Nightfall moon
お題:夕月夜
戦争の後、復旧が進んだ街の事。服を考える女性と建物を考える男性の出会い
その人を初めて見たのは、店の窓の向こうからでした。雨がしとしとと降る中で、傘を差して立っている姿が印象的でした。暗い青色の傘を差して店の前に立っているかと思えば、思い出したかのように足早に立ち去っていくのです。
私と同じく店で働いている子は、その男性を訝しがるよりも、恋人へのプレゼントを探しているのかしら? それとも奥さん? と想像力を働かせておしゃべりしています。店では女性ものの服やバックなどを取り扱っている事柄上、店先で立ち止まる男性のお客様は少なくないのです。
もちろん、私もその話に混じっていました。いつ勇気を出して店内に入るのかしら、その時にどんな商品をお勧めしようかしらと、雨で客先が遠のいた店内でおしゃべりをするのです。
それから、男性は毎日のように店先に来ました。二日経ち、三日経った頃に、決まって立っているのは、アーチ状の窓のところ、店内がよく見える大きな窓から少し離れたところだと気づきました。
店で取り扱っているもの上、はやりお客様も女性が多くなります。ご婦人の荷物持ちの方や旦那さんなどはご一緒にご来店されることが多いのですが、男性お一人でのご来店はあまりないのです。皆、恥ずかしがりなのだと笑っていますので、次来た時は声をかけようと考えていました。
翌日、彼はまた来ました。今日は白いシャツにペンを胸ポケットに入れていますが、いつもより難しそうな顔をしています。他の子が話しかけにくそうにしているとき、私はその男性の目を見ていました。
明るい茶色のアーモンドアイ、切れ長の目は少し鋭利なように見えますが、大きく見える目がその顔立ちを少し幼くしています。その目は太陽の光を反射してキラキラと輝きます。昔、父に見せてもらった綺麗な赤い石の様でした。
声をかけようか巡回していると、彼と目があいました。彼は私たちと目が合うことはないと思っていたのか、とても驚いた様子で周囲を見渡して立ち去ろうとします。
その時の私は、きっと特に何も考えていなかったのです。他にもお客様がいることは分かっていたはずなのに、片付け途中の布を置いて走って外に出ました。
店のドアについているベルの軽い音と少し見開かれたアーモンドアイ、一瞬時間が止まったかのように感じた瞬間でした。
「あ、あの、女性の服をお探しですか? 」
驚いて立ち止まった彼と、何を言おうとしていたのか完全に忘れ去った私の間で何とも言えない間ができました。そのまま二、三秒続いてから口から出た言葉は、飾り気も何もないものでしたが、彼の足を止めることができればそれで良かったのです。
少しの沈黙、なんとも言えない緊張感でした。何か言葉を繋げなければと思っているのに、上手く言葉にできませんでした。そうしているうちに、彼はふふっと上品に笑って、窓を指さしました。
「窓のアーチを見ていたのです。とても丁寧に仕上げられていて、職人のこだわりを感じます」
「えっと、一週間近くも窓枠を見ていたのですか? 」
つい口を出た言葉に、彼は恥ずかしそうに少し下を向きました。
「そんなに前から見られていたんですね。店先でご迷惑をおかけしました。少し建築の仕事をしているもので、気になってしまいまして……」
そういった彼は独り言のように、このアーチは素晴らしい、と言います。
「今関わっている仕事で、レンガを使った壁で窓枠は全てアーチ状にしたい、壁には彫刻を施して王宮のようにしたい、といった注文を受けているもので参考になりそうな建物を探していたんです」
もしかすると、この人の職業は建築系のデザイナーなのかもしれないと思いました。
「お時間があるときに店内も見ていってください。参考になるかはわからないけど、窓についている柵が不思議な形をしているんです、私も服のデザインを考えるときとかに参考にしてみたりしているので、もしよければ」
彼は少し目を見開いた後、目尻を緩ませました。声は先程よりも少し高くなって、純粋な少年のようだと思いました。
「そうなのですね、見せていただけますか? 」
これが彼との出会いでした。
その日、私は苛立っていました。他の子から、今日は先に上がっても大丈夫だからね、と遠回しに帰れと言われる位です。「らしくない」とは分かっていたのですが、納得がいかないのが七割と努力が認められない悔しさが三割といった所でしょか?
