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泡沫でも幸せを

テーマ:水泡
群像劇のようなお話が進んで行きます。とある科学者夫妻のお話
ボロボロになってから立ち上がり幸せになった人達


 祝福の声と色とりどりの花が咲き乱れている今日は、本当に喜ばしい日です。一人息子の結婚式はここまで嬉しいものだとは二十年程前には思いもしませんでした。
 緊張した息子の顔を見たのは久しぶりです。ここまで緊張した顔をしたのは大学試験の結果発表の時かしら?そんな息子の隣には、栗毛色の可愛らしい娘さん。今日から、私達の娘でもあるのかと思うと、むずがゆくなるような気持ちです。
 夫は、私の隣で、しきりに息子は幸せ者だといっています。もしかして、もうお酒に酔ったのかしらと心配してテーブルの上を確認したけれど、お酒の入っていたグラスは一つもなくて、夫が真剣に息子と新しい娘の幸せを喜んでいるのだと分かりました。
 友人の間を歩く二人の左薬指には赤い石がきらめく揃いの指輪があります。その石は、彼女の父親から引き継いだものだと聞きました。
 その話をした彼女はどこか誇らしげに、嬉しそうにはにかんだのです。それのまぁ可愛らしいこと。
 この時期は天候も安定していて穏やかな風が吹くから、結婚という門出にふさわしいと思っていました。息子夫婦がそれに賛同してくれるとは思っていなかったけれど。
 この季節に挙式するといわれたときは少し驚きもしたわ。私は今まで一度も、息子にこの季節の挙式を勧めたことはなかったものですから。
 会場としてお借りした教会の中庭は、色とりどりの花が咲き乱れ、瑞々しい香りを届けてくれます。
 今日の式には、私達夫婦の古い友人も招いています。友人たちに挨拶し終えて、一息つくと、これからブーケトスをする丁度その時の様でした。
 若い娘さん達が楽し気な声を上げながら庭の中央によって行きます。
 その様子を見ながら、一人息子を引き取った時のことを思い出しました。


 私達が今よりも若かった頃、隣国と大きな戦争がありました。始まりがどんなものだったか覚えてもいません。最終結論としては、我が国が勝ちましたが、隣国に与えた損害は凄まじいものがありました。
 それは経済や物理的なものだけではありません。人命も文化も、隣国から失わせてしまったのです。
 戦争が終わってすぐの年に、私と夫は本国を離れて療養することになっていました。
 これは夫の友人の取り計らいでもありました。
 その時、夫は食事を摂れず、夜の眠れない日々を過ごしていました。友人は、そんな夫を心配してペンションを一つ貸してくれました。
 場所は、敵対国だった隣国の更に隣の国でした。中立国として多くの難民を受け入れ、全ての人々に衣食住を保証するという功績を上げた国でもあります。
 その国の療養所で、一年でもゆっくり過ごせば夫の状態も落ち着くだろうと、友人も私も考えていました。
 療養所に着くまでひたすらに馬車に揺られました。夫は不安気に馬車の中に視線を巡らせるだけでした。私はその様子を盗み見しながら刺繍をしていました。
 仕事をしている時では、考えられないような様子だったのです。私は仕事をしていないのだと自分に言い聞かせるように指を動かしました。仕事をしないということを意識して、普段ならしないことをしていたのです。

