見出し画像

ベランダで全裸になって愛を叫ぶ

※諸事情により現金が半分くらい無くなってしまったので過去記事をnoteの創作大賞エッセイ部門に出すために、一部改稿の上、再投稿します。お許しください。

1.
 あるとき、先輩の部屋でダラダラとしていると外から奇声が聞こえてきた。
 外で喧嘩でも起きたのかとベランダへ出てみると、男の怒鳴り声がする。
 内容はひっきりなしに行き交う車の走行音にかき消されて、はっきりとは聞き取れないが、「ボケェ!」とは言っている。
 男の絶叫を聞いてるうちに気づいたが、叫んでいるのは一人だ。喧嘩ではない。そして男は近くにいるが、姿は見えない。
 部屋の中に戻り、先輩に詳細を伺うも、その返事は要領を得ない。
 仕方がないので自分で外に出て確かめてみることにした。一応自衛のためにスマートフォンで録音はしておく。
 そうしてマンションの外へ出ると、すぐに一階のベランダに立つ男の姿が目に飛び込んできた。男は顔を歪め、道路に向かって大声で怒鳴り散らしている。
 男に発見されないよう、即座に身を翻して、建物の陰に隠れる。
 なんてこった、叫んでいるのは、このマンションの住人じゃないか……。
 私が先輩の部屋にちょくちょくと遊びに通うようになって2〜3年くらいになるが、今の今までそんな声は聞いたことがなかった。
 先輩の部屋に戻り、ことの次第を問いただすと、少し前から一階の住人が叫びだすようになったらしい。
 元から住んでいた住人が最近になって発狂したのか、それとも新しく引っ越してきた住人が狂人だったのかは分からない。
 俺は先輩を哀れに思った。せっかく新築のマンションを借りて、悠々自適の生活を送っているのに、同じマンションに狂人が暮らしているなんて……。
 そしてマンションの他の住人、とくに狂人と同じ一階に暮らしている人々を哀れに思った。息を潜め、なるべく狂人を刺激しないように静かに過ごしているに違いない。
 また叫んでいる狂人をも哀れに思った。一人で狂気を抱え込むうちに、心のバランスを崩したのだろうか。プライベートでは奇声をあげることでストレスを発散し、せめて社会生活では理性を保つことができるように、自我のバランスをとっているのかもしれない。
 彼は一体何を叫んでいるのだろう? 何を抱え、世界に向かって何を訴えているのだろう?
 とても気になったが、小市民の私に狂人とコンタクトする勇気はなかった。スマートフォンに録音した音声を再生してみたが、男の声は入っていたものの、内容まではわからなかった。

2.
 男の叫び声はその後も、毎回先輩の部屋を訪れるたび、というほどではないが、高い頻度で聞こえてきた。長いときは30分くらいは声をあげているように感じた。正確には分からない。しかし、季節が変わり、年をまたぎ、そして私が男の叫び声を初めて耳にした時と同じ季節が巡っても、男はなお叫んでいた。
 そして先輩は確実に消耗していた。時折、「あ〜、バーサーカーがうるせえわ」というような愚痴がリアルタイムで送られてくることもあった。
 男が叫ぶ時間帯、日にちは不定期で、ときには朝から叫ぶこともあるらしい。朝から男の奇声を耳にしていたら、気分も落ち込むだろう。
 「誰かあいつを追い出してくれ……それか殺してくれ……」
 私の目の前で先輩は深刻な面持ちでつぶやいた。物騒な話だが、先輩に限らずこのマンションの全住人が同じ願いを抱いていたと思う。
 というか、狂人の存在を認識するようになって初めて気がついたが、このマンションの掲示板には騒音(「叫び声」「ドンドンというような音」)について住人に注意をうながす張り紙が貼ってあった。あれは、あの狂人を指していたのか。つまりマンションの管理会社もその事実を認知はしているが、一歩先の対策を講じることはできていないらしい。
 私は先輩に向かって言った。誰かがあいつを殺すより、あいつが誰かを殺すほうが先でしょうね。あと、あの狂人を追い出したところで、場所を変えて叫びつづけるだけで、根本的な解決にはならないんじゃないですかね。きっとああやって何かを罵倒しているようで、本当は「助けてくれ!」という心のSOSを発信しているんですよ。あいつに必要なのは、あいつをぎゅっと抱きしめて、「もういいんだよ」って言ってあげて、あいつの話を否定せずにとことん聞いてあげられる人なんじゃないですかね。一人で死ねと突き放したところで、あいつが世界と自分との間に感じている溝はどんどん深くなるばかりで、しまいにはその復讐として孤独な中年による無差別殺人につながっていくんでしょうねえ。あいつをぎゅっとして、「もういいんだよ」って言ってあげられるような、ホスピタリティに溢れた人材……例えば優しいおばあちゃんのような……そんなプロフェッショナルなおばあちゃんを派遣する専門機関があればいいのに。そりゃあ、あいつが自分で精神科の門を叩くべきではあるんでしょうけど。誰か一人でもあいつに手を差し伸べて、受け止められる人がいたら、あいつだって変われるんじゃないですか? というようなことをヘラヘラとまくしたてたら、先輩は呆れ果てた顔で何も言わなかった。きっと「お前がやれ」と言いたかったんだと思う。
 このままくすぶる狂気の導火線を放置してしまってもいいのだろうか? しかし私にはとても狂人と積極的に関わり、ましてその体をぎゅっといたわるように抱きしめ、「もういいんだよ」と言ってあげられるようなホスピタリティなど微塵もなかった。