店から半場追い出された私は彼のアトリエに上がりこんで、勝手に珈琲を淹れて飲んでいます。後輩と先輩からは帰り際小さい声で、お客さんと対峙できるような雰囲気じゃない、気持ちはわかるけど一旦落ち着きなさい、と耳打ちされてしまいました。
なので、落ち着くまで一人珈琲をすすっているのです。
彼は傾斜のついたデスクに向き合って三角定規とコンパスで図面を引いています。彼の手の届く範囲の机には、メモ書きに使われた紙とインクと書き損じた紙などが乱雑に広がっています。その反面、キッチンは綺麗に整頓されているのです。
「そこの不機嫌なお嬢さん、キッチンの棚の右側三段目にクッキーの缶があるからお好きにお食べなさい」
彼はこちらに目を向けずに言いました。コンパスを回して、数値を書き直して、かと思えば、別の机に置かれていたデザイン画とにらめっこしています。
押しかけたときにも、好きに過ごして良いといわれていたので遠慮なくクッキーを頂くことにしました。
切れ長の瞳は忙しなく紙の上を滑っていきます。持っているものはいつの間にかコンパスから三角定規に代わっていました。くるくる、くるくると目まぐるしく変わる様子は、父母の手仕事を見ていた時のことを思い出しました。
彼のアトリエにお邪魔するようになったのは先月頃から。急な雨の日に、アトリエが近くにあるからと傘を貸してくれるというのです。アトリエにはもう一本傘があるから多少濡れても大丈夫だと言い張る彼と同じ傘でアトリエに行ったのがきっかけでした。
いくら相手がいいと言ったからって、自分の代わりに雨に濡れさせるのは目覚めが悪いじゃない、と言ったら笑って傘に入れてくれました。彼の右肩が傘の外に出ていたことに気付いていたけれど、指摘するのも失礼な気がしたので止めました。
その頃から、彼のアトリエにお邪魔するようになりました。初めの頃は、未婚の女性が上り込むなんて、と良い顔をしなかったけれど慣れたのか、諦めたのか、三回目辺りから何も言わなくなりました。きっと後者でしょうね。
「ご機嫌斜めのお嬢さん、少し気分転換に公園でも一緒に行かないかい? 」
無心でクッキーを食べ続けていましたが、そう声がかかりました。食べ続けているといっても、五枚程度でしたのよ。まぁ、いつもに比べても食べてはいるわね。
「図面はもう良いの? 」
「うーん、良いわけじゃないけど、今書き直した所で、納得のいくものは出来なさそうだし、いったんブレイクタイムにするよ、じゃあ、出かけようか」
最低限の片付けだけして鍵を持ってアトリエを後にしました。午後の柔らかな日差しが木々に降り注いでいる、初夏の陽気です。
納得がいかない、その一言が言えなかったのは一重に私の弱さでもあったのでしょう。未婚の女性が働くのは庶民では普通のことになってきたけれど、既婚者は家の事を取り仕切るのがまだまだ普通です。それに、女性はスカートを履くべきといったような固定観念はまだまだ根強いのです。それを少しでも変えてみたかった。
小さい頃から男の子のように走り回っていた私には、親に着せられるスカートは不自由の象徴のようなものでした。だったら私が、私のためにズボンを作ればいいじゃないと思ったのは同然といえば同然の事でした。
でも、その考えを周囲に分かってもらえるのはまだ難しい。年上の男性であればなおさら。同年代の女の子からも賛同を得られづらいのに、年上の男性の発言に言い返せるほどの度胸も実力も、私には足りなかった。
私はただ、働く人がより働きやすい格好ができるようにしたかっただけ、それが一番難しいことも分かっていましたが、いざそれを言葉にされると悔しさが大きくなるばかりでした。
「うん、面白いデザインだね」
「ありがとうございます。初めは黒と暗めのグレーで販売し、それから季節に合わせて明るい色を追加していく予定です。それから……」
「でも、この格好では社交界に出られないよね」
