「鏡像崇拝」考察記事

※こちらは「鏡像崇拝」のバッドエンドについて、考察……もといただただ著者がやられてしまったクソデカ感情を垂れ流すだけの記事です。

※解釈違い、怪文書、矛盾点があるかと思われますが、読むかどうかは自己責任でお願いします。

※すべての文末に(と、私は考えております)が付いているものと思ってください。ただただ私の考える「鏡像崇拝」について述べているだけです。

※あくまで「鏡像崇拝」というライブコンセプトに対する感想兼考察および妄想です。演者様自身やその他関係者様とは一切関係ありません。語るのは「鏡像崇拝」というライブで見て聴いて感じたことに限ります。

これはライブ感想記事


では本編


なくちゃが……なくちゃが!

さて、いきなりカマしてくれたわけですけど、なくちゃがライブで倒れました。

クラリムステラを纏ったなくちゃがいなくなり、入れ替わるように現れたのはゴシックな衣装をまとった「藍月なくる」

何事もなかったかのように進行するライブ。

なくちゃが倒れたのに、誰も心配しない、なんなら「Mirroring Mirage」で爆上がりする会場。


「Mirroring Mirage」を歌い終わり、そのままMCに入るのですが、何故か楽しそうにちょっとした茶番を交えてなくちゃはその道のプロっぽい人に運ばれたいきました。


さて、ここでまず思い浮かぶ疑問は、倒れたなくちゃはどうなったのか?

そして、現れたのは本当に「藍月なくる」なのか?


という二つの疑問なのですが、


まず、倒れたなくちゃの行方は誰にも分からないです。

埋められたのかもしれないですし、溶かされて骨すら残っていないのかもしれません。


分かるのは、質量の藍月なくるはこのライブにて存在しなくなったということです。



では、今目の前にいる「藍月なくる」は本物? それとも偽物?
いいえ、本物、偽物などという問題で片付けられるものではないと思われます。

メタ読みですが、偽物、あるいは何かを演じている藍月なくるなら、本当の私を愛してよ!とFAKE IDOLを歌うはずですから。


つまり、偽物でも本物でもない、ならこの藍月なくるは何なのか?


「鏡像

ずばり、これは私たち観客が理想とする、可愛くて歌って踊って観客を笑わせて何も考えず楽しいライブをする理想の「藍月なくる」

つまり、なくちゃの、ひいては観客の理想を鏡に写した「鏡像」なのではないのでしょうか?

それは本当に「藍月なくる」と言えるのか?

いいえ、みらーりんぐ後のMCで鏡像の「藍月なくる」(以後、鏡像なくる)は観客に、

「みんな共犯者だからね!」

と言ってきました。


そう、誰よりもこのライブで盛り上がり、挙句には死体を埋めることに対して「いいよー!」と返してしまった観客もまた理想を求め、鏡像なくるを認めてしまったのです。


だから、目の前の藍月なくるが、本物か偽物かなんて関係なかったのです。

だって理想なんですから。


ここが致命的な分岐点。


誰も倒れたなくちゃを心配せず、どこか面白がって、そのライブの演出を見守りました。

当然、そういう演出だった。そもそも本当にそんなことになってたらライブは中止になってる。

という、演出ありきの舞台を利用した、こういう仕掛けは分かってはいても疑うのは難しいと思われます。


さて、ライブ序盤で、すでに取り返しがつかないことになっていまいましたが、かくいう私もこの時はまだ不穏ではありつつも、いま目の前にいる藍月なくるは本物なのか? ということに囚われていたのです。

ずっと理想そのもの

そんな序盤の不穏なことを忘れさせるくらい、ライブは順調に盛り上がっていきます。


さすがに選曲はバッドエンドと謳っているのもあり、ダークでメルヘンなものが多かったですが、合間に挟むMCやゲストのいつきさん、なゆたさんの「愛しい双子人形」との寸劇など笑いを取るものでした。

