
心を熱くしてくれるもの
これは2013年に書いた文章です。
「心を熱くしてくれるもの」
普段、新聞をはじめとして、
活字で表現されているものをほとんど読まない僕だが、
マンガはわりと読んでいるので、
せめて新刊で買って読んだマンガだけでも、
紹介していきたいと思っているのだが、
今日は「ブラックジャック創作秘話 第2巻」である。
この「ブラックジャック創作秘話」の第1巻は、
2012年の「このマンガがすごい!」の
オトコ編の第一位に選ばれた。
「ブラックジャック」を連載していた頃の手塚治虫のエピソードを
担当編集者やアシスタントなどに取材したもので、
手塚治虫の超人的な仕事ぶりが紹介されている。
僕は日本の歴史の中で一番の偉業を成し遂げた人物は、
おそらく手塚治虫だろうと思っている。
まだ亡くなって20年くらいしか経っていないので、
評価は後世にゆだねたいが、
手塚がいなければ「ドラえもん」も「天才バカボン」も
「サイボーグ009」も「宇宙戦艦ヤマト」も、
「AKIRA」も「攻殻機動隊」も、
「新世紀エヴァンゲリヲン」も生れなかったと言えるので、
日本の子供たちに与えた影響のみならず、
世界の人々に手塚が与えた影響は計り知れない。
第1巻では「ブラックジャック」連載当時のことが主に書かれているが、
第2巻では、もう少し時代をさかのぼって、
手塚治虫が月に10本の連載を抱えていた頃のことも書かれている。
それは、昭和30年代の初めの頃のことで、
各誌の編集者が手塚を取り合って、
ぬけがけした編集者が手塚をどこかの旅館にカンヅメにし、
他の編集者たちがそれを探し回るというようなことも、
時々起きていたようだ。
昭和32年に光文社の「少年」の編集者が
手塚を京都に連れ出してカンヅメにした。
「少年」には「鉄腕アトム」が連載されていた。
講談社の「少女クラブ」の編集者が、
それを追って京都まで行った。「少女クラブ」には、
「火の鳥 エジプト編」が連載されていた。
手塚は移動の汽車の中でもマンガを書きながら、
兵庫県宝塚の実家に立ち寄ったあと、
西日本新聞に連載していた
「黄金のトランク」の原稿を書くために、
博多まで足を延ばした。
結局、他の雑誌の手塚番の編集者も、
ほとんどが博多に駆けつけ、博多の旅館で、
みんなが手塚の原稿を待つことになった。
手塚は小倉在住の高校生、松本あきらに電報を打ち、
アシスタントとして博多まで来てくれと依頼した。
この松本あきらが、後の松本零士である。
手塚はこの松本を含め、
九州在住のマンガ好きの高校生を数人呼んで、
アシスタントをしてもらったのだが、
その中には佐世保に住んでいた高井研一郎もいた。
後にマンガ家になり「総務部総務課山口六平太」や、
「プロゴルファー織部金次郎」などを書いた高井研一郎は、
卒業式の前日に手塚からの電報が届いたのだが、
すぐに博多に駆けつけ、一晩だけ徹夜して手塚を手伝った。
次の朝、手塚に博多駅まで送ってもらったのだが、
その時近くの写真館で、
手塚、松本と一緒に記念写真を撮った。
その時手塚が、
「君たち、漫画家を目指すなら東京にいらっしゃい。」
と誘ってくれたのだそうである。
そして松本も高井も漫画家になった。
僕はこのエピソードを読んでボロボロ泣いてしまった。
手塚治虫は、もしかしたら意図的に博多まで脱走したのかもしれない。
そうやって九州の高校生たちに声をかけ、
彼らを漫画家の道へと導きに行ったのかもしれないと思った。
ちなみに、この時手塚は秋田書店の「漫画王」に
「ぼくのそんごくう」を連載していたのだが、
この担当編集者は、もう原稿が間に合わないと判断して、
トキワ荘を訪れ、石森章太郎と赤塚不二夫と、
藤子不二雄(AとF)の4人に代筆を依頼した。
4人は手分けして徹夜で代筆原稿を仕上げたのだが、
結局編集者はその原稿を取りに来なかった。
なぜなら、手塚が松本や高井らに手伝ってもらって仕上げた原稿が、
博多から航空便で届いたからである。
このエピソードだけ見ても、
後に日本の漫画界に大きく貢献する人物たちが、
全員手塚治虫のために奔走している。
まるで幕末に薩摩、長州、土佐、水戸、新撰組などが、
手を組んだり敵対したりしながら、
「日本の未来」というひとつの目的に向かって、
進んで行く姿を見るようである。
この時手塚は28歳で、
松本、高井は18歳だったそうである。
ちなみにこの「ブラックジャック創作秘話」は
全5巻で完結した。