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単純論 完全な純化 生贄の例と死
単調化が自分、それ以外と二分させる心理であるのに対し、純化は自分とその他が共に合一した捉え方を行う心理であるといえる。したがって完全な純化とは、自分と他者の垣根が存在しない、違いのない、融合した形態心理である。
生贄による瞬間性の完全な純化
集団内で崇拝対象に恵みへの感謝を示す儀式の際、感謝の印として代表の人間が生贄として選ばれる。その代表に進んで立候補し、儀式により死を受け入れている心境を獲得した人間は、瞬間的に完全に純化しているといえるだろう。
自分の犠牲により崇拝対象への恵みが還元され、且つ集団の更なる繁栄が約束される。そう教えられる/刷り込まれる事で[死の先すらも見据えた視点]と[自分と集団の一体感]、死も厭わない心境で開かれた[儀式の機会と執行]、これらによって生きていながら瞬間的に完全に純化した心理を獲得することができる。
尚進んで立候補せず、強制的に生贄に選ばれた人間は、瞬間的に完全に純化しない確率が高いと捉えている。
そのような人間に表出されるのは[苦痛や死への恐怖][課された宿命に対する憤慨]、[死後の行き先への不安]が思考感情の大多数を占め、僅かに親族の心配が含まれるというところか。その意識には自分が死ぬ事による利点がない。崇拝対象の生贄に自分が選ばれる取り決めには理不尽な要素しか存在せず、肉体の痛みや取り決めへの恨みが募ったまま生涯を終える。
直接生贄に聞けるはずもないので憶測でしか述べることはできないが、生存本能に従えば負の感情が思想の大半を占めるだろう。しかし強制的に生贄に選ばれたとしても、その死を受け入れられる下地、心情さえ整えていれば瞬間的に完全な純化に至る事が可能だろう。
これに反し、完全な単調化では幾つかの段階を踏まなければならない過程がどうしても必要だ。過程を無視して中庸意識を有した人間が完全な単調意識を持つのは困難である。この点は初めて人の死体を見た場合、複雑な人間として見てきた人が目の前ではモノとして現れている状況を瞬時に受け入れる事ができない事にも現れている。
完全な純化が自分とその他の垣根がない事だとすると、自分の肉体が消滅する死に関しても、物理的ではあるが完全な純化に当てはまる。分解された後の肉体は、ただ空気中の塵に同化し、あらゆる動物の体内や無機物、食べ物にまで姿形を変えて微量に混じっている。そこに意思があるかどうかまでは分からないが、仮に意思がないとすると自他の垣根は存在しない事になるため、死は人間が完全に純化する必然的な道のりといえる。
この死による完全な純化への考察は、またの機会に譲りたい。
生きているうちの完全純化は稀だが、どのみち死によって完全な純化は成されるのである。