séi - watcher 052 消えない違和感と甘夏のレアチーズタルト
消えない違和感と甘夏のレアチーズタルト
「あ!こっちこっちー!」
喫茶店のドアを開けるなり気の抜けた周の声が届いた。
ここの店主も俺達の事を知るや知らずや、何処吹く風だ。
刹もこちらを見ているし、他に客は居ないので、ごまかしようがない。
グラスに水を注ぐ店主に「アッサムをミルクティーで。」と告げ、仕方無く周と刹が座っている奥のボックス席へ向かう。
向かい合うように座っている二人の間には、既に空になったプリンパフェの器があった。周はホットコーヒーを、刹はブラッドオレンジジュースを飲んでいるようだ。
どちらに座るか一瞬迷って、刹の隣に座りジャケットのボタンを外した。
「もーっ、そんな目で見ないでよぉ~っ」
どこかそわそわしている刹が気になって、周を無視して、何かされなかったか訊く。
「いえっ、大丈夫です。また色々と教わってました。」
ちら、と刹は俺より奥に視線を向けた。水の入ったグラスが差し出される。
店主が空の器を下げると、「試作なんですが、甘夏を使ったレアチーズタルトが出来ましたので、良かったら召し上がりませんか?」と提案してきた。
「美味しそう!」と周は身を乗り出す。
刹は目を輝かせている。…甘夏や柑橘類が好きなんだろう。
「一緒に食べようよ~、いいでしょ?」
刹も食べたそうにしているし断りづらい。でもさっき食事したばかりだし…。
「…食べたばかりなんで、俺は少なめで。」
「ヌワラエリヤとウバも用意して御座いますが、アッサムでよろしいですか?」
店主は楽しそうに眦《まなじり》を少し下げて訊いてきた。
う…どうしよう。
「ウバはこれからがクオリティシーズンですよね。それに合わせたタルトを作ってみた…そんなところですか?」思わぬ周の横槍が入った。
「その通りです。よく御存知で。」
「色々勉強してるからね」
何で知ってんだ、周のくせに。
刹が頭の上に疑問符を沢山浮かべているようなので、紅茶の種類と時期によって味が違う事を伝えた。
*
「…ヌワラエリヤをストレートで。」
「かしこまりました。」
シエンの注文を聞くと、店主は踵を返した。
「ミルクティーじゃなくて良かったの?飲みたいの飲めばいいのに。」
「何を飲もうが俺の勝手だろ。」
何か、いつもより刺々《とげとげ》しい言い方だなぁ…。睨まれるのも慣れた。でも、やっぱり応える。
「シエン、何かあったの?」
何も無い、と言いかけたシエンは口籠ると、いや…と言い直した。
「…今日起きてからずっと違和感が消えないんだ、いつも通りなのに、何か落ち着かなくて…」
シエンは気持ち悪そうに顔を少し伏せ、腕を抱く。
「虫の知らせ、ですかね…」
刹っちゃんがシエンの様子を見て、不安そうに呟く。
普段、不安や恐怖を噯気《おくび》にも出さないシエンが、刹っちゃんと同じ仕草をしているなんて余っ程だ。俺と同じような事を思っているのか、刹っちゃんが目で訴えかけてきている。
「今日は見回り他の班員に代わってもらおうか?無理はしなくていいんだよ?」
「無理はしてない、何ともないし…今から代わってもらうなんて…。」
「それならせめて、コースを変えようか。神社からスタートして、裏から出て森林公園からぐるっと回るなら拠点は近いし、いきなり駅の近くに行くよりは余所者さんとも出遭いにくいと思うよ。どうかな?」
難色を示したシエンに一案呈するも、浮かない顔のままだ。
「…それで構わない。刹は何か異常を感じたり、接触したら真っ直ぐ然の下へ向かう事。刹が記憶を取り戻して動けなくなる事もあるかもしれない…その時は周が刹を連れて離脱してくれ。」
「そんなの、嫌だよ。」
「血を流すのは俺だけでいい。お前の血は誰にも渡す訳にはいかない、そうだろ?」
「そう…だけど…。そんな言い方狡いよ、最悪の場合でしょ。絶対、そうはさせないんだから。」
「ああ。頼んだぜ、相棒《バディ》。」
浮かない顔のまま口の端を少しだけ上げてシエンは応えた。
そんな…儚い表情しないでよ。シエンが居なくなったら…俺はただのモルモットになり果ててしまう。口に出しそうになるのを、ぐっと呑み込む。
*
「お待たせいたしました。」
睨み合うように見詰め合っている二人の視線を割るように、甘夏のレアチーズタルトが並べられていく。
周さんの気持ちを知ってしまっているだけに、シエンさんとのやり取りを見てはらはらして、口を挿むのも憚《はばか》られた。
甘夏のにおいと、注がれる紅茶の香りで、雰囲気がスッと緩む。
「ブレンドのお替りは如何ですか?」周さんのコーヒーカップは空になっていた。
「うーん、どうしようかな…アッサムのミルクティーにしようかな。」
シエンさんの目が細められた。周さんはまた困った笑顔を浮かべている。
どうしよう。私に何か出来る事は…?
