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19.かっこよく老いたい

今朝、バス停でたまたま見かけたグッチの広告に、目を奪われた。

画像はグッチ公式Twitterより

いや、かっこよすぎ

ちょっと昔の音楽が好きな人なら、すぐにブロンディ(のボーカルのデビー・ハリー)だとわかる。

↑ むかしのブロンディ。
この曲は、数年前にiPhoneのCMに使われていたから、聞いたことある方も多いはず。

ちょっとつり上がり気味の眉だったり、濃いめの口紅だったり、特徴をうまく残しつつ、すごくかっこよく老けている。
ハイブランド品なんて全く縁のない人生を送ってきたが、こんなかっこいいおばあさんになれるなら、このグッチのバッグ欲しくなっちゃう。

(↑  ちなみに、グッチには元々「ブロンディ」という型のバッグがあるらしく、これはその70年代の「ブロンディ」を再解釈した新作のキャンペーンらしい。
デビー・ハリーのバンド、ブロンディが活躍したのも70年代だし、よく考えられた広告)

かっこよく老けるってなんだろう。

歳をとることの魅力

筆者は幼稚園児のころ、将来の夢は「定年」、と答えて大人たちに笑われたことがある。

祖父母に、なんで働かなくても幸せそうなの、と聞いたら、「もう定年だからだよ」と説明されたから。

そんなに幼いころから働くのが嫌だったのかよ、という話は置いておいて、
歳をとった人に、筆者は昔からなんとなく、若者にはないなにかを見ていたのかもしれない、と今になって思う。

世間で「老人」「高齢者」と呼ばれるような年代の方がたは、なんだか毎日が充実してそうなのだ。

見た目のはなし

海外旅行中にテレビを見ていつも驚くのは、ニュースキャスターが若い男女じゃないことだ。

いつも蓮舫さんみたいだなあと思うBBCのアナウンサー(右)

日本でテレビをつけると、どんな番組にも、モデルか俳優と見紛うような若い美男美女が出ている。
そう、アナウンサーだ。

なんで日本のテレビ局って、表に出てくるのは若くて美しい人しかいないんだろう
これもいつかブログのテーマにしようと思っているが、別に日本下げをしたいわけではない。
若くて美しい人がテレビに出れば出るほど、若い人はルッキズムに縛られていくと感じるからだ。

そりゃ誰だって、できることなら、いつまでも若く美しい(Young and Beautiful)姿でいたい。

Will you still love me, when I'm no longer young and beautiful?
私が若さや美しさを失っても、変わらず私を愛してくれる?

Lana Del Rey - Young and Beautiful 歌詞より

この手の話になると、脱毛もダイエットも化粧もしなきゃいけない女性って大変だよね、みたいな流れになるが、筆者はむしろ男性の方が大変なんじゃないかな、と感じる。 

男性は化粧やファッション、髪型で「盛れ」ない分、もとを磨かないといけない。
イケメンの条件とされがちな高身長なんてほとんど生まれつきだし、筋肉だって一朝一夕では手に入らない。
ちょっとでも地味な服装をしたり、メガネをかけたりすると、「チー牛(チーズ牛丼を食べてそうな陰キャの蔑称)」なんて揶揄されてしまうし。

話を戻すと、高齢者は若者に比べ、圧倒的に「こうあるべき」というステレオタイプを押し付けられていない気がする。

電車や観光地で、すごくカラフルで華やかな服をきたご老人を見かけたことはないだろうか。
若者の服は流行りがあるし、加えて今は黒がトレンドなのか、みんなやたら黒を着ているように見える。

お年寄りは、ある意味で世の流行りを超越した存在だ
SNSやその他ネット掲示板で、陰口が可視化されている状況に、普段から触れていないからかもしれない。

たとえ他にそんな格好をした人がいなくても、誰もお年寄りにダサいとは言わない。
流行なんて気にしなくても、何十年も生きる中でその人が生きやすいスタイルを自分自身の手で培っているので、外野の文句を受けつける隙がないのだ。

冒頭のデビー・ハリーだって、山型の眉や濃いめのリップは決して現代の流行ではないけれど、すごく本人に似合っているし、堂々としている。

中身のはなし

かなり前になるが、New York Timesのイスラエルのガザ地区攻撃についての論説で、「サムソンとデリラ」の物語を引用していたことに、筆者は腰を抜かしそうになった。

サムソンとデリラ、とは、旧約聖書に出てくる物語で、
ざっくり説明すると、

サムソンという大男のイスラエル人がいた。
彼は神から力を授けられて生まれており、その力は髪の毛に宿っていた。
ライオンを口から引き裂けるほどの怪力を持つサムソンは、ガザ地区奪還のためペリシテ人との戦いに参加し、数々の武功を立てていたが、
ある日、ペリシテ人のデリラという女性のハニートラップに引っかかり、自分の力が髪に宿っていることを教えてしまう。
寝ている間にデリラに髪を切られたサムソンは無力になってしまい、目を潰されて、ペリシテ人の奴隷となる。
かつての英雄のみじめな姿を嘲笑おうとペリシテ人が集まった祭りの日、神はサムソンにもう一度力を与える。
盲目のサムソンが力を振り絞ると、彼が縛り付けられていた神殿の柱は折れ、
たくさんのペリシテ人が彼もろとも死んだ。…