バッドエンドなんて程遠い、至って理想のライブ進行。


ですが、本当の「鏡像崇拝」はここからでした。

きっかけは、ゲスト出演が終わったあとのヘブンリィ。

みんなが望んだロングにして、髪色も銀色にして、真っ白なドレスで身を包みライブは後半戦へ。

序盤のゴシック衣装にあった黒色が、なくちゃの残滓のようなものが、綺麗さっぱりなくなって、鏡像なくるはさらに理想へと近づいていきます。


みんながこのライブに求めていた選曲、演出、MC。


「こういうのが、見たかったんでしょ?」

とでも言うように、ライブの盛り上がりは最高潮に。
ちょっとした伏線回収。
コンセプトに沿った歌。
とても楽しい時間。

けれど、ライブは終わってしまう。

永遠を願っても、必ず終わるもの。


だって、そこにいる観客は現実に生きる人たちだから。

……でも、じゃあ、理想を叶えるはずの鏡像なくるは?


その答えは、


蝶になって綺麗なまま飾られたい


大好きな人、つまり鏡像を作り出した観客の中で変化もせず、このライブでの出来事は完全に脳内へと仕舞われたい、ということだと私は解釈しました。

見せびらかすのも自由、どんな風に解釈するのも自由、愛しても穢してもどんな風に扱っても、あなたの理想なんだからいいんだよ?

だって、私はあなたが求める理想の鏡から生まれたものだから。

そこにいた観客の誰もがその蝶を捕まえ、剥製にして心の中に飾ることを選んでしまった。

共犯者だから。
望んだのは自分たちだから。
心の中なら、永遠に美しいままだから。

そう願ったのは、私たちなのか、それともなくちゃなのか。

どちらでもいいのでしょう。


今確かに、鏡像なくるが生まれたことが答えですから。


空っぽの玉座


しかし、それは鏡像

私たちが生み出した理想でしかなく、集団妄想や幻影の類。

あるいは、生まれ変わった蝶が見せた死者の魂なのかもしれません。


確かなことは、実際に存在する藍月なくるはすでにこの世にいないということ。


私たちが見ていたものは何だったのだろうか?

理想そのものであったはずなのに、だからこそ現実感がなく、ただひたすらに素敵なライブを過ごしたという実感しかない。


けれど、終わってみれば、その証拠がどこにもなかった。

残されたのは、主役を座らせるはずだった玉座がぽつんと残されているだけ。

今まで見てきた藍月なくるは、果たしてこの世に実在した存在なのか?
そう疑ってしまうくらいには、あまりに理想的な「藍月なくる」でした。


崇拝」


そもそも、今回のライブは映像も残さず、ディレイ配信もない。
「鏡像崇拝」というライブがあったことを確かに知っているのは、現地にいって実際に参加できた人たちだけです。

「藍月なくる」は確かに居たと証明できるものがありません。

だから、最後にみんなが祈り、せめてこの世にあったと形に残したくて、必死に望み……鏡像なくるはその願いを叶え、写真に写りました。

自分たちの理想を叶える「藍月なくる」はいたんだと、この世に証明するかのように。


あそこにいた誰しもが「藍月なくる」に祈り、存在しなかったはずの鏡像がわずかな間だけでも現存したのです。

まるで、神話のように人々が祈り、神や天使が現世に降臨したかのように。


祈ることで、鏡像は崇拝され、完成された。


自覚、無自覚問わず、祈りは届き、これからも私たちの中で鏡像なくるは理想を叶え続けるのでしょう。

……ですが、実在する藍月なくるからは、かけ離れ、もはや別物と化していくのではないでしょうか?

