マラソンと重量上げは非人道的なのか



はじめに

ある書籍にこう書かれていた。

私はマラソンや重量上げなど、未開な時代の人間生活を懐かしむような競技を、かなり嫌いになったのは、アフリカの生活を見たからだ。体に悪いことはするな、とスポーツ界はどうして言わないのだろう。重量上げも、マラソンも、私から見ると寿命を縮める競技で、スポーツ界はどうしてこういう非人道的なことを見逃しているのだろう、と不思議に思うのだ。

人間にとって成熟とは何か 曽野綾子


世界各国で行われるマラソン、重量上げに対し、いわゆる発展途上国ではマラソンや重量上げに関連する行為を労働として捉え、あくまで人間が生きる為にやらなければならない作業であり、仕方なく義務として行っている。水汲みは水という重量を抱え、それを遠くの自宅まで運ぶというマラソンに匹敵する程の労働を、妥協且つ仕事として取り組む。それを行わなければ自分たちが死んでしまう恐れがあるからだ。著者はまた、フォークリフトは人間が重いものを持ち上げることを、嫌な仕事だと覚ったから、歩いたり走ったりして運ばねばならないことは困難で過酷な作業だから、自動車やトラックができた。重量上げや長距離を走ることは、決して体にいいことではない、と述べ、その意見に強い好奇心を抱いたのが経緯である。

著書では述べられていないが、物資に恵まれ栄養失調で死ぬことのない先進国では、途上国で行う労働を、スポーツの一種として民衆の娯楽に充てられている。この先進国と途上国の格差による認識の違いが、マラソンと重量上げを非人道的だという倫理観を吐露させかねない、狂信と喩えられる程競技に奔走し、体の一部を壊してまでも何故取り組むのか、という批判材料も私の中から出てきた。その点も考慮したい。

非人道的の意義

まず非人道的とはどういうことかを再確認しなければならない。大まかには、人間が行うもしくは受ける行為とは思えない酷いありさま、と記され、適用範囲は、広範囲に及ぶ破壊をもたらす戦争やテロリズム、人としての尊厳を崩壊させる貧困等を看過すること、または人を人とも思わないような拉致問題に適用されるが、本人にとって道徳的に必ずしも許されざることではない場合もみられる。と記されている。
この点から非人道的を、

  • 人の尊厳を崩壊させる行為(戦争やテロリズムなど)

  • 人の尊厳を崩壊させる貧困等を看過すること

  • 本人にとって道徳的に許されない物事

の3つから、マラソン等の競技が非人道的か判断してゆく。1つ目は確実に該当しないとして、下の2つに焦点を当てる。著者の見解では3つ目が該当し、私の見解は2つ目が該当している。

途上国の人々までは想定していない

視野を世界にまで広げれば、労働として行っている国がある傍でそれを余興として行う国があり、その点に着目すれば確かに不条理だと言えるかもしれない。しかし、運営はただ余興として行っているワケではなく、人間の身体能力の可能性を示す代理人を募る目的と、開催地域の経済、スポンサー企業、国内外の消費を活性化させる別の目的を踏まえて運営しており、そこに途上国からの労働を目的として行う人々の背景は想定されていない。スポンサーが資金を費やして自社の宣伝を行い、観客が会場へ足を運ぶことで会場周辺の消費が活発になり、選手の目的と観客の目的が合致することで会場や画面の人々を沸かせ、選手の印象を好意的なものへと固める。あくまでビジネス且つ娯楽として行われる競技活動であるため、その点に途上国での暮らしは考慮されない。もし開催による利益の一部を途上国への医療、食糧資金に充てられ、それが適切に活用されるならとても非人道的とは一概に言い難いが、これは娯楽という観点から私が想起した非人道的と判断した意見への応答であり、著者は過度な運動という個人に着目している。

