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推しの子に、好きな人がいる。「有馬かな」。好きを言葉で語れること


きっかけについて


「最近、好きな人とかいる?」

僕の頭には「有馬かな」が浮かんでしまう。僕は正直にしか口に出せない。嘘は苦手。

「いるっちゃいるけど…あの、有馬かな。推しの子に出てくる子。」

「どこが好きなの?」

「ん…かわいいし、あとは…」

僕の頭には、有馬かなのイメージで一杯だった。


僕について


僕の頭の中に湧いてくるものは、具体的でリアルな映像であることがほとんどだ。

海外旅行をした時に見た絶景。

最近通っているカフェのガラス窓から見える植木の緑と移動する車。さらに肌に感じた空気と風の現れ方もイメージする。

すると頭の中に具体的でリアルな映像ができあがる。


そして、僕はそういう方法で記憶というものが行われる。


幼少期の思い出から、今日の午前中に覚えた勉強のこと。数秒前のカフェの店員とした会話風景まで。


何から何まで映像で処理される。

そこに目的は意識されていないし、意味も後から付いてくることが多い。それが自分にとっての自然状態であり、普段の癖なのだと思う。


有馬かなについて


そんな訳で僕が好きな「有馬かな」という人物については、膨大な数の映像が頭に焼き付いている。

その映像をイメージすると、それは僕の内側まで繋がっている。

ぼんやりと、現実にいる意識から離れる。
必要だからと向き合っていた一切は、もう画面の向こう側に移動している。

そして、映像の中に潜り込んだ僕はそこにいる彼女の表情や仕草を描き直し、その先で繋っている感情に思いを馳せる。その間も僕のいた世界は形を変えずに、けれど硬かったはずの色が少し柔かくなる。
有馬かなが好きということを確かめるとしたら、それを表す答えは記憶された映像の数と確かな幸福感の存在だと思う。


「だってかわいいし、あとは…」

あとは、有馬かなの苦労人生への共感


彼女の映像を思い浮かべるとき、そこに現れる有馬かなはだいたいをしている時のものだ。恋をしているときの有馬かなは可愛いから、そうなる。

ただ、僕と彼女の距離をもっと正確に語るとすれば、恋をしていない有馬かなの中にも文脈がある。有馬かなは子役時代の一大ブームが去ってから芸能界で勢いを無くし、孤独と苦労を生きている。

一日一日は平坦な道なのに、進む足の感触は泥の山を登るような重みと違和感。

母からは社会的評価でしか自分を見てくれず、売れなくなった彼女を置いて東京を去った。

おまけに、力むとすぐ口が悪くなる。
周りも一定の距離以上は近づきがたいのだろうか。彼女は弱いところを温める内側の居場所を持っていない。

彼女のその心境を、僕は少しだけ共有できる。

人生には、本当に何も無い時間がある。
でも、何も無いからといって動く足を止めることはできない。足を止めたら…その先は想像できない。うまく見えないという点に、恐怖がある。
そういう時間だ。

彼女は見えない島に辿り着くために、何年も一人で海を泳いでいる。
僕も最近船を降りて同じ海を泳ぎ始めた。


一方で、彼女は現実を生きる強さを獲得している。
彼女は売れなくなって以降も、決して諦めない。
小さな仕事を片っ端から引き受け、「作品のクオリティを保つための支え」としてその枠に自分を最適化させた。だから売れないまま芸能界に残ることができている。

ポイントは、最初から強かったわけではないというところだ。(「ネガティブはダメだ」と自戒して不安を打ち止めるシーンは経験から強さを得ていることを感じる)


苦労の人生に灯る、「恋」という希望

そんな彼女が恋をするとき、有馬かなは、ただ純粋に実を結ぶか上手くいかないかの世界で生きる。

ある時は小さくなって悲しむし、

またある時は目を内側から輝かせて喜ぶ。

聞き方が不器用なことを自覚しつつも相手の好意を探ろうとする。

口が悪いのは変わらないが一度だけ反省をした。

僕は、恋をする彼女の感情表現は、ある種の解放の意味を持っていると思う。そのとき彼女のいる世界も色を柔らかくしているはずだから。

そして、その瞬間に、滲みの無い純色の幸せが見えるとき、映像として僕の記憶の中にそれが加わり、一部分は自分のものとして重なっている。


それは有馬かなと僕が同じ世界に立っている瞬間だとも思う。

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