カニの冒険
鉄黒にてりてりとする表面を
虹色の皮膜がおおって
あぶらの海は今日も凪いでいた
前回波だってからもう40時間が経とうとしている
水面の動きはだんだんと間遠になっていた
やがて死のように完全な平静を得ることだろう
その海底面をカニが歩いていた
あぶらの執拗な抵抗をうけながらも
焦らず気負わず
長い手足をゆっくり操っていた
ほんの数メートル先も見えない海底
するとコツリと爪先に堅い感触
カニがその全貌を見ることは決してないが
それはかつて威容をほこった豪華客船で
急に起伏と障害物に満ちた環境のなかを
カニはしかしそれまでと同様の落ち着きでゆっくりと進んだ
40年が過ぎた頃、ようやく客船の端に辿り着き
あると思ってなかった足場にだまされて
カニはゆっくりマストの端から落ちていく
カニは再び歩き始めた
また100年が過ぎたころ
今度はやわらかい感触
なるほどこれはサルトルだ
さすがにカニでもすぐにわかった
ジャン=ポールの眼底に爪をひっかけて頭頂部にのぼり
ボーヴォワールへの手紙を盗み見して
それからカニは書斎を出た
また100年が過ぎた
こんどは宇宙背景放射が石ころに混じって落ちているのに気がついた
カニは爪先でひょいとつまみ上げて
ぽいと投げてみた
するとそいつはどす黒い海のなかで
瞬く間に一本の無限に長い棒になって
輝きを放ち
あ
夜明けだ
とカニは錯覚した
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?