非人道的とした場合の疑念

体に悪い、寿命を縮めるという条件から、仮にマラソン等を非人道的だとすると、未開な時代に沿ったあらゆる陸上競技、スポーツ、肉体美のために食事を制限するボディビル、国の伝統行事である相撲でさえも非人道的な競技に該当するだろう。人道に反するなら当然これらは競技として扱うことを禁止され、それに伴い大会等も縮小、廃止される。関係者から猛反発を喰らうのは目に見えるだろう。
それも当然、関係者らは競技が寿命を縮めるなどとは発想すらしていない上に、(体に悪いと思うなら競技関係から退いているだろう。)競技として全霊を懸けて邁進している。自分の競技を非人道的だとは思いもしないし、体に悪いといっても自らは競技に奔走することを既に受け入れていて、こちらに自らの信念を突きつけるだろう。その主張を受ければ、同じ人間として競技一筋に心血を注いでいる彼らに非人道的だと主張することはできない。
著者の見解では、体に悪いという意見に関して疑念を抱いた。マラソン等の陸上競技は、トレーニングにおいて体を動かし、(動かす時間や質が一般よりも圧倒的に長時間かつ強度であることは一旦無視する)専属の栄養士が食事を管理するため、怪我さえ深刻化しなければ、体に悪いどころかむしろ健康なのでは、とさえ感じられる。
しかし、相撲やボディビルには筆者の意見にも納得できる箇所もある。どちらも体を動かすものの、食生活は一般の常識を遥かに凌く。常人の何倍もの重量を維持している分、常に肉体への大きな負担は免れず、質量同士のぶつかり合いによる怪我は後を立たない。ボディビルにおいては、大会前の減量生活によりやつれた姿は見ていて心配してしまう。自分の肉体を傷つけようが本番に生命を賭して突き進む。この信念の矛先である運営に対し、体に悪いことを平気で行おうとする態度が非人道的であると呈するのも無理はない。物資が飽和する環境で、過剰に体を酷使し、何故長期的な生命の維持に反する行いをするのか。一日の生活すらままならない途上国と、ありふれた環境で能力を行使する裕福な各国。これこそ、環境の不条理から非人道的だと述べるべきではないのか。

瓦解の一言

余計なお世話だ。

その一言で、体に悪いだの途上国だのという上記の理屈は完全に消し飛ばしてしまう。競技を行う当事者は、該当するスポーツ界のルールの範囲内で実力を発揮するために活動している。それだけを目的に発奮している。その状況で突然非人道的だと糾弾する外野の糾弾は、お門違いも甚だしい。そもそも、途上国に支援を行っている団体は既にいるではないか。(需要に追いついているかはともかく)支援団体は支援対象に向けて活動する。競技者は競技の対象に向けて活動する。それでいいではないか。各々の役割が成立している状況であれば、無関係な人に余計な石を投げる理由がない。糾弾者はどこに石に投げているんだ?
世界の状況を視野に入れるなら、役割を補完している部分にも着目しなければならない。それでもし、支援団体が真っ当な活動を行なわず競技活動がもたらす代替熱狂の享楽に耽るならば、または未だ困窮している人々に焦点が当てられていないなら、その時にこそ非人道的だと提言するべきだろう。

体に悪い、寿命を縮めるという意見も、瓦解の一言の対象だ。体に悪いと感じられたのはどの状況を見た時なのかは不明だが、靭帯の損傷や骨折等の報道を幾度となく目にすれば、確かに寿命を縮める競技だと感じられるだろう。だが、競技者にとっては競技が自分の存在そのものであり、自分がそこにいなければならない理由がある。多くの人に支えられた、地域の方々に応援された等の自分だけではない行動意欲がそれだ。その為に、いくら怪我や骨折をしようとも、時間が経てばなんともなかったかのような素振りをして戻ってくる。その眼差しの前ではどのような理屈も崩壊し、ただ本人の競技への活力のみが残る。試しに、趣味に没頭している人間に何かと理由をつけて、「体に悪いことをするな」と言ってみるといい。適当にあしらわれるか、呆れて笑われるか、本気で怒ってくれるかで、その理由は一切通用しないだろう。行動意欲を掻き立てる対象は、自己と密接に作用している。何かに全力で取り組んだ事がある人間なら、相手の狭まった視点から、やめたほうがいいと言われることがどれだけ不快感を覚えるか知っているはずだ。それでやめられるならカルト宗教や戦争、異教徒という語彙は、現在も存在することがなかっただろう。
また現代では個人を尊重する思想が民意として台頭している。この思想を振りかざせば、何をしようが人の勝手として認識され、部外者からのあらゆる苦言も、個人の尊重を前に灰塵となり、消滅する。著者の見解も個人の自由として処理されるが、あまりに大胆且つこちらが驚愕する視点であるため、一定の拒絶反応も個人の尊重を前に乱立するだろう。(実際著書の感想では一定の批判もあった。)