 療養所は片田舎の山の近くでした。ペンションの近くに川が流れ、耳を澄ませるといつでも水の音が聞こえてきました。
 友人が使用人を二人雇ってくれましたので、私と夫の計四人、私達の様子を見に来る友人を入れると計五人の療養生活が始まりした。
 友人は忙しい方なのですが、この療養中は毎朝、ペンションを訪れては夫の心身の状態を確認し、元気そうな日であれば一緒に散歩に行きました。
 私と云えば、そんな二人の様子を見ながら、できるだけ紙やペンを持たないようにして、重たいドレスを敢えて着ていました。部屋の中で大人しく、刺繍と編物をしました。
 元来、私は刺繍や編物を進んでするような人間ではなかったのです。重たいドレスなんて着たくもありません。しかし、それでも私は何も考えず、何もしないということに拘泥していました。
 使用人の二人は様々な料理を知っていて、華やかに盛り付けることも得意でした。部屋から余り出ようとしない私を楽しませようと、色とりどりの野菜や可愛らしいお菓子、美味しいお茶を用意してくれました。
 二人の気遣いを受けながら、ゆっくりとした時間をはじめのひと月味わいました。
 今思い返すと、あの時は一番ゆっくりと自分のために時間を使っていました。それ以降は何かと忙しい日々でした。でも、あの時は一番私の性に合わない時期でもあったと思うのです。
 ひと月過ぎたあたりから、私は刺繍と編物をすることに飽き始めていました。しかし、鞄の中に沢山入れた本を読む気にはまだ慣れなかったです。それに、夫もその本を目にするのは嫌がるだろうとも思いました。
 初夏の晴れやかな清々しい日に、ペンションの近くを散歩しました。重たいドレスはやめて、動きやすいワンピースを着て日傘を持ってふらりとペンションを出ました。
 周辺の事は使用人達がよく話をしてくれたので、初めて歩く道が初めて歩くように感じませんでした。それはとても面白く、愉快な気持ちになりました。
 その日の晩、私は久しぶりにペンを持ちました。カリカリとペン先が紙と擦れ合う音を聞きながら、教師をしている友人に手紙を書いたのです。今日のことを思い出して、私の感じた事を書くという作業は、簡単なようでいて難しいのだと感じていました。研究結果の報告で書く文章とは全然違うもので、私はそんな文章を書くことにも小さな喜びを感じていたのです。

 ある日の事、友人が私達に孤児院を見てみないかと提案してきました。夫の顔色も良くなりはじめ、私も徐々に健康体に戻りつつある時でした。
「ここの周辺を歩くのも少し飽きてきた頃だろう? 少し離れた所に孤児院があるんだ。なに、少し離れたといっても歩いて三十分もしない所にあるよ」
「でもね、私はともかくあの人はまだ体調が万全ではないのだし、三十分も歩けないかもしれないわよ」
「歩くのが難しいなら、馬車を仕立てよう。この辺りを治めている領主と知り合いになってね、馬車位ならいつでも貸し出せるなんて言っていたよ」
「いけないわ、人のご厚意に甘え過ぎるのがあなたの良くない所よ。それに人が大勢いる場所は苦手なの」
 友人の急な提案を、あまり好意的に受け取れませんでした。ましてや、子どもの大勢いる孤児院なんて、その時の私達にはただただ苦しいだけの場所だったのです。
 友人と話しつつ、夫を横目で見て、その反応を確認していました。
 痩せこけた頬は少し戻り始めていました。まるで死人のような土気色の肌もほんの少しだけ血色がよくなっていました。
 しかし、孤児院の話が出た時から目が泳ぎ、私と友人の間を行ったり来たりと繰り返していました。
 その姿を見て、私は早くこの話を切り上げることにしたのです。ですが、話を切り上げることは出来ませんでした。狼狽えていたように見えた夫が行こうといったのです。
「行ってみないか? 子ども達の元気な声でも聴けば少しは晴れやかな気持ちになるかもしれない。それに、君は元気な子どもが好きじゃないか」
 ダメ押しのように、私は大丈夫だから、と言って微笑むのです。
 流石に今日訪問するのは難しいということになり、明後日に行くことが決まりました。友人は、明後日に馬車が借りられるかどうかを確認してくる、とペンションを出ていきました。
 残された私達は、使用人のいれた紅茶を飲んでいました。何とも言えない沈黙が少しの間続きました。
「少し、気分を変えることも大事だよ。私はご覧の通りのあり様だから、君には迷惑をかけているね。この家の周りだけじゃなくて、他の景色も見て欲しいと思ったんだ」
 まるで独り言のように夫は話しました。降り始めの雨のように言葉を重ねていました。
 「楽しみね」と返すと、夫は目を細めて、痩せこけても変わらない穏やかな微笑みを浮かべていました。

