séi - watcher 034 turn ターン
turn ターン
お腹が空いて目が覚めた。外はまだ明るい。私はどのくらい眠ってしまったのだろう。
寝転がったまま視線を巡らすと、壁掛時計が十七時を指していた。日付が変わるほど寝ていなくて安心したけれど、目が霞んでいるし、まだ疲れが抜けていないのだろうか。少し体がだるくて伸びをした。
――あれ、腕が真っ黒…壊死ではなさそう、感覚はある。
寝呆け眼をよく開いて見てみると、黒く見えたのは毛だった。
起きたと思ったけどまだ夢の中なのだろうか。
いや、あの昏いところより現実感がある。
鏡を見てみようと思って立ち上がろうとしたけれど、フラフラする。
下手に立っても倒れて頭を打ちかねないので、四つん這いで洗面所へ向かう事にした。
洗面所の鏡の位置は高くてよく見えなかった。
いくら四つん這いだとしても高過ぎないか?そもそも部屋はこんなに大きかっただろうか。やっぱり夢?
疑問符が沢山浮かぶ中、風呂場の扉が開いているのに気付く。ここなら…。
果たして、鏡に映っているのは黒猫だった。
あの時の猫にとてもそっくりな、小さな黒猫。
違和感はある。でもしっくりくる感じもする。
猫になってしまったのか、私は。
人間に戻れるのだろうか。
わからない。
お腹が空いて、考えるのも億劫《おっくう》だ。
部屋に戻って探せるだけ探してみたけれど、めぼしいものは見付けられなかった。
無駄に体力を使ってしまって途方に暮れていると、背後から影が差した。
「おやぁ?こないだの子猫ちゃんじゃないか」
振り返ると、影が立っていた。
…否、正確には細身で大柄の男。少しクセのある髪を、緩く纏めて然みたいに肩に垂らしていて、その髪も服も黒い。薄く色付いたサングラスを掛けているその奥に、底光りするような瞳だけが、唯一の彩りだった。
少し怖いけれど、背に腹は代えられない。物欲しそうに鳴いて寄ってみる事にした。
「今日は逃げないんだね、どうしたんだい?」
『何か食べ物をください』と言ったつもりだけれど、ニャアと鳴く事しか出来なかった。
影は持っていたファイルを小脇に、片腕で私を抱き上げた。
影の顔がデレデレで怖い…。
「もう夕方だし、お腹空いてるのかな?」
肯定するように鳴く。
と、そこに然が現れた。
「周、お前また猫と遊んでたのか?」
然なら気付いてくれるはず…!ジタバタするも抱き抱えられて上手く動けない。
「いえ、出来上がった書類を持って行こうと思ったら寄ってきたんで、ご飯でもあげようかなーと…」
然は私と影を眼だけ動かして交互に見る。
「…猫相手に変な真似するんじゃないぞ。これから来客があるから、下かアパートに居てくれ。」
「了解です」
然は行ってしまった。気付いてもらえなかったのが少しショックだ。
「さーて、帰るとしよう。猫缶ストックまだあった筈だし。」
シュウ、と呼ばれたこの影は猫好きなのだろうか。
片腕に抱かれたまま、彼が住まうアパートに辿り着いた。
ドアが開くと、珈琲と金属とオイル、血のにおいが少しずつ混ざったような、異質さを感じた。
段ボール箱が少し積まれているものの、部屋は片付いていて、シンクにあるティーポットと二つのカップから漂白剤のにおいがする以外は、整然とした空間だった。
シュウは戸棚から猫缶を取って一旦シンクの作業台に置き、冷蔵庫を開けた。中はハムやレタスなど生ものがあったが、強烈に目を引くのはズラリと並んだプリンだ。シュウはそのうちの二つを手に取った。
私だってプリンは嫌いじゃないけれど、こんなに並んでるのは初めて見た。
シュウはローテーブルにプリンを置くと、壁際のソファにそっと私を下ろし、ちょっと待っててね、と撫でてキッチンに向かった。
缶を開けた瞬間、美味しそうな匂いが広がる。猫缶なんて食べた事無いけれど、今私は猫なのだし、大丈夫だろう。
シュウは器二つとスプーンを器用に持ってきた。器はローテーブルの足元近くに置き、様子をじっと見ていた私を抱き上げてその前に座らせた。本当に良いのかな、と私は少し不安になってシュウを見上げる。
「どうぞ。食べていいんだよ。」
優しい笑みと、私を撫でるその手からは慈しみを感じた。
さっきは怖かったけれど、この人は多分、大丈夫。
少し水を飲んでから、そろりとウェットフードを舐めてみて、少しだけ食べる。…美味しいかも。
ペリペリとプリンの蓋を開ける音がする。
なんだか、誰かと一緒に食べるのが随分久しぶりな気がする。
懐かしいような、寂しいような…何か思い出せそうだけれど、何も浮かんでこなかった。
「お、早いね。やっぱりお腹空いてたんだね」
よかった、とシュウは二つ目のプリンの最後の一匙を口に運んだ。
がっついたつもりは無かった。でもペコペコだったのだ、仕方無い。
しかしプリンを一度に二個も食べるのはどうかと思う。
シュウは器を一旦下げると、お水を入れ直してくれた。
ありがとうございます、と言ったつもりが『ナァ~ン』だった。
世の喋る猫達はどう鳴いて、いや喋って…。あぁもうわからない。
「好きに寛いでていいよ~」
シュウはポンポンと私を撫でると、台所で洗い物を始めた。
台所の窓から見える御空色《みそらいろ》は、型硝子に斜陽の黄金色がキラキラと乱反射し始めている。シュウはなんだか『お母さん』みたいだ。
――『お母さん』。
何か…ひっかかる。
私に母は居て、生きている。それは確かだ。けれど…何だろう、それだけじゃない何かがある。
思い出せない。モヤモヤする…。
無理に思い出さないように言われたし、今はただ寛ぐとしよう。
部屋をぐるりと見回してみる。少し広めの1 D K、八畳ぐらいはあるだろうか?まだ猫の感覚に慣れていないからわからない。
床はフローリングで、陽が射していた所はまだ暖かい。
ソファから少し離れた所にベッドがある。きれいにベッドメイクされていて、布団からは御日様のにおいがする。私の好きなにおいのひとつ。知らず、ベッドに跳び乗ってから、怒られるだろうかとシュウの方を見た。けれど彼は、洗い終わったカップを拭きながら幸せそうに私を見ている。
ほっとしたのと、お腹が満たされたのと、ふかふかでおひさまのにおいがする布団の温かさに、私の瞼が重くなる。
まだ眠りから醒めてそんなに経っていないのに、余程私は疲れているのだろうか。欠伸して、まだ少し西陽が射しているベランダに背を向けて丸くなる。とても幸せな午睡。
このまま猫として生きるのも悪くないかも…と思いながら、微睡みに身を任せた。
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