倫理のグレーゾーン

しかし、一定の倫理の境界を超えたなら、体に悪い、寿命を縮めるという意見は、急激に説得力を増していく。過度な運動による致命的な怪我が相次ぎ、過度な減量により死者が続出するなどの事故が多発的に生じれば、運営側も制度の見直しを余儀なくされるだろう。生命維持への一定ラインを設定し、現在よりも過剰な活動は制限され、常に境界を超えることがないか外部機関が監視している。観客側からすれば、現在よりも確実に競技はつまらなくなるが、これも個人の尊重の一環として表明され、黙り込むか愚痴をこぼすしかない。ここまで大事になれば運営側から「体に悪いことをするな」と言ってくれるだろうが、そんな事態は滅多に起こり得ないだろうし、あったとしても数ある内の特殊な例として処理されてゆく。
どのみち、マラソンや重量上げを非人道的だという人はほとんどいないだろう。個人の自由を旗に掲げる民意が覆されない限り著者の見解は説得力を持ちえないし、それが支持されるということは、同時にスポーツ界の衰退を意味することになる。だがスポーツが世界中で活発に行われている以上、この拙文も休むに似た行為であることを自覚させられる。仮にスポーツ界から意見が発せられても、競技者としては問題にしないであろうし、当人を応援する方々も、多くが競技者の信念に賛同し、決して競技を非人道的だとは思わないだろう。
著者の見解への考察は述べたとして、もう一つの見解が残っていた。人の尊厳を崩壊させる貧困等を看過すること、という定義である。

世界の視野を看過するか、包括するか

どこまで範囲を広げるかが大きな問題となる。視野を競技内に限定するなら、そこに途上国の認識は存在しないため、体に悪いと明確に把握されない限り非人道的だとはいえない。世界の出来事を包括するなら、人の尊厳の危機である貧困や戦争が現在も行われている中で、遠くの地域では競技の観戦が大衆娯楽として執り行われている。確かに、この状況下では非人道的だという意見があってもおかしくないだろう。敢えて観客の娯楽を奪わず、非人道的だとも糾弾されない手段があるなら、上記で述べた通り、利益の一部を慈善団体へ寄付することで、競技の運営が経済活動のみの目的から、慈善事業という別の目的も付加され、利益と慈善を折衷させた双方に得のある経済活動を行うことができる。それを偽善というかどうかは判断を任せるが、少なくとも援助により救われる命があることは確かであり、寄付を行った運営や企業も評価を得ることができる。観客も自らの行為が間接的に慈善事業の援助に関与しているなら、非人道的の定義による娯楽一辺倒としての後ろめたさもなく競技の応援に集中できるだろう。もっとも、その行為には惻隠の情もなければならないのは言うまでもない。

それでも起こる不条理

もしもこの範囲を世界にまで広げた時、スポーツだけではないあるゆる娯楽産業、芸能活動にまで非人道的思想が包括されてしまう。これでは慈善事業が不条理を一時的に解消する手段が必須条件として強制的に寄付せざるを得ない状況となるが、この点は体に悪いことをするなという記事の趣旨に当てはまらない。よって、今回はスポーツのみから不条理を捉えていく。
環境の違い。ただそれだけの条件で身分や能力に圧倒的に差が開く。現地でアフリカの生活を見た著者は、水汲みによる運動をやらなければならない労働として行う途上国と、恵まれた環境で競技のために意気揚々と行う発展した国々の享楽的な過剰運動に対し、非人道的だと見解を述べたと思われる。また、ここにも環境の違いによる格差がはっきり示しだされ、満足のいく食事ができない人間と、有り余る食事から最良の食材を選ぶ人間。競技が開催されたとき、最適な運動と最良の食事によって魅せつけられるパフォーマンスは、アフリカの生活を見てきた著者には見るに堪えない瞬間だったのだろう。世界を視野に入れた時、そこにはどうしようもない人間の格差がいやでも目に入ってくる。

スポーツ界は無意識に現実の不条理と人間の可能性という矛盾を抱えている。それを世界を包括した視点として表面を覆い被せ、共同体の現実を明瞭にさせた灯が著者の見解である。「そのようなもの」だとこれまで発想すらしなかったので、著者の意表を突いた達見には驚かされたが、これこそ「違い」という現実を見てきた著者だからこそ述べられた感想なのだろう。

私は個人の自由として、この件には特に感想はないが、一つあるとするなら、やるからには全力で、且つ周囲を巻き込むくらいの思慮と規模で行ってほしい。ただそれだけを望みたい。


いいなと思ったら応援しよう!