イオンのお葬式とamazonの棺桶と
宗教について問われたとき、「不幸があったときは○○宗のあそこのお寺だけど、普段は特に意識していない」という人は多いのではないだろうか。
わたしもそのうちの一人で、宗教にふれるのはお彼岸やお葬式のときくらい。とはいえ、この文化は大切だと感じている。故人を偲ぶ、あるいは故人に赦しを求めるとき、基本の型が決まっているというのはとてつもなく安心だからだ。
それが昔から伝わってきている「間違いない方法」であれば尚のこと。大切な人を失って暗闇に放り出された時、導いてくれる宗教や僧侶の存在はとても心強い。たとえ形を変えたとしても必要とされ、あり続けると思っていた。
けれど形の変え方によっては、文化自体が特定の層にしか響かないものとなり、意味がない・不要だと考える人も増えてしまう。
その過渡期が、今なのかもしれない。
最初に見たとき、風刺広告なのかと思った。が、違うらしい。
これが広告デザイン賞に選ばれるのか…という残念な気持ち。
けれどこの広告がなにかを冒涜している、という意見は、わたしにはよくわからなかった。名前が入っていない状態の位牌は、故人ではなく単なる物という考え方もできる。そうすると、冒涜しているのは故人ではなく宗教や僧侶に対してということだろうか。
お金の問題を全面に出していることが、冒涜感を覚えるのかもしれない。死を商売にするなんて、と。だけど今、お葬式をボランティアで行ってくれるところなんてない。むしろ葬儀メニューにはグレードがあって、より高い方がよいとされている。金箔でギラギラに光らせ「最高級プラン」を演出するのと、パック詰めで安さをアピールするのと、一体何が違うのだろう。
お葬式自体が高額で、さらにお金をかければかける程いいという価値観がのさばっているということ。そして、お金がないと棺桶を手に入れることすらままならないという現状は、イオンのパック詰め広告よりずっと深刻な問題だ。「お金をかけなくても大丈夫ですよ」「こういう方法で充分ですよ」と説いてくれる人がいたら、あの広告だって生まれなかったかもしれない。その導きこそ、宗教や僧侶が担ってくれていたのではないだろうか。
イオンのお葬式やamazonの棺桶に対抗するには、「冒涜している」という攻撃的な言葉ではなく、こころを痛めている人へ寄り添い導いてくれることだと、わたしは思う。
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