グラスの四分の一ぐらい残っているブラッドオレンジジュースを一気に飲んだ。
じゅごご、と音を立ててしまって恥ずかしい。
「わっ、私も紅茶飲みますっ…!えぇと、ウバ、でしたっけ…?」
「アッサムとウバですね、かしこまりました。ミルクは別添えですので、量はお好みで楽しめますよ。」
微笑みながら喫茶店のマスターはコーヒーカップとグラスを下げた。踵を返そうとして、そうそう、と思い出したように口を開く。
「試作なのでタルトのお代は頂きませんが、その代わりに味の感想を頂けたら幸いです。」
では、と喫茶店のマスターはたおやかに礼をして踵を返した。
*
「嫌がらせか?」つい睨みながら周に言ってしまう。
「何でそうなるのさ?シエンが素直に飲みたいの飲もうとしないからでしょ。」
「周さんは、心配してるだけなのに…シエンさん冷た過ぎます…」
刹が口を挿んでくるとは思わなかった。悲しそうに肩を落としている刹を見て、二の句が継げないでいると、刹は口元だけ笑みを浮かべて、「折角ですし、紅茶の飲み比べしませんか?」と言った。
「その…紅茶にそんなに種類があるなんて知らなかったので…私がやってみたいだけなんですけど…」
刹は少し唇を尖らせて、照れくさそうにしている。
「…悪かった。どうかしてるな俺…。」
刹を前にすると、変に張り詰めている自分が解《ほぐ》れるのがわかる。
『虫の知らせ、ですかね…』
先程の刹の言葉を思い起こす。
多分、その通りなのだ。
言えない。
ザワザワとした焦燥にも似たこの違和感が…親父や祖父が言うところの【嫌な予感】だとしたら…、誰かが、倒れる。
それを認めてしまったら、言ってしまったら…俺は多分、死ぬんじゃないか…?
確信めいた予感はもう、凝《こご》った澱《おり》がドロドロと絡み付くように俺から離れる様子が無い。
『人事を尽くして天命を待て』
いつだったか、然に預けられた後に然に言われた言葉だ。
日本人じゃないのに、然は時々含蓄のある言葉を使う。
今ここでそれを想起するなんて、抗いきれない天命が目前に迫っているというのか。
でも。ここに来るまで死は身近だったんだ、あの頃を思い出せばいい。
刹と周の為に俺の今までがあったのなら…まぁ、悪くはないか。
腹を据えるまでもない。
「シエンさん。」
刹の声で考えに耽《ふけ》っていた事に気付いて、刹の方を向く。
「はいっ、あ――ん」
そう言いながら口を開けた刹につられて開けてしまった口に、タルトを押し込まれた。口の中でチーズと甘夏の酸味が広がる。
フォークを引いた刹は、にまにまと誰かに似たような顔をして、美味しいですか、と訊いてきた。
「…美味し…」答えながらはっとする。
「刹っちゃんずるーい、僕がやりたかったのにーっ」
顔に血が昇ったのを自覚できるぐらい、顔が熱い。
「刹まで俺をからかうのか…っ」
恥ずかしくて、俯いて片手で顔を蓋う。やっぱり熱い。
「そういう訳じゃないです。シエンさん、何か思い詰めてるみたいでしたし。私が紅茶が入るまで待てなかったのもありますし。紅茶、冷めちゃいますよ?…あ」
「え?」刹の最後の声が気になって顔を蓋った手を下ろそうとした時に何かが唇を拭うように触れた。
目で追うと、周の親指だった。
周はこれ見よがしに煽情的にその指を舐る…俺を、じっと見ながら。
「はわゎ…」刹は見てはいけないものでも見てしまったかのように、頬に両手を当てている。
「っ…!」周の視線の呪縛から解かれて怒りが込み上げる。
懐に手を伸ばそうとして、はたと気付いた。外した筈のジャケットのボタンが留まっている。
「すぐ手が出るのは良くない癖だよ。」
珍しく…低い声音で周は目を細めた。怒って…る…?知らず、たじろぐ。
「…食べたいの我慢し過ぎてすぐイライラしちゃうんじゃない?折角美味しいもの食べられるんだからさ、有り難く戴こうよ。シエンが頑張り屋さんなのも知ってるし、もっとご褒美を自分にあげても良いと思うなぁ。」
かと思うと、周はいつものふわふわしている声音に戻った。
「弦《つる》を張り詰めるのは矢を射る時だけでいいんだよ。そのままじゃ壊れちゃいそうで…僕、見てられないよ…」
そう言う周の声こそ張り詰めた弦みたいに震えているように聞こえた。
周の表情を窺おうとしたが、薄く色付いたサングラスのブリッジを押し上げていて良く見えない。周がこんな事で泣くとは…思えないが…。
「………」
どう返したら…何を言ったら良いのかわからなくて、俺は口を開いたが奥歯を噛み締めた。
「周さん、周さん」刹が潜《ひそ》めた声で周を呼んだ。