3.
 しかし狂人の存在は私にとってもやっかいな脅威だった。なにせ一階という、先輩のマンションを訪れるのであれば確実に通過しなくてはいけない階に住んでいるし、ベランダは歩道に面していて、その前を通って私はマンションに行き来しているのだ。いつ狂人とばったりエンカウントしてしまうか分からない。同じ物件に住む先輩は、たまたますれ違った際に「何見てるんだ」と因縁をつけられ、先輩の知人は面と向かい「殺すぞ!」と脅されたことがあるらしい。これは、もはや事件じゃねえか。
 その矛先がいつ私へ向かうか分からない。だから先輩のマンションへ向かう時と帰る時、また近所のコンビニへちょっとした買い出しに行くときは狂人の見えない姿におびえ、一階を通るときは男を刺激しないように音を立てず、忍び足で素早く行動しなければいけなかった。この地味なストレスが私の中でも蓄積し、やがて気づけば自然に狂人の死を願う自分がいた。だれかが奴に裁きをくだすその時を無責任に待っていたが、そんな都合のいいことは起こらないだろうとも思っていた。
 しかし、あるとき、先輩から「ついに、時はきた!」という興奮気味の文章と共に一枚の画像が送られてきた。その画像はA4のコピー用紙を撮影したものだった。先輩のポストに入っていたという、その投書は、狂人にまつわるものであり、先輩のマンションと道路をはさんで対面しているファミリーレストランの隣にたつマンションの住人から送られたものだった。
 投書によると、その執筆者、仮にBさんとしよう、も狂人と、その奇声について認識はしていたが、やはり同じ物件ではないためか、それほど気にととめず、自然と無視できていたという。しかしある時に、先輩のマンションの前を通ったとき、不幸にも狂人とエンカウントし、罵声を浴びせられ、勇気溢れるBさんは狂人に近所迷惑になるから静かにするようにと注意した。そして歩み去ろうとすると、狂人は「殺される!」「助けて!」と騒ぎ始め、Bさんは慌ててその場を立ち去らざるを得なかった。その事件をきっかけに、Bさんは狂人について深く考えるようになった。そして道路をはさみ、隔てられた自分の部屋にすら、その声が届くのだから、同じ物件に住む住人はどれほど苦しんでいるのだろうと思いを巡らせ、義憤を募らせていった。そして、あるとき、狂人がひときわやかましく喚き散らしていた日に、Bさんは立ち上がった(こういう人間もいるのだ)。そしてたまたま持っていたピエロの仮面をかぶり、たまたま持っていた光る警棒を手にした戦士として狂人に警告を与えに向かった。しかし結局は警察沙汰になり、そこで警察から、狂人の行動は日本の現行の法律では対応も逮捕もできないと言われたという。そして、狂人が行動しているのはベランダとはいえ自分の敷地内であること、そして警察がきたら当人が大人しくなることがその理由として説明された。結局、この日もBさんは泣き寝入りするしかなかった(ちなみに当日、狂人は全裸であったらしい)。
 これに懲りずに後日また注意をしにいったBさん。そこで狂人から「オモチャ」呼ばわりを受ける。これまで、狂人の奇声を直接咎める人は他にもいた。しかし、結局は狂人を止めることはできず、Bさんと同じく泣き寝入りをさせられたり、狂人から逃げるために引っ越すはめになってきた。狂人にとって、それらの人々は「オモチャ」に過ぎず、彼は「オモチャ」の反応を楽しみにさえしていたのだ。
 自分一人では手に負えないと悟ったBさんは、狂人と戦うために社会の力を借りようとする。警察から助言をうけ、区役所をまわり、市役所へ走り、自治会長を訪ねた。しかし、結局は各所をたらい回しにされるはめになった。だが地道に足を運び続けることで、先輩と狂人の住まうマンションの管理組合と保健所と警察とで連携を組むことになった。最悪の場合、裁判で争うことも視野に入れているという(しかしその場合は解決まで何年もかかる)。そしてどれくらいの方が狂人によって苦しめられているかを知りたい、電話やメールで、匿名で構わないから教えてほしいという。具体的な証言は、最終的に裁判で争うための力になる。そのために協力いただけないか、ということだった。文末にはBさんの連絡先と名前までも記されていた。
 先輩から投書を読ませてもらい、私は震えた。このような勇敢な市民がいたとは! いや、こういう人をこそ、私たちは待っていたのだろう。Bさんの手によって、いつの日か狂人がマンションを去って、怯えて背中を丸めながら早足でマンションを出入りする惨めな日々が終わりを告げるのかもしれないと思うと、涙すらこみあげた。そして狂人の具体的な情報もまた興味深かった。事態はやはり深刻で、狂人はこの行為が迷惑であることを理解し、法の力が及ばない範囲を自覚し、周囲の反応を含めて楽しんでいる。ベランダで全裸であったことを考えると性的に興奮している可能性もある。我々の怯え、苦しみ、怒りはすべて狂人の行動をエスカレートさせる燃料なのだ。気持ちのやり場がなくて、どうしようもなく叫んでいる面もあるかもしれないが、その奇声には、自分の声が届く範囲の人間に苦しみを与えたいという悪意があり、それは呪いだった。
 いずれにしても、事態が好転しそうで、俺と先輩は胸を撫で下ろした。そうして、二人でしみじみと投書を読み返して、「しかし狂人をピエロの仮面とぴかぴか光る警棒でこらしめようとするって中々この人もやばいですよねえ」と言って、二人で笑いあった。