 4日後、友人と共に孤児院に行きました。孤児院は森の中にある家と野外に机や椅子が置かれているスペースで構成されていました。孤児院の前に馬車を降りると、丁度女の子が通りかかりました。
 女の子は私達を見て、こんにちは、と声をかけたあと「シスターを呼んできますね」と言って走って孤児院の中に入っていきました。
 少しすると先程の女の子とシスターが出てきました。友人は、シスターと二言、三言言葉を交し入館の許可を得ました。
 あとから聞いた話ですが、この孤児院のシスターは私達に馬車を貸して下さった方の妹君なのだそうです。
 シスターは別の仕事があるようで、案内は別の者が担当してくださいました。
 子ども達が走り回る庭、勉強の時間に集まる屋根のない教室、庭に隣接している畑には白や黄の花が咲いていました。子ども達はそこで元気に過ごしていました。どの子も健康そうな見た目で、目がキラキラと輝いているように見えます。戦禍に巻かれ家をなくしたに子ども達よりも夫の方が病人らしく見えました。
 外を一周して孤児院の中に入る時、一人の男の子が花を一握り持って前を通り過ぎていきました。
 男の子は前庭に置かれた大きな石に向かって歩いているようでした。
「あの大きな石はなんでしょう? 」
 気になって案内をしている修道女に尋ねました。彼女は私の視線の先にあるものを確認して、ああ、と小さく言いました。
「あれは、慰霊碑です。といってもご遺体が下に埋まっているわけではありません。私達が救えなかった命を忘れないためにあるのです」
「あの子はよくお花を手向けて? 」
「ええ、2年位前からいる子ですけれどほぼ毎日です。あの子も色々大変だったようです」
「大変だったのね、どちらのお国の出身なのかしら? 」
 その時、私は毎日花を手向ける少年に少し興味を持っていました。なんとなく彼のことを知ろうとして発した言葉に修道女は怪訝そうな顔をしました。
「この孤児院で暮らしているのに、どうして出自が必要でしょうか? この孤児院では多くの子どもを保護しています。もちろん出身国の制限などしておりません。出身国が子どもの何が分かるのですか? 」
 とても穏やかな声でしたが、はっきりとした言葉でした。私は自分の発言を恥じ入ることしかできませんでした。
 隣に立っていた友人は修道女と私を見比べておろおろとしていました。優しい人なので、どう声をかけて良いのか分からなかったのでしょう。
「中に入られないのですか? 」
 私達が話している間に、少年は花を手向け終わり戻ってきていたようでした。
 少年は綺麗なアーモンドアイでした。体が発育不良なのか、他の子どもよりも小さいように見えましたが、顔色は健康そうでした。
 この時、私達は息子に出会ったのです。