「…ふぁっ!?」表情がわからなかった周は、間抜けな顔と声で驚いている。
「駄目だよ刹っちゃん!ひっこめて!来てるから!」小声かつ早口で周は刹に注意した。
「はう、すみませんっ」
刹を見ると、猫耳がぴこぴこと動いていた。
「えっ…。生えてる…」
確かめるように撫でると、刹はくすぐったそうに肩を竦《すく》めた。
「えへへ…成功です」刹が猫耳を被うように手で隠す。
そこへ、お待たせいたしました、と店主が紅茶を持ってきた。
「こちらがアッサム、こちらがウバです。」
店主はミルクポットやハニーディスペンサー等を並べ終えると、ごゆっくりどうぞと踵を返していった。
「もうっ、刹っちゃんたら…。ここに僕達以外は居ないけど、窓の外から誰か見てるかも知れないでしょ。」
刹が手を放すと、もうそこに猫耳は無かった。
「サーチはもちろんしましたよ。でも喫茶店のマスターの気配は気付けなかったです…、只者ではないのかもしれません。」
「それなら良いけど…。人目につきやすい所で半端に変化するのはナシだよ?刹っちゃんが思ってる以上に可愛くて破壊力あるんだから、本当に変なのが寄ってきちゃうよ?刹っちゃんは凄い子だけど、未熟者である自覚を持ちなさい。」
「はい…。…あの、周さんとシエンさんの前でだけだったら良いですか?」
「う…、あんまり良くないけど…それなら良いよ。ここではもう駄目だからね。」
「はぁい。」
「もう…。僕叱るの得意じゃないんだよ、疲れちゃう~。紅茶も揃ったし、タルト食べよっ!刹っちゃん、ミルク入れる前にアッサムどうぞ。」
「ありがとうございます~」
さっきのは、怒られて…いたのか。周と刹のやり取りを見るともなく見ながら、思考に埋没してしまう。そんなに我慢しているのか…俺は。
周の所為で…周が俺をからかうから苛つくのに。俺が思い詰めているから、周もからかうような事をしてくるって事?…わからない。そもそも周が怒る必要があるのか?
…心配されるほど、俺は弱々しく見えるというのか?そんな素振りを見せたつもりは無いのに。わからない。周は何を考えている?やっぱり周は苦手だ。
「シエン?また考え事してたでしょ?」
周の声で、目の焦点が目の前に突き出されたフォークに載ったタルトに合う。
「お仕置きだよ。ほら、口開けて。」
「こんなに美味しいお仕置きなんてないですね。」
刹が少し楽しそうに言う。周だけでも苦手なのに、二人合わさると抵抗しづらくなってしまう。
むっとして少し周を睨みながらも、観念して少し口を開く。
「もっと大きくしないと入らないよ?早くぅ、紅茶冷めちゃうよ。」
恥辱で顔が熱くなっている。周の言い回しがどこか卑猥で、余計に。
忍耐と、神経を研ぎ澄ませて生きてきた俺が、二人を前に骨抜きにされてしまう。タルトが美味しくて、悔しさが増す。
「穏やかじゃないなぁ、もっと美味しそうに食べてよ、シエンの笑顔が見たいんだけどなぁ。」
温くなったヌワラエリヤを飲んで少し気持ちを落ち着かせてから言い返す。
「お前のそういう遣り口で笑えるかよ…」
「むーっ、業突く張りっ。じゃあミルクティーどう飲んでるのか教えてよっ。」
「えぇっ…教える程のものでもないだろ…」
「その棒みたいなのって何ですか?」
「これはシナモンスティックで…」
結局、刹に教える形で教えてしまった。
*
シエンは気付いていない。
俺を殆ど無視しているのはもう仕方無いとして…、シエンから教わって嬉しそうにしている刹っちゃんに釣られて笑みを浮かべている事に。
でもその笑みは、笑っているというより寂しそうで、儚くて。
どうしたら…心から笑ってくれるんだろう。
俺はシエンを笑わせるのが下手だ。何をしても逆撫で、逆鱗に触れてしまう。
思い返してみても…口の端を少し上げるだけで、シエンが破顔一笑しているところを見た事が、無い。
恥ずかしそうに、悔しそうに、渋々タルトを食べるシエンは可愛かったけれど…笑顔ではないんだよなぁ。
絶対に頑として口を開こうとはしないだろうと思っていたのに、口を開いたのは意外だった。多分、刹っちゃんのお蔭なんだろう。
レアチーズは舌触りが滑らかで、その上の甘夏がグラサージュされミントの葉を戴いていて、見た目にも涼やかだ。試作にしては上出来だと思う。
でも俺にとってこの甘夏のレアチーズタルトは、シエンを笑顔に出来ない俺のちょっとした辛酸の権化だった。
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