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「令和ではあり得ない!私が接した(ふてほど教師)」

今年の流行語に触れるのも今更……という時期ではあるが、私の中では未だに「ふてほど」がブームである。今回の選考結果については巷やネットでいろいろと賛否両論があるようだが、アタリのドラマであることは間違いないし、躍起になってケチをつけることでもないのではないか。

私自身の人生を振り返っても、特に学校という空間においてはいわゆる「ふてほど教師」が多い。

脳性麻痺当事者である私は小学校から高校まで地域の学校に通い、中学校まではいわゆる特別支援学級に在籍していた。ノーマライゼーションやインクルーシブ教育が充分に浸透していない時代にあって、両親が校内で介助することなく、専任の担当教師をつけてもらいつつ高校まで無事に卒業できたことは幸運だったと思う。

小学校の頃、ハナヨ先生(仮名)という養護教諭がいた。養護教諭というと堅苦しい言い方になるが、要するに「保健室の先生」である。

保健室の先生というと美人で、誰にでも優しいというイメージがあるかもしれないが、それは学園ドラマの中だけの話。

ハナヨ先生はそうした理想像とはいささかかけ離れた(失礼!)、年かさで口うるさくて、子どもにはいささか近寄りがたい存在だった。たいていのクラスメイトからはいわゆる「怖い先生」として恐れられていて、保健室の仕事がない昼休みなどにはぶつぶつと小言を呟き、落ちている小さなゴミを拾いながら、小柄な体でせかせかと廊下を歩いている印象が今でも強く残っている。

本気で怒るとただでさえ高い声が上ずり、甲高いキンキン声になるあたりもクセの強さを際立たせていた。

そんなハナヨ先生だが、私のことはことのほか目をかけてくれていたらしく、廊下などですれ違うと、「○○君、今日も元気か?」、「もっと声出しなさいよ!」などとコミュニケーションを取ってくれることが多かった。

私としてもハナヨ先生の「パブリックイメージ」は何となくわかっていたものの、顔を合わせればわりとフランクに声をかけてくれるし、むやみやたらに怒鳴りつけるような人ではなかったから、どちらかといえば「好きな先生」の1人として接していた。

しかし……小学校5年のある出来事によって、ハナヨ先生のイメージがガラリと変わってしまったのである。

2学期はじめの身体測定。私の通っていた小学校では当時、学期ごとに身体測定が行われることになっていた。さらに、身体測定の前にはハナヨ先生による、ありがたーい「性教育の授業」が行われるのが決まりだった。

そう広くもない保健室に1クラス分、20人余りが集められ、肩が触れ合う距離で「性についての話」を聞かされるのである。

授業といっても実際には長くても15分ほどなのだが、小学校高学年ともなると思春期の入り口にさしかかっており、男女についての話を集団で聞くのはいささか気恥ずかしくもあった。

その日は「妊娠の成り立ち」ということで、「どうすれば子供ができるか」が中心の授業だった。

性交や射精、といったワードがハナヨ先生の口から発せられる度、クラス一の優等生で学級委員の男子が顔を体育座りの膝の間に埋め、頬を赤らめていたのを今でも覚えている。

気恥ずかしい性教育を何とかやり過ごし、身体測定もひと通り終わり、保健室を出ようとする私をハナヨ先生が呼び止めて、言った。

「○○君だけちょっと残ってくれる?」

恐怖以外の何物でもなかった。ハナヨ先生に怒られる自覚は1ミリもなかったが、どんな叱責が待っているのだろうと、大げさではなく震え上がったのである。

保健室から他のクラスメイトがいなくなったのを見計らうと、ハナヨ先生は車椅子の目線まで屈み込んで、私の股間を軽くたたきながら、言った。

「〇〇君はね、人一倍頑張らなきゃダメよ。人の何倍も頑張っていい奥さん見つけて、この立派なチ〇〇(自主規制)でたくさん赤ちゃん作らなきゃね。さっき勉強したばかりでしょ?チ○○がなきゃ赤ちゃんはできないんだから。〇〇君、立派なチ○○持ってるんでしょ?チ○○の使い方、もうわかるでしょ?だったら頑張らなきゃ!ねっ、わかった?」

深く語りかけ、諭すような口調だった。

正直、その場から1秒でも早く逃げ出したい気分だった。小学5年ともなれば子供の作り方もある程度はわかっていたのだが、当時の自分にとっては実感がなさすぎて、「何を言っているんだろう、このオバサンは」という気持ちのほうが強かった。

何よりも、チ〇〇と言う度にハナヨ先生が私の股間を軽くたたくので(もちろんズボンの上からである)、何とも言えない、いたたまれない気分が込み上げたのをはっきりと覚えている。

今でも、不思議で仕方がない。

思春期の入り口にさしかかっているとはいえ、まだ小学5年の子どもに「将来は父親になれ!」と言い聞かせて、何の意味があるというのだろう。

そもそも、結婚するかどうかは私自身の問題である。仮に結婚したとしても子どもをつくるかどうか……それもまた、言うまでもなく私自身の決断に委ねられるべき問題のはずだ。

もちろん、小学5年の知識と語彙力ではそこまで理屈っぽく考えてはいなかったものの、当時の頭脳でも何となく見えないレールを目の前に敷かれているような気がして、違和感を覚えたのは記憶に残っている。

一方で、当時は今よりもさらに「障害者が結婚して子どもを持つ」ことへのハードルが高く、重度障害者ほど生涯独身を通すのが当たり前だった。

ハナヨ先生としてはそのあたりの背景を知っていて、私にせめてものエールを送るつもりだったのかもしれない。

ただ、話すタイミングといい、直接的な言葉選びといい、当時の私としても疑問のほうが大きく、令和基準では確実に「ふてほど」認定されてしまうだろう。

私が今、30代後半になっても未だに結婚願望がなく、非モテ人生を歩んでいるのはハナヨ先生の言葉があったから……というのはもちろん、ただの言い訳である。

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