4.
 しかし一ヶ月、二ヶ月、数ヶ月と時が経っても、狂人は変わらずに一階にいて、ベランダに出ては呪詛を吐き散らしていた。あの投書はなんだったのか。結局それ以降なにも進展の兆しはなく、そして薄情なことに、先輩も俺もBさんに全く何の連絡もしなかったために、現在の状況もわからなかった。もしかしたら、投書をしても、誰からも連絡をもらえなかったために、気落ちしてしまい、狂人にわざわざ立ち向かうのがばかばかしくなったのかもしれない。そう考えると悲しかった。
 狂人の奇声にげんなりし、その影に怯えながらも、俺は休みが合うと先輩の部屋を訪ね、ダラダラと過ごした。月日があっという間に流れていくなか、狂人と俺と先輩の間には小さなイベントがいくつか発生した。
 まず狂人とマンションの中でエンカウントしそうになった。俺と先輩が外から晩ごはんの買い出しをして帰り、一階でエレベーターが降りるのを待っていると、狂人の住む部屋の中からガチャガチャという物音が聞こえる。どうやら玄関の扉を開けて外へ出ようとしているらしい。恐怖で心臓が跳ねた。扉がかすかに動きはじめた気がした。幸いにもその時、エレベーターが降りたので俺と先輩は慌ててその中に駆け込み、上階へ避難した。先輩は部屋の中へ入ったあとも、しきりに扉ののぞき穴から外を見て、エベレーターの様子を注視していた。狂人に姿を見られることはなかったが、あまりにもタイミングがよかったため、狂人は俺たちのたてる音を耳にして、一発脅しつけて「オモチャ」にしてやろうとしたのではないか? そうとしか思えなかった。
 そしてまた別の日、俺はマンションの外で初めて狂人の姿を目にした。先輩のマンションの最寄り駅で、狂人は特になにかを叫ぶこともなく、誰かを待つように大人しく佇んでいた。先輩から教えられて初めて目の当たりした狂人は、中肉中背で、年は俺と同じくらいだろうか、20後半から30前半くらいに見える。容貌に洒落っ気はなく、冴えないが、最低限整えてある。中高は卓球部で、あだ名は「ゴリメガネ」、そんな雰囲気だ。あのベランダで全裸になり奇声をあげる男と同一人物と言われると、その印象が先に立ち、何かしら、ただならぬ野蛮な雰囲気を読み取ってしまいそうになるが、きっとそう言われなかったら、特段印象に残ることはなかっただろう。客観的に見て、そこにいたのは、とるにたらない平々凡々な一人の青年だった。きっと働いてもいるのだろう。あのマンションはそこそこの家賃が発生するから、ちゃんとした会社に勤めているのかもしれない。そうして、彼にも待ち合わせをする誰かがいるらしい(誰かを尾行するために待ち伏せしてたのかもしれないが)。
 あのマンションの外で、思いがけず目にした狂人のありふれた日常の佇まいに、どっと疲弊し、脱力した。あのベランダの小さな空間が彼にとっては自己を解放できる聖なるステージなのだろう。そうして法の及ばない小さな世界で、呪いの声をあげ、復讐しているのだ。彼にとっての地獄が会社にあるのか、人間関係にあるのか、それとも時間の積み重ねが彼の頭を締めていたネジを緩ませたのかは分からない。でも、いつも何を叫んでいるのか、やっぱり知りたいなと、そう思った。

