「浮雲」という傑作
それはおそらく1999年くらいのことだ。なぜそう思うかというと、ヴィンセント・ギャロ監督の「バッファロー66」という映画が1998年制作の映画だったからである。
当時僕は福岡に住んでいた。福岡というのは中途半端に田舎で中途半端に都会な街で、どうしようもないド田舎ではないけど、洗練された大都会でもなかった。
ヴィンセント・ギャロ監督の「バッファロー66」という映画がとても話題になった時、福岡の映画館では上映されていなくて、一夜限りの上映会が開かれた。
「バッファロー66」だけでは間がもたないので、抱き合わせで4本くらいの当時としてはレアだった映画も上映され、オールナイトの映画会が行われていた。その中の1本に成瀬己喜男の「浮雲」もあった。成瀬己喜男は1995年に生誕100年を迎え、その年にはBSやCSで特集が組まれたりしたが、まだ「浮雲」は手軽に見れるような作品ではなかった。上映会の客の大半は「バッファロー66」が目当てで、「浮雲」は添え物のような扱いで、「浮雲」の上映が始まった時、会場内はザワザワしていた。
しかし映画が進んでいくにつれ、会場内は静まりかえっていき、終盤にさしかかるころには、会場中がスクリーンに釘づけになっているのが感じられていった。そして会場のところどころから鼻水をすすりあげるような音が聞こえてきた。
僕はその日を境に「福岡もそんなに悪い街ではないじゃないか」と思うようになった。「浮雲」というのはそんな映画だ。高峰秀子が森雅之に「私も連れて行って」としがみつくシーン、森雅之と岡田茉莉子が視線のやりとりだけで恋に落ちるシーン、森林に仕事に出かける森雅之を高峰秀子が慈しむようにに見る無言のシーンなど、「浮雲」には印象的なシーンが多い。今では「浮雲」もTSUTAYAで手軽にレンタルできるようになっている。