単純論 純化

 純化とは、単調化に含まれていた自己利益を獲得しようとする自分の存在が希薄と化してゆく心理状態である。すなわち利益が単調化の自己中心から他者を交えた自他中心を目的とした、単調化とは正反対の意識といえる。
 単調化に示された自他の領域の溝が純化には少ないという特徴がある。この溝というのは、普段分類される人間と動物、日本人と外国人、性別や思想の違いに至るまでのあらゆる垣根であり、純化思想では自分と同じくあらゆる特徴を持つ人間の一人として認識するため、過剰に自他を隔てる事なく接することができる。
 日常的な行動の中だと、純粋を基としたお裾分けや相手への譲り合い、苛まれている人物への惻隠の情や災害時の無償の手伝い、生活必需品の支援などの見返りを求めない純粋な他者奉仕に純化の性質が見られる。この行為は仲の良い近隣住民とのやりとりでも確認される。自身の利益を分配することで周囲と和合する思想は単調化の自己利益の占有とは大きく異なる。外的に賜る賞賛や富に価値を置かず、自身の内面から生み出される理想像に適う思想行動に価値があると捉えているのだろう。因みに、単純論では外的な賞賛の追求は単調化に形容している。複雑極まりない内面による固有名詞の成熟よりも、共通的な単語で分かりやすい名詞による賞賛の方が自身に価値があることを認識しやすく、高単調化視点の人間は意識的であれ無意識的であれその点を重視し、外的な賞賛を求めるが、皮肉な事に世の中の所謂偉人、成功者と呼ばれている人物は、大多数が他者中心に奉仕した純化思想に基づいた行動を選択しており、外的な賞賛を目的に成功、偉人と称された人物がいたという情報は未だ見たことも聞いたこともない。偶然世間から認められて一時的にな富や名声を得たとしても、高単調化思想の人間であれば名声は長くは続かないだろう。高純化思想の人間は名声の鍵を握るのは他者である事を弁えているので自ずと他者を敬い、名声も必然的に長続きするのである。
 思想行動の意欲を他者に据えているため、高単調化意識よりも高純化意識の人間の方が多くの人に好かれるのは確実である。対象の人間像を何一つ知らない第三者からすれば、自己中心な人間よりも集団の為に動いている人間の方が好ましいだろう。例外があるとするなら単調化意識が偶然好まれる性質を有していたか、長年の付き合いにより欠点が薄まった状態でいるか、若しくは欠点が長所をより引き立たせ、完璧に近い高純化意識の人間より好かれるかのいずれかだろう。たとえ単調化意識の人間の方を好いたとしても高純化意識の人間には何の妬みもないため気にする事はない。妬みなどの負の感情は単調化意識の特権である。
 

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