5.
 結局、狂人が何を叫び、何に怒り狂っているのかは分からなかった。
 あるとき、先輩から「勝訴」というメッセージと共に画像が送られてきた。そこには狂人が住んでいた部屋の玄関とポストが映っていたが、どちらも封じられていた。つまり空き部屋になったということだ。Bさんの計画は水面下で着実に進行していたのかもしれない。狂人は、去った。
 平穏な日々がかえってきたことを祝し、俺と先輩はパーティーを開くことにした。本当はマンションの全住人で祝いたかったくらいだが、ささやかに二人で楽しむことにした。
 久しぶりに先輩のマンションの前を堂々と歩く。もう狂人の影に怯える必要はない。しかしかつて狂人がいたベランダを目にした俺は愕然とした。ベランダに人こそいなかったが、隣の部屋のベランダとの間を分かつ、仕切り板、その中央に大きな穴が空いていた。穴のふちはでこぼこと不揃いで、明らかに殴り空けられたものだった。穴は、大人の男が身を縮めれば侵入できそうなほどには大きい。
 最後の最後、狂人はあのベランダの小さな舞台に風穴を開けて、ついには言葉ではなく暴力で世界を変えようとしたのか……。
 それとも狂気が一線を越え、衝動的に仕切り板を殴り壊してしまったことが決定的な物証になり、強制退去の決定打となったのかもしれない。
 先輩は、最初はこれも写真に撮って送ろうとしたけど、できなかった。呪われそうで、と言った。
 たしかにこの歪つな穴は呪いだった。男の叫びは誰にも届かなかったが、その憎悪の証をたしかに残した。このマンションの、いや近隣住民の誰もがこの男を憎み返しただろう。その奇声に耳をふさぎ、男の死を、いや誕生からさかのぼり、その存在が全時間に渡り、この世界から一つの痕跡すら残さずに消滅することを切実に祈っただろう。俺もその一人だ。でも、せめて俺だけでも、男が世界に穿ったこの穴を目に焼き付け、心に刻もう。そう思って立ちどまろうとしたが、先輩がさっさとマンションの中へ入ろうとしたので、結局足を止めず、慌ててその後を追った。
 仕切り板はいつの間にか取り替えられていた。騒音を注意する張り紙は掲示板からそっと剥がされた。ベランダを開けると、通りを駆ける車の音が響いた。耳に入るのは、ありふれた、平和な雑踏だけだった。男の痕跡はもう、どこにもなかった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?