今日は、店にオーナーが来る日でした。オーナーが来たときにデザインを見せて、良いデザインだ、とお墨付きをもらえたら商品化、それが売れそうになかったとしてもオーナーから作ってもいいという判断が得られれば、商品化することができる。
煩わしくって、わかりやすい方法。でも、私のデザインを商品化するにはこれしか手がなかったのも事実でした。この店を経営している会社にはより多くのデザイナーがいて商品を作っています。私は言ってしまえばただの販売員、でもデザインができる人はデザインを上に上げることもできる。
その可能性にかけた私もバカだったのです。
「君はこの店で販売員をしているんだからわかると思うけど、うちのお客様は貴族の方が多いの。わざわざ社交界に着ていけない、人様の前に立てないような格好の服を買うと思うのかい? それとも、うちの店にそんな粗野な女を淹れたいのかい」
「そういうことではありません。現在、外で働く女性は多くいます。そんな女性たちが、スカートのまま走れるとお思いですか? 電話交換手にも教師にも給仕にも女性はいますね。その女性がより働きやすいと感じられる服を作りたいだけなんです」
「君も分からないやつだな。いいか、女というのは外で働くよりも、家の中を取り仕切り、養育を監督する立場なんだ。社会に出るやら、働くやら最近はうるさくなったが、そもそもは家にいるべきものだ。自分の力で働いているなどと偉そうに言っているが、その実は負うべき責任を負わずに遊んでいるだけだ。そんな奴らに売る服なんてこの店にはない! 」
私はそうは思いません、と声高に言い返せればよかった。でも、私にはそんな勇気も実力もなかった。一方的に言われるままに俯くしかなかったのです。
悔しかったし、腹も立った。でも、何もできなかった。
オーナーはそのまま帰っていきました。今回は、この店から採択されたデザインはなかったけれど、私の三つ下の子のスカートのデザインを褒めていった。きっと、あの子は次のデザイン画を出したときに商品化されるでしょう。
空色の少しタイト目なドレス、ところどころパールをあしらって、派手ではないけどキラキラと輝くような、女性らしいドレス。
正直、羨ましかった。でも、こんな動きにくい服のデザインは絶対したくない、ともおもった。
「と、まぁこんなことがあったのです」
公園のベンチに座って、ホットドック片手に今日あったことを話しました。私の話を彼は遮ることなく、相槌を打ちながら聞き、少し怪訝そうな顔をしています。
「えっと、失礼かもしれないんだけど、お店に来てるのって本当に貴族なのかな? 」
そこに疑問を持つとは思いませんでした。しかし、彼のおじのような人が貴族らしいので、気になったのでしょう。特に隠し立てする必要もないので話してしまえ。
「名ばかりの人ばかり。栄えてる貴族だったら自分で買い物になんて来ないよ。家にテーラーも宝石商もくるし。結構前だけど、二回くらい貴族のお嬢様がお忍びで買い物してったことはあったわ。でもそれくらい。貴族の名称を持っててもそこまで裕福じゃない」
言い切って、ホットドックにかぶりつく。マスタードの辛味が口の中に広がる。彼は、ふーん、と返事をして珈琲を傾けます。
「じゃあ、逆にズボンを履きたいってお客さんが増えたら商品化されることもあるの? 」
「まぁ、結構な人数のお客さんが来たら案としては上がるかもしれないけど、そのタイミングでオーナーが店に来るとは限らないし、売れると分かれば私みたいなのより専属のデザイナーが先にデザインを作ると思うよ」
ソーセージの皮はパキリと音を立てて切れる。そのまま咀嚼して飲み込む。隣を見れば、何かを思案しているような顔をして珈琲のカップを傾けている。けれど、カップの中身はもう空で、もしかして気付いてないのかなと心配になってしまいます。
「珈琲、もう空じゃなくて? 」
「うん、いつの間にか空になってた。珈琲の減りが早すぎて、こぼしたのかなって思ってたくらい」
