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5分前行動、このやろう
はじめに 5分前行動という概念について
私は5分前行動というものをあまり信じていない。5分前行動の効能や効能といったものを、あまり信じていないということだ。
元来5分前行動は「5分前精神」という日本帝国海軍の考え方が元になっているのだそうだ。そして現在の海上自衛隊にもこの精神は脈々と受け継がれているという。
その内実としては、解纜の際、時間の5分前にはタラップから離岸する仕組みになっており、かならず5分前には乗船している必要があった。こうした業務上の仕組みから、5分前に所定の場所に到着し準備をしている精神が尊ばれて何事にも5分前行動をしておくのが良い、という感じになっていったのだろう。
私が5分前行動が好きじゃない理由
軍隊であったり防衛を担う組織では規律が重んぜられ、こうした厳密な措置となることは当然ともいえるだろう。
一方でそれを私たちの生活や仕事まで敷衍するのは行き過ぎではないかと思っている。それではいくつかの論点から、私が5分前行動が好きじゃない理由について述べてみようと思う。
5分前行動の無限の連鎖になってしまう
例えば10時から用件があるとする。そのためその場所に着いたりとか、その場所での行動を始めるために、5分前に行動しようとする。
すると、その5分前行動をしようとするための行動を、その5分前にしなくてはならなくなってしまう。何もかもを5分前にこなさなくてはならず、そのため絶対にある時点で5分前行動するべき何かを今現在より以前の過去に既に済ませておかなくてはならなくなってしまう。この考えは結構ストレスがたまる。
逆に未来に向けて時を眺めやると、私たちは必ず死を迎えることになる。「死」のための準備を5分前にし始める。その準備をさらに5分前に遡る。それをずっと数列のように遡ってくると、今現在に至る。すなわち、5分前行動の精神を真面目に行なおうとすると、やがて来る死の準備を今行なわなくてはならず、すなわち今死ななくてはならなくなってしまう。
5分前行動を真面目に取り組むと、今を生きられなくなってしまうのだ。
5分前じゃなく、普通に指定の時間からことを始めるべきではないか
そもそも5分前に、その用務への準備や到着をさせるということがおかしいと思っている。
労働では勤務時間というものがある。おそらくほとんどの人が、始業時間よりいくばくか前に到着することと思う。時には「始業時間の〇〇分前には到着」が不文律のようになっている職場もあるだろう。ただ原則的には始業時間に始業するのがベストだ。
我々労働者は、勤務時間に基づいて給与が発生するのであるからなるべくその時間以外に職務をするべきではない。そのため私は、なるべくギリギリで職場に到着するようにしている。例えば9時から始業とすると、8時58分に自分のデスクに到着するようにしている(本当は59分に行きたいのだが、遅刻は嫌いなので遅刻しないギリギリを狙っている)。
5分前行動に引きつけて論じると、5分前行動を実施して5分前にやってきて行なう行動は、本来始業時間後に行なうべきではないかということだ。準備含めての労働ということだ。もし5分前に到着してするべき何かがあるのであれば、8時55分始業とするべきだ。
「5分前行動」を尊ぶことでの弊害
本章では5分前行動が好きじゃない私が、「5分前行動」がもたらす弊害について論じてみよう。
集合時間にクソ早で来てしまう人問題
5分前行動ってのは、時間に早く来ることを尊ぶ文化だ。5分前行動そのものは5分前に来ることを想定した文言だが、広く捉えると時間より早く来ることを尊ぶ振る舞いにつながる。
確かに集合時間などより早く来るに越したことはないのだが、5分前行動みたいな文言が人口に膾炙することで、時間にやたら早く来る人を許容しかねない現状を生んでいるのではないかと感じることがある。
私は仕事で、集合時間にいろんな人が来る業務がある。講演会みたいなのを想像すると良い。2時開始のことが多い。2時にお話が始まるということだ。ところがそうしたタイプのイベントに、1時過ぎに来てしまう人がことのほか多い。
受付は始まっていない。講師や演者もまだ来ていない。それなのに、到着してるんですけど! とお客も言ってくるし心配性の職員も伝えてくる。私はまだ別の仕事がある。
おいおい時間通りに来いよという話だ。
何のための開始時間なのか。早くこればいいという話ではない。その早く来た人も、その1時間弱で待つ以外のいろんな楽しみや勉強をすることができる。早く来ることで全体の生産性が毀損してしまっている。
実は5分前行動はこうした時間にクソ早く来てしまう人の社会的問題の素地として存在しているような気がしている。5分前行動などという概念があるから人は時間通りではなく時間より早く行動しようとしてしまうのではないか。
時間ぴったりに行動し、遅れたならばそれで仕方ないくらいのメンタリティの方が全体のバランスが取れるのではないだろうか。
5分前行動をしないことによる社会的なリスク
私は5分前行動が好きじゃない。好きじゃないのをちゃんと好きじゃなくするためには、しっかり5分前行動をしないように振る舞う必要があると思っている。
そのため、しっかり職場で信頼を得て「こいつは始業ギリギリにくるけどまぁ仕方ないな」と思われるよう実力を鍛えて、子猫レベルだがが常に仕事に牙を剥いている状態にしている。担当業務はとにかく任せろ、という具合だ。ちゃんと仕事できているかわからず恥ずかしいのだが、出来不出来はともかく、責任持って仕事を真面目にこなすぞという気概で牙を剥いている。
職場の面談でももう少し早く来るよう言われることが多い。うるせえという話だ。早く来ることで評価を上げる人ももちろんいるだろう。しかし私はそこに自分の価値を置いていない。早く来ることよりも、時間通りに来てしっかり仕事をこなすことに価値を置いている。
5分前行動は絶対的な指標ではない。準備をしっかり行なっておきましょうという極めて理念的な指標だ。従ってもいいし従わなくてもいい。ところが5分前行動は何となく極めてふわっといい感じの指標だ。だから何となくふわっと社会全体がこれを肯んずる雰囲気になっている。
私はこの雰囲気が嫌いだということだ。絶対ではないものを、押し付けてくるなという話だ。しかも雰囲気でふんわりと押し付けてくるなということだ。
5分前行動ができないと、あいつは時間にルーズだと言われることがある。これは如上の雰囲気押し付けの際たる具体例だ。真の意味で時間にルーズな人間は、定刻9時の場合に9時5分に来たり始めたりする人間を指す。定刻9時の事柄に8時55分にやって来ず、8時58分にやってくる人は時間にルーズではない。
5分前行動というふんわりとした指標により、社会が窮屈になっていないだろうか。時間ぴったりだったり、あるいはちょっと遅れたりしたって、前述の国防に関する事柄や財産や生業や人生のイベントに直に関わるでもない限りデメリットは少ないと思っている。
私は常に、決まった時間にほぼぴったりでくることを心がけて、社会の要らぬ早めの到着に対して反抗している。
おわりに 今を生きるべき
つまるところ問題は、5分前行動的な発想が、私たちの人生の豊かさを阻害しているということに帰着する。
すなわち先のことを考えすぎなのである。先の不安を今埋めようとしすぎなのではないかということだ。早く行動し目的地に着くと、目的地につかないかもしれないという不安を埋め合わせることができる。
そんなことに不安を抱くなということだ。
今やることを今こなし今楽しみ、先のことはその時間になってから考える。5分前行動は先を見据えすぎだ。しかも5分というセコい時間を稼ぐために先を見据えすぎだ。強い必要がある場合を除いては、そんなものに道徳的な価値を見出すべきではない。
今は今しかないのだから、今を生きて、5分後のことは5分後に考えるべきだ。