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séi - watcher 040 気遣い

   気遣い

 食後、洗い物を母さんに任せて、俺達は俺の部屋で試験対策を始めた。小一時間、直哉と二人して胡坐をかいてテーブルにテキストを広げ、額を突き合わせて進めていた。
「あ――もう一時間経ったのか。ちょっと休憩しようぜー。」
「もうちょっと頑張ったら終わりにするか…ん?直哉、光ってるぞ。杉沢じゃないか?」
 直哉の鞄の上に置かれた携帯端末が明滅している。
「…あ、芽瑠だ!ちょっと外してくる!」
 いそいそと立ち上がる直哉を制止する。
「ここで話してなよ、俺、珈琲淹れてくるからさ。」
 もう通話を始めたのか、直哉は指でO Kサインを出して応えた。
「ごゆっくりー。」

 階下へ向かうと、母さんは何事か考え事をしているようで、ニュースを見るともなく見たまま、茫としている。疲れてるのかな…。
 深煎りの豆をミルで挽きながら、様子を窺う。
 …泣いてはいない、けれど、悲しそうというか、どこか苦しそう…切ないというのが合っているだろうか。父さんの話、しない方が良かったんだろうか。最近は平気そうに見えたけれど…。
 でも、俺にはまだ解らないが、最愛の人を亡くすというのは辛いものだと認識はしている。
 母さんが座っている所に母さんのカップがあったので、取りに行く。
「…珈琲淹れるよ。飲む?」
「…うん、頂こうかな。お願いね」
 母さんからカップを受け取る。何か出来る事が無いか訊いても、きっと試験に集中しなさいとか言われてしまうのだろう。
 ならばせめて、少しでも美味しい珈琲を淹れよう。
 小さいドリッパーしかないので、母さんの分を先に淹れる事にした。

「――お待たせしました」
 悠の声で、私は茫としていた事に気付いた。

 コトリ、と珈琲が淹れられたカップを悠が私の目の前に置く。
「いい香り…」
 カップの傍に、蜂蜜のボトルとミルクが入ったおちょこが置かれた。
「あら。お店みたいね。」
 口元が綻んだのを感じて、自分が笑っていなかった――暗い顔をしていた事に気付かされる。

 トレーを片手に持ったまま膝を抱えた息子と目が合う。
 何か言いたいけれど言えない、もどかしさが目元に表れている。
 心配させてしまった。ダメな母親ね…私ったら。
 悠に向き直って頭を撫でる。
「私は大丈夫よ。ありがとね…」
「うん…」
 膝を抱えて目元しか見えなかった悠の顔が、俯いて見えなくなる。
 私より大きくなったのに、こうしているとまるで子犬のようだ。
 否、大分大人になってきたけれど、まだ子どもなのだ。身近な家族は私だけだから、もっとしっかりしなければ…。

 一頻《ひとしき》り撫でていると、悠が徐《おもむろ》に「冷めちゃう」と顔を上げた。
 一瞬、私の顔色を窺う視線を向けてきた息子は、すっと立ち上がってキッチンへ行き、お湯を沸かし始めた。悠と直哉君の分を淹れるのだろう。

 テーブルの方に向き直ってカップを手に取る。とろりと黒い珈琲が、湯気と芳香を纏って揺れる。
 含む様に口にすると、初めに苦味が、次いで深みのあるコクを追いかけるように甘味を感じて、すっと過ぎ去った。
 ふと、然さんの言葉を思い出す。気に病まないで元気でいる事が私のする事。改めて、その言葉が、そして息子の気遣いが身に染みた。
 思いを噛み締めるように珈琲を飲む。

「ごめん、スプーン忘れてた。」
 はい、と渡されたスプーンを受け取る。
「ありがと。凄く美味しいよ、今までで一番かも。」
 上手く笑えてるかな。…あ、悠がちょっとだけ笑ってる。

 二人分の珈琲を淹れ終えた悠に声をかける。
「夜更かしし過ぎないようにね。」
「うん。…頑張る。」
 悠は二階へ上がって行った。

 半分ぐらい飲んだ珈琲に、蜂蜜とミルクを足して混ぜる。
 ブラックのままでとても美味しいから、ちょっともったいないけれど…。
 これを飲んだら、いつもの私。

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