 その日以降、毎日のように孤児院に出向きました。夫はまだ療養する必要がありましたが、私はここに来た当初よりも体調が良くなっていました。
 最初は散歩てがらに二、三度行き修道女と挨拶を交わして、子ども達を見ていました。修道女や、管理者のシスターとの話の中で、子ども達に教育をする人が足りないという話を聞きました。
 幸い私は読み書き、計算以外にも、他国の言語を齧ったこともありましたので、教師役の手伝いを申し出ました。彼女たちも渡りに船といった様で、いつからいつまで、何時から何時までいられるのかと矢継ぎ早に質問されました。
 孤児院通いがひと月経った位の日、友人が改まって話をしたいといってきました。
 使用人の二人には、お茶を入れて頂いたら席を外す様にお願いしました。彼が私に改まって話をするなんて余程のことがあったのだろうと思ったからでした。
「孤児院に通い始めてひと月位かな? 」
「ええ、療養中は働いたり、外にあまり出るつもりはなかったのだけれど、以外も楽しいものね」
「それは良かった。君の旦那様も最近は顔色が良さそうだ。楽し気に孤児院に向かう君を見られて嬉しいそうだよ」
 夫も少しずつ回復してきているのか、最近は本を開いたり散歩に出たりと自主的にできるようになり始めていました。ここにきた当初は友人が一緒に外で出ることが精いっぱいだったので大きな進歩です。
「そこで一つ提案があるんだ。子どもを引き取らないかい? 」
 友人の申し出には驚きました。私は毎日ように孤児院に行っていることを咎められるか、国で動きがあって呼び戻されるかだと考えていましたので、彼の発言は私の想定とは大きく外れていました。
「君が特別子どもが欲しいとは思っていないことは承知の上だ。子どもが何が何でも欲しい人は彼と一緒にはならないからね。でも、いずれはと思っていた節はあるだろう? 」
「そうね、子どもは好きよ。自由で、突拍子もなくて、予測ができなくて。でも、私は子どもをもう産めないわ」
「そうかもしれないね。だから養子を取る気はないかい? アーモンドアイの男の子とよく話をしていると聞いているよ」
 アーモンドアイの男の子とはよく話をしていました。優しい子で、自分より小さい子の面倒をよく見ていました。大人しい子かと思えばそうでもなく、虫を追いかけて転んで帰ってくるなんて日もありました。
 心の底では、彼を引き取りたいという気持ちはありました。でも、夫の状態を考えると言い出すことはできませんでした。
 少なくとも今は、大きな環境の変化は与えなくなかったのです。しかし、もし、可能ならば子どもを育てたかったのです。
 きっと友人は私のそんな気持ちに気付いていたんでしょう。いつも友人には助けられてばかりです。

 養子を取る話はとんとん拍子には進みませんでした。
 当然といえば当然で、精神的に不安定な人に子どもを渡すわけにはいかないという意見や環境が大きく変わることへの心配の声が修道女達から上がりました。
 反対に、私とアーモンドアイの少年の様子を見る分には問題ないのでは? という声もあったようでした。
 アーモンドアイの少年は、暗い所に居られなかったり、夜になると不安定になったりする事があり、その部分も心配されていました。
 孤児院への説得を複数に渡って行いました。友人も口添えをしてくれました。私達夫婦に問題があればすぐに、友人宅にて保護されること、衣食住、教育、医療を保証すること等を条件にして引き取れることになりました。
 養子の話が上がってすぐの時に、夫は一人で孤児院に来ていました。その時、私は青空教室で算数を教えていたので夫が来ていたことは知りませんでしたが、修道女の一人が後々教えてくれました。
 夫はアーモンドアイの少年に、家族になってくれないかと訊いていたそうです。私はその話を聞いて、つい笑ってしまいました。私にしたプロポーズと同じ言葉でした。全く実直で、生真面目なんだから。
 息子を引き取り条件の中に、最低月一回カウンセリングを受けさせる事がありました。それと、少しでも家庭環境に問題がある場合は友人宅に直ぐに引き取られるというものがありました。
 カウンセリングは、私達が通っている病院で受けて貰うことになりました。


 ブーケを手に取ったのは、療養所でお世話になった友人の娘さんだったようです。可愛らしい声を上げながら喜んでいます。
「君には、とても迷惑をかけたね」
 若い子達のことばかり見ていたためか、急にかけられた夫の言葉に驚きました。夫の方を見ると、「そんなに驚かなくても良いじゃないか」と笑われました。
「ただ楽しかった時も、その後の地獄も、子どものことも、全て君にまかせっきりになってしまった」
「何を急に言い出すのかと思えば、いつだって貴方はちゃんと見てくれていましたよ。確かに不安定な時期はあったけれど、いつだって献身的だったのは貴方の方じゃありませんか」
「そうだろうか、そうだったら嬉しい。昔のことを思い出していたのさ。あの子を引き取る時のこととか、その前のこととかを」
 皺々になった手を杖の上で重ねて、息子を見ていました。夫と息子の目がそっくりで、微笑ましくなりました。