そういってくしゃりと笑うから、私もつられて笑ってしまった。
午後の日差しはゆっくりと傾いて、オレンジ色になり始めた。
それじゃあそろそろ帰ろうか、と誰かが言ったのかもしれないと思うほど、公園の人気はなくなって、いつの間にか取り留めのない話をしている私達だけになっていました。
「そろそろ、帰ろうか。暗くなるから家まで送るよ」
そういって立ち上がり、私に手を差し伸べます。その姿が丁度逆行になって、どこかのブランドのモデルのように見えました。
あえて、その手を取らずに立ち上がる。得意気に彼を見上げると、少し嬉しそうに苦笑いをしていました。
「そういうところ、貴女らしくて素敵だと思いますよ」
「あら、ありがとう。じゃあ次は男性と同じ格好でもして来ようかしら」
「楽しみにしていますよ」
私の家の玄関先まで送ってくれました。家に着くまでの間は公園と同じように取り留めのない話ばかり。でも、その時間が楽しいのです。久々に心のどこかが晴れるように笑いました。
「僕は」
玄関先で別れようとしたとき、呟きました。
「僕は、貴女の考えが好きですよ。男だとか、女だとか、役割を押し付けあうよりも、自分の気持ちに自由にできること。それが一番大事だと思っています」
振り向いてみた彼は、夕日にあたってオレンジがかっていました。その中でひと際、アーモンドの瞳がキラキラと輝いていたのです。
私は、その瞳がとても尊いものだと感じました。そして、「好き」という足元のおぼつかない感情を自覚することになりました。
一週間程天気がくずついていましたが、今日は気持ちのいい快晴です。玄関先に植わっている草花もたっぷりと水を吸ったのか、いつもより艶があるような気がします。
中心が淡い紫色の花は、彼が持ってきてくれたものでした。なんでも、彼のお母さまのお庭から株分けしたものなのだとか。貰っていいのか確認したときは照れ臭そうに、余って困ってるんだといいました。お花ってそんなに余るようなものかしら。彼の照れ隠しが可愛いので、何も気づかないふりをしてあげました。思い出すと愉快な気持ちになります。
上機嫌で店に行き、いつもの通りに仕事を進めていました。今日は新しい生地届いていたので、それを目立つ所に置く作業からスタートです。
あの色はこの棚に、この色とその色を隣に置くとくすんで見える。きゃいきゃいとはしゃぎながら作業を進めます。こういうときに一番楽しそうなのは、一番若い子です。楽しそうな様子を見ながら、入ったばかりの事を思い出しました。
お昼も終わり店の前の通りの人通りが増えてきた頃、一人の女性がご来店されました。髪を一本で縛った姿は少し威圧を感じる程でした。
「失礼、この店で女物のスラックスを扱っていると聞いたのだけれど、あるかしら? 」
私に話かけた声は想像したよりも威圧的でなく穏やかな礼儀正しいものでした。
「申し訳ありません、当店での取り扱いはございません。オーダーメイドという形であればお作りすることは可能ですが……」
「あら、ようやっと動きやすい服が買えると思ったのだけれど、まぁいいわ。作る場合はいくら位かかりますの? 」
それから採寸し、生地を選び、とオーダーの内容を固めました。できるだけ早くという注文を受けました。専属デザイナーを通すと時間がかかってしまうことは明白でした。店の上司と相談し、このお客様については私のデザインでお作りすることになりました。
上司はオーナーに連絡を取るため事務室に引きこもり、私は出来るだけ早く品物を仕上げることになりました。
それから四週間、驚くほどの忙しさになることをこの時の私は知らなかったのです。
初めの五日は、一人目のお客様の品物をお作りしました。お客様はとても気に入ってくださったようでした。またお願いするわ、と言っていただいた時、心の底からこの仕事をしていて良かったと思いました。
