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記憶の迷宮

あ!
のりこんだ電車のドアが閉まった瞬間
忘れものに気がついた
えらいことをしてしまったものだ
次の停車駅で降りて引き返すのでは
とてもじゃないが時間が足りない
忘れてはならないと思って
わざわざ机のうえにおいておいたのに

私は置きっぱなしにされている忘れ物の
立派なマホガニーの机のうえにある姿を想像して
はたと首をかしげた
我が家にそんな立派なマホガニー材の机などないはずだ
しかしいくら思い出しても
それはやっぱりマホガニーの机のうえにあった

私はそんなはずはないと思って
懸命に思いだそうとした
重厚な机の周囲には天井までとどく立派な書棚があって
いかにも高価そうな装丁の本がぎっしりと並んでいた
いつか夢見た稀覯本さえ
いくつも発見できた

私はそんなはずはないと思って
書斎を出た
やわらかい絨毯が敷き詰められた廊下の
壁にかかった小さい肖像画
窓の外はあいにくの曇りで
見えるのは広大な庭ばかり
敷地の外の景色は確認できなかった

その屋敷は見たことのない構造をしていた
入り口と出口が同じで
どこにも続かない階段があったり
どの部屋にも続かないドアがあった
また、どうやっても同じ部屋に戻ることができなかった
同じ屋敷にありながら
そのころ私はすでに忘れ物のもとへ戻ることを諦めていた

私は豪奢なソファに腰掛けて考えた
ここはどこだろうか?
さっき見たはずのマホガニーのうえの忘れ物は
やはり親密な雰囲気を放っていたが
それ以外のすべてが私を場違いな気分にさせた

私は電車に揺られながら
ひとり記憶の迷宮のなかで
ぼんやりと考えあぐねていた

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