…という感じのお話なのだが、
この話の肝は、サムソンがガザ地区奪還のために戦っていた、というところ。
ちなみにパレスチナとは、「ペリシテ人の土地」という意味だ。

目覚めた瞬間、デリラの裏切りを知るサムソンの劇的な場面はたくさんの画家が描いている。これはヴァン・ダイク、サムソンの目の涙のせつなさ!
これはレンブラント。痛そう…
筆者のお気に入りはソロモン・ジョセフ・ソロモン。デリラのざまぁ!って顔の迫力がいい

論説自体は、そんなに大昔からイスラエル人とパレスチナ人は戦っていたんだから、今回の紛争も他国が口を出してさっさとまとまるほど簡単ではない、という内容だった気がする。

こんな神話を、さらっと現実の戦争の話題で引用できるなんて、どれだけ知識の引き出しが多いんだ…と筆者は感嘆した。

話がそれたが、ある程度歳をとった人の中には、「知の巨人」みたいな人がたまにいる。

筆者は、数年前に荒俣宏氏の展覧会に行ったとき、それを感じた。

インターネットもなかった時代に、一体どうやってここまで興味の範囲を広げたんだろう。
漫画、博物学、妖怪、オカルト、その全部に専門家並みに精通した人なんて、これから先出てくるのだろうか。

最近亡くなった松岡正剛氏も、「知の巨人」タイプだ。

情報や文化などの知的体系を横断的に結び付ける「編集工学」を提唱し、編集工学者を名乗った。日本文化や芸術、生物科学、システム工学など多分野にまたがる執筆活動を展開。博識の読書家としても知られ、古今東西の多様な本を取り上げる書評サイト「千夜千冊」の連載を2000年から続けた

時事ドットコム「松岡正剛さん死去、80歳 編集者、著述家」(最終閲覧: 2024.11.21.)

この「千夜千冊」というサイトがすさまじい。↓

↑  新書の論説文から『源氏物語』のような古典中の古典文学まで、なんでも読み込み、しかもそれぞれの書評の長さと内容の厚みといったら。

 六条院、わかりますか。溜息が出ますねえ。辰巳の方位の春の町には紫の上が、未申の秋の町には秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)が住み、丑寅にあてがわれた夏の町には花散里(はなちるさと)が、戌亥の冬の町には明石の君が住むという、なんとも按配のいい、すこぶる華やかな源氏絶頂期の結構です。

 日本の建築文化史にとって六条院というヴァーチャルな寄与は、もっともっと研究されていいものです。
 源融(みなもとのとおる)の河原院や東三条殿や土御門殿などをモデルにしたんだろうと思いますが、ざっと240メートル四方、5万7600平米という大きさ。なにしろ四町ぶんでした。巻25の「蛍」や巻33の「藤裏葉」に描写されていることですが、端午の節会では邸宅内の馬場で競射が、川の流れでは鵜飼ができたくらいです。

松岡正剛の千夜千冊「1569夜 『源氏物語』その1」(最終閲覧: 2024.11.21.)

物語の内容に入る前に、なんと日本の建築史が飛び出す
このあと、ワダ・エミやグレン・グールドまで登場させながら、『源氏物語』の芸術性を論じていくのだが、
まずそれらの例えにあかるくない筆者などは、読めば読むほど「もっと勉強しなくちゃ…」と己を恥じる。

これらの「知の巨人」たちは、一つひとつの知識がものすごく深く根付いている上、ちゃんと頭の中で体系的につながっている。
なんとなく関連情報をググって引用しつつ、日々のブログを紡いでいるような筆者も見習っていきたいが、いかんせん学びにかけた時間に大きな差がある。
若い人にいくら知識があっても「知の巨人」とは呼ばれないように、
成熟し、しっかりと根を張った知を手に入れられるのは、長生きと長年の勉強があってこそなのだろう(言い訳)。

とりあえず、長生きして勉強しよう

どんなに見た目がよくたって、どんなに博識だったって、歳を重ねた人特有の輝きは若いうちには手に入らない。
でも、準備することはできると思う。

今は、上に挙げたような方々が生きた時代とはまったく違う。
世界中が不安定だし、スマホとかネットとか闇バイトとか誘惑や落とし穴も多い。
1ヶ月本を読まない人だって、こんなに↓いるらしい。

見た目も中身もかっこいい老人になるには、
世の中のあらゆる変化にもみくちゃにされない、知という自分の芯を持つことが必要そうだ。
さて、明日もちゃんと本を読もう。

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