 私達が息子を引き取る前のこと、療養が必要になった原因は戦争でした。しかし、私達は被害者ではありません。圧倒的な加害者で、無知と無関心によって地獄を生み出した当事者でした。

 私達は国営の研究所で研究や技術開発に勤しむ研究者でした。『平和の世を作るために』という理念の元、医薬品の研究や新しいエネルギーの開発をしていました。その傍らで自衛のための武器の改良も行っていました。
 より強い武器を持って、それがあることを示すことができれば戦争は起こらなくなるだろうと考えて、高くよりも優れた武器を、より短時間に、広範囲で、殺傷能力の高い武器の開発を行っていたのです。
 その時の私達は、それが平和な世界を作るために必要な事だと信じてやまなかったのです。
 多くの弾丸を一気に打ち込める銃の作成・改良をただただ楽しかった。思考を巡らせて、工夫を凝らして、素材を変えて、求めるままにより良い武器を作っていました。

 私達が生み出したものが使用されることが決まった時は不安ではありました。弾丸が当たればほぼ確実に死ぬように計算されていたものを戦争下と云えど使って良いかと、研究仲間と一緒に議論もしました。
 軍の担当者は威嚇射撃に使うだけ、威力を見せればよいのだから態々人に当てる必要もない、と説明するばかりでした。
 そして、使用された日、私達研究者は成果の証明のために、武器が使用された土地に居ました。
 そこにあったのは、人の遺体の山でした。
 共同墓地とは名ばかりに、遺体の見分が終われば直ぐに火を付けられるようになっていました。
 我々は言葉をなくしました。話を違うじゃないか、誰かの呟きがハッキリと聞こえました。軍は喜び勇んで、私達の成果だと声高に言っているのです。別の軍人が遺体と持ち上げて、その損傷具合を見せてきて言いました。
『こんなに素晴らしい武器は今まで見た事がない』

 粛々と必要以上の会話をせずに、遺体の損傷状態を記録に残しました。私の手はずっと震えて、字をまともに書くことができませんでした。
 夫は研究結果の記録を残す時と同じ顔で、静かに記録を付け続けました。
 遺体が積みあがってから私達は、私達のしてしまったことに気付いたのです。『平和な世』という願いはまるで水中の泡でした。浮かんでは消える、あまりにも儚い願い。
 私は夜眠れなくなりました。日中もずっと不安定で、誰かが私のことを、指をさして糾弾しているのだと思い込みました。その間、夫は私のことを支え続けてくれました。
 二か月後、戦争は終わりました。夫は糸が切れたように眠りました。そして、起きてからは食事を受けつけなくなり、泣き叫んでは武器の設計図などを引き千切り、本を割きました。
 そんな時、夫は泣きながら、なぜと叫ぶのです。何を間違った、どうしてこうなった、なんで、なんでと。

 自らの無知と無関心によって、全てが水の泡に消えたのです。無知であったこと、無関心であったとこ、それが私たちの罪です。
 きっと加害者ではないといってくれる人もいるでしょう。でも、私達は確実に被害者ではないのです。私達の無知で無関心に過ごした結果が、あの遺体の山だったのですから。

 会場を見渡せば、皆幸せそうに笑っています。飲み物を持ったかつての同僚が手を振ってやって来ました。
 息子を見ると、照れくさそうに笑いながら友達と話しています。花嫁はブーケを手にした娘さんと談笑しています。
 ああ、幸せだ。心がいっぱいになりました。
 例え今が泡沫であろうとも、どうか、この幸せが続きますように。
 どうか息子がこれ以上苦しみませんように

(2020.06.21)


ニーレンベルギアシリーズ6作目
ドイツ語で結婚をhochzeit(hoch:高い, zeit:時間・時)というのですが、12作品中6作品目に絶対的に幸せな話を書こうという気持ちで書いていました。
他のシリーズ作品が気になる方がいましたら、「#ニーレンベルギアシリーズ」で探して頂くと出てくるかと思います。

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