそれは「母」たちの物語を「わたし」が書きなおす詩的な翻訳でもある。

病室はふたり部屋だ。曇り空の日は、みょうに明るくなるところ。窓からは眠ったようなビルの群れしか見えないけれど、ガラスはなにもかも露わにさせる。わたしと母を見ているひとがいるような気がする。母は、喉元に装着された器具に抗っている           

  (ぱくきょんみ「あの夏の砂つぶが」より)

 思い出のなかの「海」はきっと済州島と東京の複数の「砂浜」をもつだろう。母国やアイデンティティにプライドをもちすぎる人々は日本の海、韓国の海、女の海、男の海、などと幻想する。でも、現実には、世界に海はただひとつ。数多の海岸線があるだけだ。つまりは世界中の砂浜の数だけ、現実はあるのだから。

 秀でた詩人はすぐれた翻訳者でもあろう。ぱくさんの詩が世界と現実を翻訳のポエジーとしてやわらかく繙くとき。「痛み」にも無数のやわらかさ、翻訳のニュアンスが生まれる。「痛みが心地よさとして覚えられた時間」が到来し、「わたし」も「母」も無意識の足裏にはりついたまま忘れられた「砂」へと変容して。

 詩人は、野原かおりさんのドローイングを星灯に、言葉を紡いだ。ぱくさんは原文、つまりオリジナルの詩を「書いてなんかない」。詩人をとりまく現実をひき摺りながらも、絵の翻訳としての詩をうたうのだ。そこには、野原さんのドローイングがデザインと絵画の、個人と家族の、懊悩と希望のあいだを縫うように描かれた作品であることと深くかかわっている。

 そして重要なのは、ぱくさんの詩を原文に、野原作品という翻訳も、観る方の数だけ生まれ訳されつづけること。詩の新たな「子」もしくは「母」として?

 中世の神学者にしてスコラ学者ヨハネス・ドゥンス・スコトゥスはこのことをシンプルに、出来事、とよんだ。理由も原因もなく、途方もない外界から、いつのまにかここにやってきているなにか。遊牧民や流木、星の光や一片の詩画のように。いままで耐えることのできなかった痛みが、つぎの瞬間、歓喜となるように。

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