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#32 見方が変わった件/くろさわかな
【往復書簡 #32 のやりとり】
月曜日:及川恵子〈「言葉を読む」ということ〉
水曜日:泖〈シンプルって最強だ〉
金曜日:くろさわかな〈「誰かのために」ってなんだ〉
「誰かのために」ってなんだ
及川さんのお話に出てきたアナウンサーの友人のお方、とても素敵だなと思いました。「きれいな日本語を伝えたいから」ではなく、「きれいな日本語を読みたいから」だなんて。こんなふうに、自分のやりたいことを飾らずに伝えられるようになりたいなあ。
わたしは「自分のやりたいことをやる」よりも、「誰かのためになることをする」方がより善きことだと思っていたので、自分のやりたいことを考えたり表明したりするのが下手くそなんです。ただ、やりたいことが無くても「役に立っている」(と思えることをする)ことで自分の存在意義を感じられるので、それが自分にとっての「生きがい」だとも感じていました。
だけど生きがいを求めてすぎて、だんだん変な方向に向かって行ってしまったように思います。もっともっと誰かの役に立つことをしなくちゃだめなのに全然できていないと落ち込んだり攻めたり。自分は誰の役にも立ってないのに、なんのために生きているの? って。
結構最近までそんな感じだったのですが、今年になってやっと「自分がどんなことをするにしても『自分のため』であって『誰かのため』じゃない。だけどすべては『誰でもない何か』のためになっている」という考え方ができるようになりました。
見方がかわった原因は一つではありませんが、特に影響を受けたなと思うのが神谷美恵子さんの「生きがいについて」「人間を見つめて」です。
人は生きているだけで存在意義があり、天や地や神や宇宙や人生に必要とされている。生かされているということだけで生には大きな意味があると神谷さんは綴っています。
少し宗教っぽいなと感じて抵抗を感じる部分もありましたが、「人間をみつめて」の方を読み進めて、やっと納得できたところがありました。
自分が生きがいを感じることが、人生でもっとも大切なことかどうか。
『生きがい感』をつかまえようとして、(中略)あまりやっきとなると、かえって生きがいは指の間をすべりぬけて行ってしまうものではないだろうか。むしろ生きがい感とは、人生の途上で、時たま期せずして与えられる恩恵のようなものではなかろうか
さんざん「誰かのため」とか思ってむきになっていたけれど、結局「生きがい感」を求めていただけで、それって「自分のため」だったんだなあと。「誰かのため」なんて、傲慢でしかないじゃないの。
そう考えたら、生きているだけでいい、という部分も妙に納得してしまったんです。だって結局自分のためにしか生きられないんですもの。そしてそれは個人個人で見たときに意味がないと感じられることもあるかもしれないけれど、大きな生命体として見たときに意味を持っている。
自分は一人の人間だけど、それだけではなくて、大きな存在の一つのパーツでもあるんだという意識が持てたんですよね。
うーん、難しい……なんだかまた宗教っぽくなってしまった。
もちろん、個人個人の達成感とかやりがいってとても大事だし、それが生きがいになるのも確かですが、ある日突然それがなくなってしまったとき、自分の役割はそれだけじゃないという気持ちが持てていることはすごく力になるんだなと思った次第です。
伝わるでしょうか……。ああ、言語化って本当難しい。
・・・・・
実は東京BABYLONEという漫画に出てきたキャラクターが同じようなことを言っていて、小学生の時に読んでからずっと引っかかっていたんですよね。
人間はみんな『自分のため』だけにしか動けないんですよ。
『その人のために何かしてあげたい』と言っても、結局『幸せになったその人を見て自分が幸せになりたい』と思っているに過ぎない。
このセリフを言ったキャラクターがサイコパスのような設定だったので、余計にこの言葉をどう受け止めていいかがわからなくって。小学生のときは「は?」だったし中学生のときは「んなわけねーだろ」だったし高校生のときは「それは詭弁というやつでは」でした。今は焼酎あおりながら「そうね……そうなんだけどね…」と返すと思います。
ああ、また読みたくなってきちゃった。今読んだら、全然違うところが引っかかるんだろうなー。
くろさわかな