それから、三日と経たず別の女性がご来店されました。翌日にはまた別の女性が、またその翌日には、最初にスラックスをお作りしたお客様のご紹介で女性が二名、と立て続けにスラックスを求めるお客様がいらっしゃいました。
上司はオーナーと話し合いを進めていますが、まだ専属デザイナーにデザインを作らせるつもりはないようでした。その結果として、私のデザインを使い続けることになります。
異常な程の忙しさでした。しかし、この忙しさは私のやろうとしたことが意味のあることだと証明するものでもあったのです。求められていないと言われた動きやすい服が、求められている。求めるお客様はお話を聞く限り良家のお嬢様でしたが、働かれている方です。
あるお客様は仕上がったものを見て、次のパーティーに着ていけるわとおっしゃいました。オーナーが商品化を渋った理由が次々に潰されていく。証明されていくのです。
デザインや作成を取り仕切る関係上、店の奥の工房に籠りきりになることも多くなり、彼と会う時間がほとんどなくなりました。それでも、会いたい日はアトリエまで行って、明かりが漏れていれば偶然を装って立ち寄りました。ミルクがたっぷり入って、少し多めにはちみつを淹れたハニーカフェオレ、アトリエに顔を出したときに淹れてくれる、いつもの味になりました。アトリエの中はいつもの通り散らかっているけれど、私が座る場所だけはいつも綺麗に整えられています。それが、心がむず痒くなるようにうれしいのです。
玄関先で交わすチークキスはいつもふわふわとした気持ちにさせてくれます。チークキスとした後は何となく照れ臭くなって、お互い笑ってしまうけれど、彼の耳がほんのり色づくのです。
注文が途切れないままひと月が経過しました。一本買われたお客様の多くは、着やすいからと二本目、三本目と追加で購入いただくこともありました。
そしてついに、オーナーが当店に訪れました。オーナーが店に訪れる日は販売員全員が出揃って迎えますが、私は今回は出迎えには参加しませんでした。忙しいのは本当ですが、ちょっとした意趣返しのような気持ちです。きっと上司はそんな私のお遊びを分かっていたと思いますが、何も言わずにいてくれました。
ミシンを動かして、一人工房に音を響かせます。どんなに忙しくとも注文を受けたものに手を抜いたりはしません。最後の工程までしっかりと検品を行います。待針一本残した時点で次はないのですから。
機械音だけ響いて工房に、革靴の音が混ざりました。革靴の音が止まり、手元の影が差しました。
「君のデザインを本採用して、企画を取り行うことにした」
「これは既にお客様に売ってしまっているという事実を鑑みての特例の措置だ」
「今後は、このような勝手な真似は慎むように」
これだけを告げてオーナーは立ち去っていきました。工房の扉の前に立っていた上司が小さくガッツポーズしました。私も笑いました。やりたい事を大手を振って出来るようになったのです。
オーナーが噛んだ企画として扱われるようになってからはスラックスを作る人員が増えました。デザインや最終確認は私が主となって関わりましたが、採寸や作成過程は他の人にもやってもらえることになりました。私はひと月半程走り続けてきたので、少しの休みを貰うことになりました。
休みといっても、二日間です。その間に次のデザインに繋がるインスピレーションを集めて来いというのです。人を休ませる気がないなと直感しましたが、次のデザインも期待されていると思うと嬉しいものです。
仕事を終えて、家に帰ります。オレンジ色の空を見て、少しだけ人恋しくなりました。
そんな時、聞き覚えのある声がします。立ち止まって周囲を探しました。オレンジ色と黒のコントラストの世界で、アーモンドを二粒見つけようと視線を動かすのです。
声が聞こえる方に近寄って、木陰からそっと覗き込みました。