だってそうでしょう。

みんなが共有したのは、あのライブの間だけ。
あとは、みんなそれぞれが勝手に補完し、理想を投影する。

語り継いだところで、結局のところ主観は混じり、この文書も私の主観で構成されているのですから。


各々が理想の「藍月なくる」を願い、無数の理想が溢れるのでしょうが、
結局のところ、自己解釈でしかなく、供給されることは永遠に訪れず、
誰しもが自分の「藍月なくる」を信じ、時に分かりあい、時にいがみ合う。


たった一度のライブで、現存したのかすら怪しげな鏡像の「藍月なくる」は人々の心に飾られて、


「藍月なくる」は理想を写す鏡像として崇拝される存在へと成り果てた。


……というのが、「鏡像崇拝」における世界線の藍月なくるの末路、という考察でした。


あくまで、私の解釈ですので、ここはこう!とか私の「鏡像崇拝」はこういう解釈!こういう解釈もありでは?など何をどうするのかは読み手の自由です。


だって、あなたの中にも居るはずですから。


あなたの解釈による

あなたの理想で

あなたの鏡像な「藍月なくる」が


余談


では、現実の藍月なくるはどうなったのか誰にも分からない、と言ったのですが、その答えの一端はライブグッズのポーチにあるのかもしれない……と思うんですよね。


くらげの形をした鏡の向こうには誰かがいる

鏡の向こう側で手を張り付けているのは、鏡像か、実像か

そして、「鏡像崇拝」とは誰にとってのバッドエンドなのか


少なくとも幸せの形の一つではあるのでしょうが、勝手に崇拝され自分であって自分ではない鏡像に理想を写し出されるのは、幸せか不幸せか。

つまり、表舞台に立った鏡像の藍月なくると、死んでしまい誰の手も届かないところで永遠と手を伸ばし続ける実像かもしれない藍月なくる。

まあ、2度と表に出てくることはないでしょう。


「鏡像崇拝」が続く限り求められるのは理想なのだから。




追記

えー、Mirroring MirageのMVと歌詞カード見てて、別方向の解釈が思い浮かんだので書いてます。

ズバリ、鏡像なくる被害者説。

根拠は歌詞。

まず、歌詞カード読んで、バックコーラスだと思ってた「ランララン」が「片手間ノ呪文」というのはすぐに思いつくのですが、その後の「今日ハ誰ヲ屠ルノカシラ?」が理想を叶える鏡像なくるにしては、今いちしっくりこなかったんですよね。

私たちが思うなくちゃはそういうこと言う、となったらそれまでですが、鏡像なくるは、ハッキリと「好きな人の手で蝶になった自分を剥製にして飾ってほしい」と告げています。

何より、

孤独から産み落とされし 純真な神の子 壊れないように大切に育てましょう 私はいつだって此処で歌っているわ あなたが笑いかければ 笑うでしょう きっと

「Mirroring Mirage」MV概要欄より

これ、普通に疑問なんですよね。
純真な神の子とは誰を指す言葉なのか。
少なくとも、愛して、穢す存在だと思われている観客ではないですよね。

となると、「Mirroring Mirage」に登場する人物は実在する藍月なくるか、鏡像なくるになります。

今のところ、どちらなのかハッキリしないですね。なので、歌詞の別部分に注目してみました。

オ食ベナサイ モット 甘美ナ青リンゴ 臓物ト結バレ イツマデモ オ食ベナサイ モット コノ歌声ヲ 知ラヌガ仏トハ トッテモ素敵ナ言葉ダコト!

「Mirroring Mirage」MV概要欄より

そしてこれ。
知らぬが仏、つまり真実を知られたくない相手は誰なのか。
はい、観客ですね。これは分かりやすいです。

となると、知られて困るのはなくちゃ? 鏡像なくる?

ヒントはここの映像、青りんごを持ってるのは昔の概念なくちゃ。
そして、その後の映像で出てくるのはMVの鏡像なくちゃで、しかも一口かじった青りんごを手にしているんですよね。

何より、歌詞カードでびっくり、ここのバックコーラス、明らかに発狂してるんですよね。
狂ったように「ランララン」(実際は違いますけど少なくともそう聴こえる)と歌っている。
まるで、無理矢理「歌声」を与えられて、歌わされているように感じますね。

つまり、ここの歌詞を歌っている人物は「歌声をあげられる」「みんなには知られては困ると思っている」「バックコーラスに歌ってほしいと願っている」の三つを満たす人物ということになります。

愛して穢して満たしなさい 自由に好きなように ワタシが何度も何度でも 許してあげるわ あなたは何も悪くない そうでしょう? そうでしょう? 罪とは知らず 重ね重ね 素晴らしいわ! 愚かで!

