「君の名は。」
一週間くらい前(9月19日)に観てからというもの、ある意味ずっと心を掴まれているというか排水溝の目詰まりみたいに引っかかっている「君の名は。」。アニメ映画としては異例の大ヒットということで今、一番アツい作品だと思います。
そんな「君の名は。」ですが僕はこの作品にハマることができませんでした。ここでいう「ハマる」とは熱中する、や夢中になる、という意味ではなく観客として作品世界に対し理解・共感し同じ方向を向く、といった感じです。世間的にとても評判の良い感動作にこんな感想を持つことに対する不安や寂しさもなくはないのですがそれはまぁ、こんな人間になっちゃったから仕方ないとしてその理由をまとめることで目詰まりを解消できればなぁと思いこれを書いています。
・執拗かつ必要性の薄い「性」描写
まず第一にコレです。
作中、現時点で覚えているだけでもヒロインと入れ替わった主人公が自分(ヒロイン)の胸を揉むシーンが3回、着替えが1回、トイレが1回、パンチラが2回、ブラチラが1回はありました。性描写が悪いとは言いませんがU局の深夜アニメじゃないんだから無駄に描く必要はないでしょう(何をもって無駄とするか、無駄なものは入ってはいけないのかという話ここでは割愛させてもらいます)。
着替えとトイレは思春期の男女が入れ替わるという展開上、自然なものとして受け入れることができましたが主人公がヒロインの胸を揉むシーンはちょっと良くなかった。高校生の男子が同年代の女子と入れ替わった際におっぱいを揉んでしまうのは理解できます。当然です。しかしこのシーンは何度も描かれます。それだけなら「しつこいな」だけで済むのですが「定番ネタの天丼」を重ねすぎた結果、フリとして活きてしまい、突如入れ替わらなくなっていた主人公がやっとヒロインの身体に入れた、という物語のポイントとなる場面で観客の笑いに繋がってしまっていました(俺が行った回だけかもしれないけど)。
単なるSFラブストーリーからシリアスな展開への転換点で笑いが起きてしまうとどうしても醒めてしまい、以降のストーリーも一歩ひいたところからしか見ることができませんでした。狙ってやったとしたら何で?だし狙ってなかったなら純粋に失敗でどっちにしろあそこでもう一度あれを挟むのは悪手だったように思います。
パンチラとブラチラは必然性もクソもない単なるサービスなんだろうけどマジで要らなかった。なんだあれ。「口噛み酒」の描写に関してもあまり褒められたものじゃないと思いますが「入れ替わり」を補強する巫女という要素に付随するものなのでまぁいいです。
笑いに繋がった、という点を差し引いてもちょいちょい入ってくるこれらの描写によってその都度、照れて(「観客としての自分」を認識して)しまい、作品に入っていけなかったというのが「君の名は。」にハマれなかった要因の一つとしてありました。
・ストーリーの中途半端さ
恥ずかしながら新海誠監督の作品は今回が初見だったのでそれまで伝え聞いた情報でしか氏の作風がイメージできていなかったのですが他の作品もこんな感じなんでしょうか。
新海誠の代名詞ともいえる美麗な背景を舞台に描く「男女のSFラブストーリー」(ex.「時をかける少女」)から「世界の崩壊(糸守町の消滅)を防ぐSFジュブナイル」(ex.「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」)までの舵切りが急すぎて断続的な、それぞれ別のストーリーとなった結果、着地点も2つ存在することになり、得られるカタルシスが半減(2つに分かれているので実質4分の1)してしまったように感じました。
例で挙げた「時をかける少女」や「転校生」の大林宣彦と「ぼくらのウォーゲーム」、「サマーウォーズ」の細田守のイイトコ取りをしようとした結果、すり合わせが甘く雑な出来になったような印象。
これまでの新海誠作品と比べて強く感じたのが、ハッピーエンドに対する素直さだ。例えば『秒速5センチメートル』におけるなんとも苦い結末(幼いころからお互いを思い合っていた男女は、成長とともに様々な差を埋められなくなり、男は現実に敗れ過去の女の幻想にすがり、女は他の男と結婚する)は、本作との強い対比をなす。ラストシーンの、すれ違うふたりがお互いに気づくか気づかないかの結論がそれを象徴している。その苦さ、言い換えれば、現実に対する諦観こそが新海誠の作家性であり、逆説的かもしれないが、現実感を希薄にできるアニメーションという手法だからこそ、諦観がいきるのでは、と考えていた。
この作品を見て涙を流し、美しいものを信じて、いつか自分もああいった世界の登場人物になりたいと願う気持ちを否定する気はない。しかし、人はずっと美しくはないし、いや、美しい時もあれば醜い時もあって、それを肯定することが生きるということなのだとしたら、美しい瞬間だけを切り取った本作は、やはり、これまでの新海誠作品とは異なるのだろう。
上記の引用記事を読んで、「大衆」を意識した結果、作品の大ヒットにつながったのかもしれないけどそれまでの作風の方が俺みたいな人間には良かったのかもしれないな、なんて思ってしまいました。勝手な言い分なのは分かってます。
・「リア充」との距離感
三葉ちゃんは紛うことなき美少女であり瀧くんは作中で三葉ちゃんがなりたかった「イケメン男子」です。
アニメーションというかフィクションなんだから登場人物の容姿が良いのは当たり前(悪く描く理由がない)なんですが彼らの生活スタイルの絶対的なリア充感にゴミみたいな学生生活を送ってしまった身としてはまったく共感できなかった。
いわゆる「普通」な学生生活を送ってきた、または今まさに送っている層というのが「君の名は。」支持層の多くを占めていると思うんですがなぜ彼らがそこまでこの映画を支持できるのか、逆になぜ僕が共感できないのか、という部分に「土台の有無」が前提としてあると思うんですよね。
学生時代に彼氏・彼女がいた、屋上で友人と弁当を食べた、バイト先にいる憧れの先輩とイイ感じだったなどの取っ掛かりがある人は「君の名は。」のステージに立てるんだろうな、という話です。それがある人にとってはあのストーリーは「自分が体験したことある恋愛エピソード」を強烈に美化し、フィクションならではの展開と映像美で飾ったある種の理想形(適切な表現ではないと思いますがバチっとくる言葉が浮かばない)であり、その土台を持つ「普通の」人が圧倒的に(それが普通と言われるほどの数。具体的には「99.8%」。)多いということが作品のメガヒットに繋がっていると思います(母数の問題)。
しかしその土台となる体験のない僕みたいな人間には「君の名は。」で描かれるストーリーとの間に大きな隔たりがあり、「薄っぺらいな」としか思えなかった。自分に全く縁のない高校生の恋愛描写をベースに作られた作品に対して冷めた目を向けることしかできず結果として悪いところばかり見えてくる、というのが「君の名は。」に否定的な意見を持つ理由としてあるんだと思います。そういう意味でスクリーンから伝わってきた「あぁ、俺みたいなのはお呼びじゃないんだな」っていうのは正に、って感じです。
・RADWIMPS
ここまで書いてきた通り腐れ人間なので「君の名は。」に対してあまり良い印象を持てませんでしたが一つ手放しに褒めるなら主題歌を担当したRADWIMPSです。
新海監督がファンだったということから実現したらしい今回の楽曲提供ですが、「前前前世」をはじめとした「バンプオブチキンみたいな」楽曲群は中高生がメインの客層であるこの映画にバチコーンとハマっててすげー良かったと思う。誰も損をしないキレイなあり方でした。
とりあえずこんなんでいいや。書いててなんかスッキリした。
あーあ。