アーモンドを二粒見つけました。しかし、彼一人ではありませんでした。隣には髪を緩く結い上げた女性。仲良さげに談笑していました。偶然会ったから立ち話をしていた、とも取れる様子でしたが、彼と彼女の手にはそれぞれ紙コップが握られていました。彼女は誰なのだろう。きっと彼のことだから、今私が話しかけてもきっと彼女を紹介してくれることでしょう。
でも、私にはそれができなくて逃げるように立ち去りました。
だって、もしフィアンセだって紹介されたらきっと私は立ち直れないから。自分が分かっていた以上に彼が好きなのだと自覚するのが恐ろしくなったからかもしれない。一方的に好きだって気付かされるのが怖かったのかもしれない。
風上に立って彼女に風が強く当たらないようにしていたり、当然のように風に悪戯された髪を整えたり、幸せそうなカップルを体現したかのような様子だったから。そこに私が入り込む隙なんて無かったから。
早足に夕映えのする街を通り過ぎました。どうして涙は自分の意思とは関係なく流れるのでしょう。
二日間の休みの間、あの日の夕暮れの色とカーテンを引いて暗くなった部屋の色を忘れられませんでした。
新しいスラックスは少しタイトに見えるデザインにすることを決めました。色は鮮やかなオレンジにアクセントカラーで青を深くして作った黒。もう一つ、暗いグレーにアーモンドの赤茶色のアクセント。
私の気持ちが落ち着くまで仕事を打ち込むことにしました。このグチャグチャの状態で彼に会ったら、きっと私らしからぬ発言をしてしまうと思ったのです。私は、一人で立ち、束縛を受けず、互いの自由を尊重できる、そんな関係が良いのです。相手の自由を尊重できない、蔑ろにするような関係を望んでいないのです。
鮮やかすぎる位のオレンジの生地を見ていて涙を出てくるのは、きっと色が鮮やかすぎるだけではないのでしょう。
「ねぇ、最近彼と会ってないの? 」
最初にスラックスを仕立ててくださったお客様が言いました。驚いている私をそのままにその女性は言葉を続けていきます。
「私がスラックス新調するって言ったら食い気味に様子を見てきて欲しいって言われたわ、あの子、不安なことがあると露骨に仕事が遅くなるから困るのよね」
そこで、私の顔に気付いたのか彼女は、あら言ってなかったかしら、と上品に首をかしげました。
「私、彼の紹介でこの店に来たのよ。もしかしたら女性もののズボンが手に入るかもしれないって」
その日は、採寸を終え、新しいデザインのスラックスでのご注文を頂きました。引取証にサイトを頂いた際に、その女性の名刺を頂きました。お名前の上には家具デザイナーと書いてあります。
「二人暮らし用の家具が必要になったら連絡頂戴ね。最高のものを揃えて見せるから」
この名刺は大事にしましょう。もし、彼とちゃんと話をする程に気持ちが落ち着いたら、もし、彼にきちんと思いを伝えられたら、もしかしたら彼女にお願いする日が来るかもしれないから。なんて、現実離れした妄想。それでも、大事な宝物のように綺麗にしまっておきましょう。
彼のアトリエに行かなくなって二週間が過ぎました。今や常連さんのお客様には注文が多く忙しいと伝えて頂くようにお願いしました。まだ、彼に会って理不尽な尋問をしない自身がないから。
彼が誰に会おうと私には干渉する権利はない。彼自身に踏み込む権利も持っていない。しれが寂しいなんて思いながら、安心している私がいるのも事実だから。私はずるいのね。
オレンジが赤くなって、影が伸びていく。一人で歩く家路も寂しくなくなった。視線で人を探すこともなくなった。もしかしたら彼が私を待ってくれている、なんて幻想も捨てるべきなの。私と彼の間には本当に何もなかった。ただ、私が好きなだけだったのかもしれない。
歩きなれた道、玄関先が見えてきた時に見慣れた背中を見つけました。
オレンジ色に染まる煉瓦塀、窓のアーチを眺めている男性が一人でポツンと立っているのが印象的です。
「お疲れ様、少しお時間頂けますか? お嬢さん」
こちらを振り向いて、舞台上の登場人物の様にもったいぶって声をかける。
