単純論仮説 はじめに
血潮が散乱していたとしよう。偶然現場に居合わせた人間は、どのような反応をするのだろうか。
行動自体は概ね予測できる。目前の惨状に呆然と立ち尽くすか、パニック症状を起こすか、救急車、警察に通報するか、携帯で写真を収めるか、あるいはその場から逃げてしまうかもしれない。行動に対しては物理法則が働くため、人間の起こす行動には限りがある。人間の意思によって血潮が一瞬で消滅したり、時間を巻き戻して血潮が発生した根本的な原因を無かった事にさせる超常的現象は、現在の人間に生じさせられる可能性は無い。
では心理面はどうだろう。通報したという行動に違いは見られない。しかし、パニック症状と平常心のせめぎ合いに苛まれながら必死に搾り出した義務を全うすべく携帯の操作を断行する人と、公園の風景と遜色ない目つきで徐に携帯を取り出す人では、その心情は圧倒的に異なる。この部分に、人間心理の移行を可視化するべく、単純論という仮説を付記させていただく。
単純論とは、出生から現在までに培われた意識によって、単調化、純化の二つの心理状態を行き来し、二つの状態の割合の偏重傾向により、心理全般に影響する思想、行動が変化する仕組みの名称である。
単純論は、日々の習慣により定着した思想、行動が単調、純化または中庸のどこに定着しているかに焦点を当てており、客観的に物事を捉える科学的分析ではなく、体験に基づく主観的分析を核心に据えている。
というのも、人間の心理を隅々まで客観的且つ完璧に把握する技術は未だ聞いたことがないうえ、人間の心理は極めて可塑性が高く、客観的に現象を捉える物理現象から心理状態の移り行きを大まかに予測することはできるかもしれないが、心が千差万別である以上、共通する法則に人間の心理は当てはまらないだろう。客観性を未だ証明できていないものに科学的な分析を行うのはナンセンスだと苦言を呈せざるを得ない。
人間心理の限度が不明であるため、現象に対する精神に作用された要因を対象の過去の出来事の反映から洗いざらい解読するのはあまりに膨大過ぎる。そのため、単純論は心理の器の様な役割を果たし、器に自身の思想体験を注ぐ事で単調、純化、中庸傾向の幅を判別する仮説といえる。
そこを加味すれば単純論の中身は空に等しい。世の中の様々な行為から思想の単純傾向を多くの状況を踏まえて考察しつつ、生じた行為からいかに単調、または純化傾向へと派生しやすいかを見極め、その都度発生した行為を単純化に当てはめて拡張させてゆく論理となる。終わりの見えないパズルゲームをコツコツと繰り返す様なものだと筆者は形容している。