単純論 単調と純化の間


単調化意識にも純化意識にも然程傾かない中間点を中庸意識と呼んでいる。ときに単調化意識に傾き、時に純化意識へと移行してゆく。世の中の大半の人間に該当する意識である。厳密には高単調化意識、高純化意識も中庸意識の一つであると形容できるのだが、日常のあらゆる意識の全体的な割合が単調化、純化に偏る傾向が強いため、敢えて二つに分類した次第である。
 中庸意識は極めて人間的であると感じられる。普段は思想が狭窄される単調化視点に陥らず、また他者の垣根が薄い純化視点にも至ることがない。しかし、一度きっかけが発生し、それが相手に負があれば一時的に単調的な視点へと移り、自身の視野の中で困難に直面した人間がいれば、できる限りの援助を行う純化的な視点に至る。この移り行きにこそ大多数の人生の喜怒哀楽が垣間見れ、有史以来韻を踏んで伝えられた人間の本質が凝縮されている。
 中庸意識は社会規範やその時代の流行、主義思想によって大きく変貌する。中庸意識が社会規範等を作り替えているというよりは、時代毎の単調化・純化・中庸の中でで最も主流な意識が無意識的に規範に採用される仕組みであり、同じ国であってもその都度の意識によって物事の捉え方が全く違う。
 卑近な喩えだと現在の合理資本主義が台頭するだろう。各企業はいかにコストの消費を抑えていかに利益を獲得するかに心血を注ぎ、また消費者は自身の要求を満たすような製品・サービスの提供を企業に求めている。企業による合理思想は個人間にまで浸透し、短時間の労力で最大限の享楽を享受した代表的な象徴を神輿に担ぎ、その後に追いつかんばかりに最短で最大の利益を得られるよう奔走してゆく。一寸先が見えない未来に対し、僅かな時間でありったけの物を取り込み、荷台つぎ込み未来に備える。こうした考え方が現在の主流思想であると筆者は見ている。


 中庸意識は社会活動に一番馴染みやすく、また多くの人々に定着しやすい意識という特徴がある。一時的な単調視点であれば、標的にされた犠牲者を介して他者と綿密な関係を構築でき、一時的な純化視点により困った人物が目に止まれば助け舟を出すことも躊躇うことはない。狭窄した高単調化意識では他者との軋轢が強く、区切りのない高純化意識は時代の主流による人々の敬意や敵意の荒波に幾度となく晒されてきた。作品に於いても高純化視点による達観した作品より、中庸意識による一時的な不満や悩みを表現した作品の方が、多くの人々から共感や評価を得られるだろう。もちろん技術も作品の評価に含まれるが、鑑賞者の心情に投影しやすい思想も重要といえる。
 しかし中庸意識は強烈な出来事に対して脆い。それによっては、高単調化にも高純化にも一気に傾きかねない。この点は単純論の概要が完成次第述べていきたい。

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