前回あった時よりも、少しやつれたのかしら。アーモンドアイは変わらないのに目の下の隈が際立って見える。
「きっと、君が見たであろう女性についての弁明と、僕について知って欲しい、いや知られる覚悟ができたから、だから甘めのカフェオレがいかがですか? 」
差し出された左手に右手を重ねる。オレンジの時間が過ぎて、紫色の世界が始まりかけていました。
結論から言えば、全て私の思い込みでした。女性についての説明を聴いた時、余りの恥ずかしさに、頭を抱えて穴にでも入り込みたい気分でした。
「まぁ、彼女は医師で、なんなら僕よりも二十は年上で、僕の父の友人の知人の姪御さんって事なんだよね」
彼のアトリエに引き戻り、カフェオレに口を付けている時に行われた女性の説明を端的にまとめるとこうなってしまうのです。ついでのように彼は、あの先生若作りだからねぇ、化粧はもはや芸術レベルだよ、と付け足しました。
「どうして通院を? その口ぶりじゃあ、ここ二、三年の話じゃないのでしょう」
訊いて良い物かどうか、少し悩みましたが後は恥を上塗りするだけなのでいっそ開き直りました。
彼は、言うか言うまいか少し悩んでいましたが、決心を付けたようです。
「僕達が幼い頃に起こった戦争のことを覚えてる? この国ともう滅んでしまった隣国との戦争。戦争が起こっていた当時、僕は隣国に居たんだ。その後、中立を守っていた国の教会に保護されたんだけど、どうしても隣国にいた時に見た光景が蘇ってくる。眠ろうとする度に思い出されて、僕だけが幸せになって良いのかと、責め立ててくるんだ。何年経ったって眠れない」
眠れないと呟いた彼は濃い目の珈琲をすすります。眠れないから、疲れ果てて気絶するまで起きていてしまえとどこか自暴自棄のようなことをずっと続けていたのでしょう。
カフェオレを口に含みました。少し離れた所で、カップを机に置く音が聞こえました。音の方を向くと、彼は中世の騎士のように片膝を立てています。
「もし、君が良ければ、こんな僕と一緒に歩んでみて欲しい。自分で眠ることすらままならい僕と一緒に歩んで見てくれませんか。まずは一年間、お試しで」
一年間のお試し期間につい笑いました。私が頷く自信があるのか、ないのか分からないし、まるで捨てられそうになっている子犬のような目をしているのです。「私も貴方と歩んでみたい。理不尽や不合理の多い世の中を貴方と過ごしたい」
彼に一緒に歩んで欲しいという熱烈な告白を受けてから一年経ちました。お互い束縛を嫌うけれど、相手のことは心配で。それが原因で少し喧嘩したこともあったけど、結局は心配が行き過ぎただけ。意識と行動のすり合わせは、子どもの頃の算数の回答を友達と見せ合っているかのような気持ちになりました。
互いの自由を尊重し、役割には縛られない、この関係は私と彼との間で一番しっくりくるものでした。
今日も、私と彼は公園のベンチで息抜きをします。彼は次の住居デザインで、私は次の服のデザインで煮詰まってしまいました。
空はじわじわとオレンジ色が広がっていきます。
「去年の契約から一年経ちました」
珈琲を飲んでいた彼が徐に言いました。
「もし、貴方が良ければこの契約を更新してもらえませんか? 一年ではなくてもっと長い期間で、期間は貴方に決めて欲しい」
彼の少し赤らんだ顔が可愛いなと思います。その赤身が、彼の血色によるものか夕日によるものか、できれば前者が良いなと思います。
「貴方が良いといってくれると私は信じているのだけど、無期限契約はいかがかしら? 」
夕日の強い明かりの中で、ぽっかりと浮かんだ月が立会人のように、私達を見守っていました。
(2020.08.19)
ニーレンベルギアシリーズ8作品目
戦争が終わった時代は新しい幸せを見つけていく段階になりますね。
彼らは「泡沫でも幸せを」で結婚式を挙げています。
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