奇形の金魚と転覆病
私の実家には大きな水槽があって、その中で金魚をはじめとした魚を10匹前後飼っている。実家に帰り、タダ飯とタダ酒をくらい、酩酊した頭で色とりどりの魚が泳いでいる様を眺めるのは愉快なものだ。
魚たちの中で一際目を引くのが、頭部に異常発達した瘤をもつ金魚だ。
これは肉瘤(にくりゅう)というもので、なぜこんなものができるのかはよく分からないが、大きく発達したものほど評価されるらしい。あくまで人間社会のなかで。
水槽の中にいる金魚のうち、肉瘤があるのはこの一匹だけだ。他の金魚からどう思われているのだろうか。「ワレ、頭が金玉か!」と口汚く罵られていなければいいのだが。
実際、この金魚は巨大な肉瘤のため実生活において大きな苦労を強いられているように見えた。
まず食事だ。エサをいれると魚たちは水面に向かって泳ぎ、上を向いて口をパクパクと開き、エサを食べようとする。しかしこの金魚は口よりも前に肉瘤が突き出ているために、口がエサを捉えるより前に瘤に当たってしまうのだ。その光景は涙を誘うほどに切ない。
そして、そもそも肉瘤が重すぎるために、上を向いた状態を水中といえどキープするのが難しいらしい。エサ目掛けて浮上し、水面に浮かぶエサを食べようと上を向いたはいいものの、肉瘤の重量に引きずられ、ひっくり返る場面を私は幾度となく目にしては、他の金魚から「金玉頭! ワレ、エサ食うの下手か!」と嘲笑われているのを(勝手に)想像して(勝手に)胸を痛めたものだ。
どうして自分は他のやつ(金魚)が当たり前のようにしていることができないのか? 彼(肉瘤金魚)も自問を繰り返したことだろう。
水槽の壁面に映った自分の姿を目にして、愕然としたこともあったかもしれない。
「なんだ? この頭は? どうしてこんなに大きいんだ? なぜこんなものが生えているんだ? なぜ、おれだけ?」
しかしそれでも人生はつづく。呪いは解けないまま。
私は実家に帰るたび、この金魚を見ては、自分のようだと思ったものだ。最近私は電車に乗ったり、人の多い場所に行くたびに、自分と同年代の人や、若者と自分を見比べては、あたしって周りと違いすぎない......? あたしだけキモオタすぎない......? というかみんなオシャレすぎじゃない......? と勝手に凹んでいる。 あと仕事関係の飲み会とかに参加して、一人だけスポーツの話題についてゆけず浮くこともよくある。地方の社会人の共通言語はスポーツなのだ、たぶん。スポーツなんて滅びればいいのに。
人間の社会で浮いてしまう自分を金魚の社会で浮いてしまう肉瘤金魚に勝手に重ねては、肉瘤の重みに振り回されながらも必死で上を向いて泳ぐ金魚に私はエールを送った。酒を片手に。
しかし私の心が腐ってしまったように、金魚の心というのも病んでしまうのだろう。いつしか肉瘤金魚は「転覆病」という病気にかかってしまった。
これは文字通り、金魚がひっくり返って、お腹が上を向いた状態になってしまうことで、要因としては、先天的に浮袋が未発達であったり、消化不良で体内にガスが溜まっていたり......と様々らしいが、私にはどう見ても肉瘤を支えた状態で泳ぐことに疲れ果て、生きる希望そのものを見失ってしまったようにしかみえなかった。
転覆病の治療には塩水浴が効果的ということで、肉瘤金魚は別の水槽(という名のバケツ)に移し変えられた。そして、本当に転覆病はあっさりと治り、家族一同胸をなでおろした。
転覆病が治ると、母は肉瘤金魚を元の水槽に戻した。私はこの金魚だけ別の水槽で飼ったほうがいいのではないか? と提案したが、母は「一人だと寂しいだろうから......」と言うのだった。
来年還暦を迎えるこの老母には、みんなでいるときのほうが孤独を感じる人(金魚)もいる、という発想がないのだろう。その孤独を知らないというのは、全く幸福なことだ。
そして肉瘤金魚は水槽にもどった。しかし、しばらくすると、またひっくり返り、塩水サナトリウムに移され、回復し、水槽にもどり......ということを繰り返した。転覆病は治療が難しいため、このサイクルを根気よく続けないといけないらしい。だが水槽にもどった肉瘤金魚が再びひっくり返るまでの間隔はどんどん短くなっていった。次第に転覆症は治らなくなっていった。塩水サナトリウムに移ってもひっくり返ったままなのだ。
私には肉瘤金魚の心が腐り、生きる力が失われていくのが手にとるように分かった(気がした)。まるで、いつの間にか全てを諦めて、他人を見て、自分と秤にかけては勝手に絶望している自分自身を見ているようだった。
私はひっくり返った金魚に向かって声をかけた。酒を片手に。もう一回上を向いて泳いでみようぜ。お前の瘤は実は俺ら人間の中ではめちゃくちゃ評価される、立派なものなんだぜ? 知らなかっただろ? お前は自信を持っていいんだよ。俺も頑張るよ。そうだよ、自分がキモオタすぎるなら、キモオタから脱出すればいいんだよ。これからは俺もワックスで髪を固めるよ、服とか1mm Parabellum Bulletたりとも興味なかったけど、今年の冬は廣井きくりの上着みたいなスカジャンずっと着回してないで、ちゃんとしたコートを買うよ、そうだよ、まだ遅くない、still dreaming、未来は俺等の手の中、そうだろ?
金魚は何も答えない。うつろな目のまま、平衡感覚を失った体を静かに水底に横たえている。当たり前だよ。人間の言葉が金魚に通じるわけないもの。通じたらよかったのに。
金魚は結局大きな水槽から、小さな水槽に移されて、そこでひとり過ごすことになった。もっと早くこうすればよかったのか、それともどうしようもなかったのか分からない。結局ほどなくして肉瘤金魚は息を引きとった。
転覆病は治らず、ずっとひっくり返ったままだった。晩年はほとんど泳ぐこともなかった。まるで鬱病にでもなったようだと思った。事実そうだったのかもしれない。いつの間にか頭の上にあったものに振り回され、折り合いをつけることもできずに、最後にはその重みに抵抗する気力も失った、不器用な金魚だった。
2年は生きただろうか。
あの世があるのなら、せめてそこで他の魚たちと一緒に自由に泳ぎ回っていてほしい。
今までありがとう。
2年は長かったね。