数秘術をもとに見る自分の脳内住民がラブ&ピース過ぎる。
ソウルナンバー占いって知っていますか?
生年月日をもとに、生まれながらの本質や才能、運命を明らかにする数秘術です。
「世の中の全てのものは数字の法則が当てはまる」
という西洋での考え方が元になっています。
今回、数秘術から脳内住民を知ることができる下記のサイトを活用して、調べてみました。面白そうだったので。
人は三つの要素で構成されているとされ、考え方、行動、言動の最終目的である、LP、D、Sが、その主な人格となっています。考え方の補助にB、後天的に見に付けようとすることにITがあります。
P、M、LLについては、割愛します。
私のこの結果がどういうことかといえば、とてもラブ&ピースなんですね。愛と平和です。
考え方の癖である22が、公平を好み、ワールドワイド(世界的規模)な人格をしています。
この世界を変える!
全てに共感する!
様々な価値観を理解する!
平和主義な多様性人格です。
バタフライ効果(小さな出来事が、大きな出来事に繋がる)について知ったとき、私は「蛹から蝶になってバタフライ効果を起こしてやるんだ!」なんて言っていましたが、これは考え方の癖なのか。
そして、行動と言動の最終目的は、6という同じ数字になりますが、これはお母さんです。
愛を持って人に手を差し伸べたい母。
すっ……。
グローバルなお母さん……ってコト!?
確かに私は学生時代、この世界のお母さんになるしかないと思っていた。あまりに毒親といわれる人たちが多いからだ。毒親も、遡ってみれば毒親の子であったりする。私は宗教の本を片手に、愛について考えながら、聖母マリアを目指していたのである。私が愛を持って、愛を広めたい。
なぜならこの世界に神様がいないから!
私は宗教にのめり込みながら、神様がいないことを知っていた。いや、いたとしても、それらは私たちを救ってくれる存在ではなく、ただ見守る者たちであると認識していた。だから、もしいるのなら、ただ孤独を癒してくれるように願っていた。進む道が間違わないよう、止めてくれるだけでいい。神様には力がないのだ。これは神様への侮辱ではなく、悟りだった。神様がもし、存在したとしても、現存しない。触れることが叶わないのなら、手を貸すこともできないのだ。それは神様に限らず、人間も同じ。そばにいなければ、助けることができない。声を掛けることも、励ましも行えない。見えるものにしか、見えるものは繋がれないのである。
しかし、私もひとりの人間だった。
共感も理解も限りがある。
そんなとき私の考え方の補助(お助けキャラ)が、私に言った。
俺は俺! お前はお前!
そう……この補助1は自己中な人格をしており、自分勝手な考え方をする。
だが、私はこれにより否定はしない。
好きに生きろ。
悪事はするな。
なにもできねーから。
みたいな、性格をきっとしている。自己中がもっとも頭のいい生き方だと私は思っています。自分軸で生きている人が誰よりも、他者を肯定することができます。なぜなら、他者も自分のために生きていると思っているからです。私が、あなたの生き方を決めるつもりはありません。ただ感性が違うことは、今後の支障になるでしょうから、お互い気を付けましょうね。といった感じだ。とはいえ、私は、この考え方に疑問を持つことはあった。結局、認めてないってことじゃない……(そんな権利は、まず私にはないのだけど)
されど、これまでの人生を振り返ったとき、私には以前は理解できなかったけど、いまはわかる。前は共感しなかったけど、いまなら共感できる。といったことがあった。心の豊かさとは時間と共に広がり、知識も変化のなかで増えていくものなのだ。川の流れのように私たちは、経験や、人との出会いと別れを繰り返すなかで、ありのままを認めていく。
なんでもいいと思うんだよね。
しょうがないよね。
人間だもの。
この後天的に身に付けようとする緩い人格9は、世界平和を求める包容力があり、愛情深いとされる。
…………ん?
やっぱりラブ&ピース?
自己中なラブ&ピースができあがった。
私は愛と平和を求めた結果、世界の在り方を変えず包む選択を取ると、数字に運命付けられていた。
事実に当てはめながら考えているので、こうしてみると当たっている気がします。
なにも変えないことのどこが愛と平和なのか?
とも、思いますが……(高い理想)
この世界のこと、よくわからないんだもの。
私は子供の頃、よく周囲から「変」と避けられていた。私は他者と自分の違いを把握していることはあったけれど、それがどうして変になるのかわからなかった。
普通と違う=変。
普通と違う=別の普通では駄目なのか。
仮に、変を定数としても、普通と違うから、変、だから避けるという答えに繋がらなかったし。
また、だから避けるが、定数になるとしても、協力しない。に、ならなかった。
お互い子供でしたし仕方ないと思いましたが。
私はめんどくさいなと思っていたので、滲み出ていた可能性。それにどうでもいいと考えていました。避けてはいなかったけど、逃げていたといわれれば否定できません。無気力だったんですね。ただ、これは困った人であることも自覚していました。どうでもいいんだけどな……と、思っていれば、相手もどうでもいいでしょう。私は自分の普通という視点から、相手の普通と対峙することが大切だったのではないか。
平和の対義語は、無関心という話があります。
人は、自分に関心を持ってくれる相手が好きなのです。私も、少し放任されていたので関心を持って欲しい気持ちはわかります(とはいえ、忙しかったしな……とも、思う)
関心=愛=平和
ラブ&ピース
ということで、数字の法則に従って考えると私の脳内住民たちはラブ&ピースであることがわかりました。ラブ&ピースの妖精たちが五人で頑張って星(幸せ)を作ろうとしていると想像すると可愛いですね。小学六年生の私の願いは「永遠の幸せ」でした。永遠に輝きを失わないスター、子供の頃、そんなオリジナルキャラクターを作ったこともありましたが、目指すとしたら、なかなか厳しい道のりになりそうです。虫も魚も動物も、草木とて生きるものは食い潰し合うのに、平和とは……と、最近考えていました。あまりにグローバル過ぎる。自然を平和と呼ぶのなら、なにもしないことが平和であると思いましたが、秩序のない世界は行く宛てが多過ぎて悩むのでしょう。代わり映えのない風景は、立ち止まってるようで焦るのではないでしょうか。
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