ニーレンベルギア
テーマ:ニーレンベルギア
2020年にサイト9周年から10周年に向けて毎月1つ小説を上げていました。
ちょっとした群像劇のような形で書いていきます。
戦争描写、火事の描写があります。
老人がテラスにある椅子に腰かけ本を読んでいた。隣に置いてある、木のテーブルの上には、世界情勢が芳しくないという内容が大きく書かれている新聞がある。新聞は一度読まれたのであろう、折り目が少しずれている。老人は本から目を離していないが、読んでいないようだ。その証拠にもう10分程ページがめくられていない。
老人は、街の大通りから聞こえる子どもの声と馬車の音と街の賑わいを聞いていた。
老人の皺の寄った手が読んでいた本のある単語をなぞる。Nierembergia. 白や淡い紫色の花のことだ。
少し老人の過去の話をしよう。
彼はとある貴族の家で使用人として仕えていた。若い頃からフットマンとして仕事をして、青年と呼べる頃には主人の給仕を担当するまでになっていた。彼は、穏やかな性格、主人に忠義を尽くしていた。しかし、彼は完全な忠義者ではなかった。最愛の人がいたのだ。自分を拾ってくれた主人よりも、教養を身につけさせてくれた女主人よりも心の底から愛してしまった人がいた。それは、貴族の娘であった。娘は彼の3つ下で、庭の最も美しいバラよりも美しかった。
彼女は美しく気高かった。彼女は庭でアフタヌーンティーを楽しむことを好み、青年に給仕させていた。
「来年には、私はここに居ないのね」
「分かってたのよ、だから私の我儘は許してね」
「正室になんてなれないわ、側室になって王の寵愛を受けてもっとまともな国にするまでよ」
「ねぇ、だから泣かないでね」
「私が死ぬまでは私を愛してね」
彼は何も言わなかった。静かに給仕を続けた。口元に笑みを浮かべたまま。愛おしさをにじませながら。指先だけで愛していると告げながら。許されるはずのない恋だった。
国のあちこちで火の手が上がるようになってきた。王政は暴虐で彩られたものでも、民を苦しめるものでもなかったが、隣国に焚きつけられた反乱軍を抑える力もなかった。
内乱の矛先には、王族と貴族に向いていた。彼の仕えている家も例外ではなかった。
その日、彼は主人の領地から少し離れた王都に行っていた。貴族の娘が婚礼で使用するティアラとイヤリングを受け取る仕事があったのだ。
もう少しで邸が見えると馬車の窓から伺っていた彼の目に飛び込んだのは、火柱を上げる邸の姿だった。真っ赤な柱は黒い煙を上げていた。生き残ったのは青年だけであった。彼は庭で唯一残ったニーレンベルギアを一株引き取った。6月2日の事であった。
その1年後、王家は滅び、別の国が生まれた。
Nierembergia. をなぞっていた指を話した老人は、ため息を吐くと椅子の背に体を預けた。目を閉じる。テラスから見える庭には淡い紫の小さな花が咲き、蝶が飛んでいる。
名前が呼ばれたような気がして目を開けた。目の前にはどこまでも続くような庭が広がっている。老人は、ゆっくりと椅子から立ち上がる。彼にはとても見覚えのある庭だ。よく貴族の娘と共に過ごした時間に見た風景だ。
蝶がひらひら、ふわふわと飛ぶ。花に止まって蜜を吸って、次の花へ。
「ねぇ、綺麗ね***」
「お嬢様、どうして......」
声の方を振り向けば、最愛の人。愛おしい声、優しい目、麗しい姿、何も変わらない最愛の人の姿。老人は嗚咽を上げて、膝から崩れ落ちた。
「ああ、どうか私の姿を見ないでください。私は老いました。そして汚れました。盗みました。殺しました。墓を暴きました。どうか、私見ないでください」
贖罪を述べる老人は顔を手で覆って、ガタガタを震えていた。
「おかしなことを言う人。貴方が見なければ私は見えないのよ。ばかね。私たちなんて、人から金を奪って、土地を奪ってきた血族なのよ。おじい様やその更におじい様なんて剣を振るって、槍を構えて、弓を射って人を殺してきたわ」
彼女の手が老人の頭を包む。白魚の手が老人の頬を滑って少しつねる。
「変わらないわ、私の大事な、大事な、最愛の人」
彼は涙を流しながら、自らが浄化されていくのを感じていた。心が何十年振りに和んでいた。
涼しい風が吹いて目を覚ました。老人は椅子から立ち上がり、新聞と本を持って家に戻った。書斎の扉を開けて、一番古いアルバムを引っ張りだした。お嬢様に貰った写真。旦那様が一緒にといってくださった写真。常に持ち歩いていたから手元に残った思い出たち。それらをそっとアルバムから抜き取る。
老人はこの町がもう長くないのを知っている。きっと明日には隣国の軍隊が入ってくるだろう。少しでもお金のある住民は既にこの町を出ている。残っているのは、金がないか、ここに愛着がある人だけである。窓の外を見ると、夢の中と同じように蝶が飛んでいる、一匹、二匹、三匹。馬車の音も聞こえる。沢山の馬車だ。遂に町長が逃げ出すことにしたようだ。
すると、玄関の扉をドンドンと叩く音がする。写真と本を持って玄関を開けると、綺麗なアーモンドアイの青年が立っている。
「じいさん、逃げるぞ。もうすぐ、軍隊が来る。見張り台の奴らも逃げ出した。ここに居たら、そのまま殺される。あいつらは子どもだろうが、女だろうが、銃も持てない老人でも平気で殺すんだ。だから逃げるぞ」
青年が手を引いてくれる。空はどこまでも青かった。そして、その青を汚す様に飛行機が飛んでいく。それを見た青年は、スラングを吐き捨てて、老人を背負って走り出した。
「どうして、町で生きて、死んでいく願いも叶わないんだ」
老人は、そうだなぁ、そうだなぁと言って泣いた。
細やかな願い(平和)も叶わないまま花は散った。
逃げ込んだ修道院の中で、人が選別されていく。アーモンドアイの青年は腕を下げたまま拳を握っている。彼は、荷物をまとめて明日の朝、日の出とともにこの修道院を立ち去るのだ。
老人は、青年の手にいくらかの紙幣と小銭を持たせた。私にはもう使う宛てがないのだと青年に告げて、受け取らない青年の手を無理矢理こじ開けて。
もう生きられない者、病弱な者は切り捨てる、そう決めたのは町長だった人物だ。老人は、その決定に納得していた。切り捨てられる者たちは皆納得していた。若い者をより長く生きれるように、不要な者は切り捨てろと。
日が昇った。青年は老人の昔話を聞いていた。出立ぎりぎりまで、老人の話を聞いて泣いた。そして、絶対戻ってくると老人の手に紙包みを持たせた。
青年が立ち去った後、老人はその包みを開けて、声を殺して笑った。ニーレンベルギアの種。老人の庭にこの花を植えたのはあの青年だった。
若い者たちが山を登っていく姿を見届けた年老いた修道士は、修道院に残った者たちに大丈夫かを確認した。皆頷いた。その中に、老人もいた。そして、修道士はその場に火を放った。
老人は、目をつぶった。幸せな記憶と楽しかった記憶と、優しい記憶を携えて、笑みを湛えて。愛しているという思いを込めた指先で種と写真を撫でながら。
「お嬢様、遅くなり申し訳ございません。ただ今、そちらに参ります」
(2020.01.14)
ニーレンベルギアシリーズ1作目
ニーレンベルギア
花言葉:優しい追憶
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