「Mirroring Mirage」MV概要欄より

何よりここのバックコーラスの英語歌詞、ざっくり翻訳すると

「手遅れになる前に、安らかに眠りなさい、永遠に」

おかしいですよね、バックコーラスとメインコーラスを別人物だとすると、一番初めの歌詞にある「大切に育てましょう」が何だったのかとなります。
もちろん、気が変わった、危険なものだった、と考えが変化した可能性がありますが、そういった歌詞や映像は見受けられなかったので、それはない。

「罪とは知らず重ね重ね素晴らしいわ!愚かで!」

何よりメインの歌詞は明らかに、別の何かを対象に実験をして上手くいっているように見受けられます。

つまり、この歌のバックコーラスは「歌声を与えられる側」で「育てられる対象」

切り取って 貼り付けては
【都合良く塗りたくって】
終わりなき渇きに
【踊らされ 夜は更けて】
愛と憎しみは紙一重
理想郷からはみ出すなら
裏切り者と罵るだけ
指先で一網打尽
狂イナサイ モット 夢カ現カ 曖昧ニナッテハ 朽チテク 狂イナサイ モット 妄想ニ耽ッテ 片手間ノ呪文デ 今日ハ誰ヲ屠ルノカシラ?

「Mirroring Mirage」MV概要欄より

もう隠す気がなくなっていますね。
はい、実在の藍月なくるメインコーラスで歌っているのではないでしょうか。

「終わりなき渇き」「愛と憎しみは紙一重」

つまり、なくちゃはみんなが望む「藍月なくる」の理想を演じることが辛くなった、嫌になってしまったというのがこの世界線なのではないか? というのが私の新解釈です。

つまり、辛くなってしまったけど、やめることのできない「藍月なくる」を鏡像として産み直し、誰もが理想に思う「藍月なくる」=鏡像なくるを作ることを思いついた。

そして疑問だった「屠る」は作り上げた理想の「藍月なくる」をみんなの心に住まわせることで永遠に存在し続けるようにしたということなのでは? という、恐ろしい考えに至ったわけです。

愛して穢して満たしなさい 自由に好きなように だってワタシはもうとっくに 私ではないのだから! 鏡をよく見てご覧なさい あなたは今まで 誰を見て 誰を愛してた? 愚かな その姿で

「Mirroring Mirage」MV概要欄より

つまり、ここのラストは

「結局、みんなが求めていたのは理想なんだね。もういいや、その理想で作られた藍月なくるでも愛してたら?」

という解釈もできるのではないか、という真逆の考察でした。


あの「鏡像崇拝」というライブは、実在するなくちゃが「クラリムステラ」ができなかった――ガラスの檻から抜け出せず、理想と現実に苦しんだすえに、

初めから理想で作り上げられた鏡像に「藍月なくる」を与えこの世を去った

で、観客の理想を叶えるように「藍月なくる」として生み出された鏡像なくるは、与えられたものを使い、「鏡像崇拝」を始めていく。

段々と、観客の理想に染め上げられていき、純真な神の子ではなくなり――

理想を叶える鏡像の「藍月なくる」となってしまった

つまり、鏡像なくるバッドエンド。
これからも「剥製にされた蝶」のように誰かの心の中で永遠に、誰かの理想の藍月なくるを叶え続けるという結末。


あれです。この解釈で行くなら、追記前の私の解釈は見事に、なくちゃの思惑に転がされていた「愚かな姿をさらす嘆かわしくも愛おしい共犯者」だったということになりますね……。

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