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弱さを映す暴言

 日頃何気なく、インターネット上に投稿される批判や誹謗中傷を目にしている。匿名による無責任で乱雑なものだと一線を引いているつもりが、いつの間にか思考回路に侵食し、無数の罠を張っているかのような感覚があることにある時ふと気がついた。

 誰かに理解してもらいたい。他人の言葉に頼りたくなったときが好機とばかりに罠は仕掛けられている。自分の考えに対し、SNSでよく見かけるような”言い負かしてやろう”という趣旨の反論が頭の中で自動生成され、攻撃を仕掛けてくる。こんな風に考えている間にも、”被害妄想が強すぎる”なんてコメントを付けられそうだ、などと思い浮かべてしまい、症状の深刻さを思い知るのである。

 敵の正体を暴こうと、軽視してきた画面上の言葉たちと今一度対峙してみる。一見デジタル化され無機質のようではあるが、その向こう側に人間らしい弱さが見えてくるではないか。個人主義的な生き方が目立つ現代においても、人々はインターネット上で他者との関わりを求めている。実生活上で居場所を失った言葉の亡霊が承認欲求を満たすため、罠を仕掛け合っているように思えるのだ。

 自身の本来の姿をインターネット上で完全に示すことはできない。そこで受ける批判や非難は全て受け止める必要はないだろう。実体のない罠の仕掛けを紐解き、自分の本当の心の声に焦点を戻しながらも、インターネットに溢れる言葉たちもまた、誰かの心の声の仮の姿であることを想う。それらを取るに足りないものだと切り捨てるだけでは、この不毛な弁論大会を抜け出すことはできないだろう。名無しで傷つけ合う言葉の持ち主は私たちが生きる社会の中に存在している。どこかで出会い、語り合いたいと願う。自分や他者を認めるということが難しくも、切望して止まないことであるからだ。


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